考えておくよ、と絵里は言ったものの、何か考えているわけではなかった。


 ぼんやりと、やっぱり外に出るにはお父さんの目を盗むしか無いかなー、と思っていただけである。


 実のところ、悠斗の誘いに乗るかどうかも未だに決めかねていたし、行くとしてもどうせ夏休みになるだろうと思うので、今すぐに決断する必要もないと考えていた。そして、その日の残りをぼんやりと過ごし、あっという間に夜九時である。よい子はもう寝る時間だった。


 そんなことを考えながらベッドに入ったので、意識はすぐに手の届かない彼方へ飛んでいきそうになった。絵里は心地よいその流れに身を任せ、ゆっくりと夢という海原へ沈んでいく。下へ下へと降りていく意識の中で、幸せな夢が見れますようにと願った。




 意外にも、決断の瞬間は絵里の予想より早く訪れることとなる。


 あの日から一週間ほど経ったある日、いつものように悠斗と絵里が実のない話を続けていると、悠斗が突然言った。


「海行くか決めた?」


「え、まだだけど……。なんで?」


「いや、もう時間ないし」


 時間って何のことだ、と絵里は思い、教室の前に掲示されているカレンダーを凝視し、今日の日付を見つけ、驚いた。


「明明後日から夏休みだよ?」


「……ホントだね」


 彼女が知らないうちに、すぐそこまで夏休みが近づいていたのである。が、絵里がそれより驚いたのは、自分がその始まりがいつかも知らないほど夏休みを楽しみにしていないという事実であった。そんなにもうすぐならクラス中その話で持ち切りのはずなのだが、周りの事に関心が無い絵里はそのことにすら気付いていなかったようだ。


 夏休みに入れば、父が家にいる。そうなると、あまり大っぴらには悠斗と遊ぶことができなくなる。彼と話す時間が生活の一部に入り込んでいる絵里にとって、それは由々しき事態だった。


「もう夏休みかー。楽しみだねー」夏休みなど頭の片隅にも無く、そして全然楽しみでもないことを隠すように絵里は言った。多少棒読みになってしまったことは致し方ない。


「そうだね! 今年はどこに行くのかな。プールか……旅行とかもいいなー」しかし悠斗には絵里の話し方の異変は分からなかったようで、希望に満ちた顔で話を続けた。絵里の前であっても、どこかに出かける話を普通にする悠斗の性格が、絵里は好きだった。


「いや、この話じゃなくて……。あ、そうだ、海の話だよ。本当に時間ないよ」思い出したように悠斗が言った。


「うーん…………。分かった。明日か明後日までには決めるよ。だから悠斗くんは時間とか決めておいて」


「ラジャー!」


 そう答える悠斗の浮かべた笑顔が不思議と目に焼き付き、絵里の心のどこかに引っかかった。行くかどうかも決めていないのに予定を立てようとする悠斗は、心の底から楽しそうだった。




 その夜。家に帰り着いた絵里は、また今日も広い家に一人である。母と会っていない期間は、一か月を超えた。そんな日々も、もう随分前に慣れたものだ。それが良いことなのか、彼女には判断がつかない。彼女はいつものように勉強をしていた。


 早く決めないとなー、と思いつつも、のうのうと勉強している自分に嫌気がさす。どうせ父に訊いたところで「駄目だ」と一蹴されるに決まっているのだから、自分自身で考えなければならない。絵里は大きく空気を吐き出すと、持っていた鉛筆を置いた。この時点で、絵里の頭に「お父さんの言いつけを守らなければいけない」なんて考えは無かった。


 それでも、彼女はまだ迷っている。かなり前のトラウマがあるからだった。父が過度に厳しくなったのもその事件のせいだ。目を閉じて、その時の記憶を呼び覚ます。


 数年前のこの時期、絵里は生まれて初めて家族で旅行に出かけていた。珍しく母が三日間の休みをもらった時だった。二泊三日でいろいろな観光スポットを巡り、色んな場所で遊んだ。もちろん室内がメインだったが、ただひたすらに楽しかったことを覚えている。ことは最終日に起きた。


 無邪気に遊び、浮かれていたのかもしれない。最後に何か買って帰ろうと寄ったショッピングモールに、大きめの公園がついていたことが運の尽きだった。


 ここまで書けば既にお分かりだろうが、その時絵里は両親の忠告を守らずそこで遊んでしまったのである。しかも晴天の中、半袖で。その結果、日光に弱い彼女の真っ白な皮膚には赤く大きな水ぶくれが三つでき、同じく赤い顔をした父に烈火の如く怒られることとなった。


 その時から、父は絵里が外に出ることに異常に厳しくなり、どこへ行くにも日焼け止めを塗り、日傘を差させることを徹底した。母は呆れたように「私が子供の頃は水ぶくれなんてしょっちゅうできてたわよ」と言ったものの、父は聞く耳を持たず、そして今に至る。


 絵里がかなり幼い頃なので記憶はおぼろげなのだが、怒られたときの父の鬼のような怖さは、今でも彼女の身に染みついていた。


 目を開けると、背後に父がいるような気がして、思わず振り返った。もちろん父の姿はない。


 絵里は悩んでいるわけだが、携帯で誰かに相談できるわけでもなく、親に相談できる状態でもないため、結局いつものように一人で決めることとなる。そして彼女は、意外とサバサバした性格だった。


 ふう、と息を吐いてベッドに寝転がった。木製の寝床は、突然の仕事に驚いたように少し軋んだ。絵里は天井の染みを数えながら、小さな声で呟いた。


「まあ……、行こうかな」


 この決断が、未来の二人に大きな悲劇を与えるなんて、そんな話でもない。現在の絵里にも影響は与えない。遠くの方で、ドアの開く音がした。絵里は立ち上がった。それもいつもの事だった。


 帰ってきた父と今日も言葉を交わしたが、大して面白い話でもなかったため、もう絵里は覚えていない。少し眠いのが原因かもしれないが。テレビを見ているときも、風呂に入っているときも、歯を磨いているときも、意識は宙を揺蕩っていた。


 ぼんやりとした体で自室に戻ってくると、彼女はどすっと音を立ててベッドに倒れこむ。先ほどよりも大きな音でベッドは軋んだ。そのまま彼女はゆっくりと目を閉じる。いい夢を見られるように、と願おうとすると、数日前にも同じことを考えたことを思い出した。その日はどんな夢を見たか記憶の糸を手繰るが、その糸は途中で切れていた。




 あっさりと決まったこの計画だが、実はかなり欠点がある。そのうちの一つは、わざわざ日差しの強い夏に行く事だ。泳ぐわけでもあるまいし、冬に行けばいいものを、そこまで頭が回らなかった様である。


 とどのつまり、この計画自体詰めが甘かったのだ。


 だが二人とも、それに気付いていない。あるかどうかも分からないミスを自分だけで見つけられるほど、人