地面から立ち昇る熱気とともに自分も蒸発してしまうのではと思うような暑さの中、悠斗は近所のバス停の前に立っていた。赤色のリュックサックを背負っている。耳の後ろからだらりと流れ落ちてきた汗が、また彼の襟を濡らした。悠斗が自分の頭の上に手を置くと、火傷をしてしまいそうなほど熱かった。


 庇も、座れる椅子も無いバス停に、体を冷やす冷涼な風が吹く。しかし、直射日光が当たり続ける悠斗には、その風も焼け石に水のようである。気温は三十五度を超えていた。


 のろのろと走る青色の軽が、エンジン音をたてながら悠斗の前を通過していった。あらゆるところから聞こえる蝉の声が合わさり、合唱のようになって辺りに反響している。再び、汗が目の横を流れ落ちた。


 悠斗は、父から借りた腕時計に目を向けた。そこには今日の日付も示してあり、七月三十日、となっている。腕時計をつけるのは初めてなので彼の気持ちは少し高まっており、ほぼ一分おきくらいで腕時計を覗いていた。しかし、見る度に彼の顔は不安に少しずつ曇っていっている。


「おかしいなぁ……。あと五分でバス来ちゃうんだけど……」


 今日は、悠斗が待ちに待った二人で海へと行く日である。ワクワクして目が冴え、遠足の前日のように寝れなかった彼は先ほどから欠伸を繰り返していたが、今は不安そうな顔でポールに貼られている時刻表と、絵里が歩いてくるであろう方向にそれぞれ目を向けていた。


 そわそわしながら彼は待ち続けたが、無情にもバスの来る時間は近づいてくる。流れる時間とともに彼の不安は増大していき、時計を見る頻度も上がっていく。目の前をまた車が通過していった。


「あと二分しかない……! もし来なかったらどうしよう……」


 とうとう彼は立ち上がりぐるぐるとポールの周りを回り始めた。しかし、そんなことをしても絵里が来るわけではないことに気づき、止まる。そしてまた絵里が来る方向を凝視し始めた。そもそも友達とだけでどこかに行くなんていう経験が今までにないので、彼はとても焦っていた。


 だから後ろから近づく足音にも気が付かなかったのだろう。


「おはよう」突然声をかけられ、悠斗は体をびくっと震わせてすごいスピードで体を反転させた。


「びっくりした! って、なんだ絵里ちゃんか……」


「なんだって何」


 悠斗は襲われたのかと思い身構えたが、目に入ってきたのは見慣れた幼馴染の姿だった。しかし、悠斗が驚いたのはそこだけではない。


「なんか、いつもと違う格好だね」


「んー、そうだね」


 絵里は、学校に行くときよりも厳重な日焼け対策をしていた。日傘はもちろんの事、太ももまで伸びる靴下、いつか母が着けているのを見たアームカバーと全力で日焼けを回避するファッションである。彼女は黒いカバンを肩から掛けていた。


「日焼けすると本当に痛いからね」頬を掻きながら絵里は言う。その白い肌に日光は全く当たっていない。悠斗はふーん、と相槌を打ち、「遅かったけど大丈夫だったの?」と訊いた。


「いやー……。道に迷っちゃって。ごめんなさい」絵里は律義に謝る。


「あ、だからそっちから来たのか。いいよいいよ、まだバス来てないし」家から徒歩十分圏内で道に迷う絵里に少し驚き、なんとなく悲しくもなったが、その感情はひた隠しにして悠斗は言う。


 話がひと段落すると、それを見計らったようにバスがゆっくりと走ってきた。黄色に赤のラインが入った車体で、この辺りをよく走っているバスである。前面の上部には終点駅を告げる紙が入っているが二人とも知らない地名だった。


 ぷしゅう、という音を出してドアが開く。中にはほぼ人がおらず、前の方でおじいさんが窓を枕にして眠っているだけだ。二人はバスに乗り込んで整理券を取り、一番後ろの席に並んで座った。運転手は入ってくる子供をミラー越しに一瞥すると、絵里の姿に驚いた表情を見せた。しかしすぐに前を向き、横のボタンを操作する。また音を立ててドアが閉まった。


 バスは走り出し、見慣れた景色は流れていく。悠斗はそれを見ながら、小さな欠伸をひとつした。




「……結局、お父さんには言ってないってこと?」


 ゆったりと走るバスに揺られながら、悠斗は絵里に訊いた。お父さんがどう、という話はまだ悠斗には話していなかったため、改めて説明する。「うん」と絵里は答えた。悠斗は窓際に座っているが、絵里は真ん中の席に座っていた。窓から入ってくる日光を避けるためだ。


「まだお父さんは仕事があるから、五時までに帰れば全然オッケーだよ」いつも帰ってくるのは六時より後なので、もう少し遅くても大丈夫なのだが、万が一を考えて帰宅時間は早く設定した。


 悠斗がまた腕時計を見ると、現在時刻は一時半過ぎ。頑張れば四時にでも戻って来れる時間だった。


「ここから海まであと三十分ぐらい……。遊んで帰っても大丈夫かな」と悠斗は呟く。


 絵里は座席に膝立ちをし、次々と変わる景色を興味深そうに眺めていた。目をキラキラと輝かせている。この辺りの公共の移動手段はバスぐらいしかないので、悠斗は何度も乗ったことがあったが、絵里にとっては何もかもが新鮮なのだろう。


「……何ニヤニヤしてるの?」絵里は前を向くと、怪訝そうに悠斗に訊いた。


「え? 僕ニヤニヤしてた?」悠斗にその自覚は無い。




 二人の間に流れる和やかな雰囲気を積んで、バスは静かな道を駆けていく。途中で前に座っていたおじいさんが目を覚まし、寝ぼけた顔で窓の外を見ると焦ったように降車ボタンを連打していた。どうやら寝過ごしたらしいということは想像がついたが、二人は気の毒そうに遠巻きに見ているだけだ。


 二人はいつものように他愛ない話を続けたり、窓の外を景色を無言で眺めたりした。無言の時間も、そこにはどこか心地よい空気が存在していた。出発してから時間が経ったからか、絵里はもちろん、悠斗も知らない場所だ。


「ん、あともうちょっとじゃん」悠斗は時計と路線図を見比べながら言った。


「え、もうそんな時間? 意外と早かったね」楽しい時間は早く過ぎるものである。


 離れたフロントガラスを見ると、お目当ての青い海はもうすぐそこだった。波がさざめくたびに、燦々と輝く日光が反射している。絵里は初めて見る海を驚いた風に見つめ、悠斗はそんな絵里の顔を嬉しそうに眺めていた。途中でふと思い出し、降車ボタンを押す。つぎとまります、という機械的な女性の声が響いた。




「んー! 着いたー!」悠斗は駆け足でバスを降り、伸びをしながら言った。パキッと小さな音で骨が鳴る。後ろから絵里がそろそろと降りてきて地面に降り立つと、客がいなくなったバスは乾いたエンジン音を立てて走り去っていった。果たして今からどこへ向かうのだろうか。二人には想像がつかない。


「これが海の匂いなんだ……。初めて嗅いだかも」と絵里はカバンを持ち直しながら呟いた。緩やかな坂を下った先には、夢に見た青い海がある。風が吹く度に、海の生暖かい、体の中まで包み込むような匂いが鼻腔をくすぐった。


 悠斗はもう一度バスのダイヤを確認すると、帰りの時間を照らし合わせる。やはり十分に余裕があったので安心した。


「早く行こうよー!」もう数メートル先で絵里は悠斗を呼ぶ。悠斗は元気よく返事をし、駆けだした。夏の、暴力的にも感じる日光が、海に、悠斗の黒髪に、絵里の日傘に、反射した。

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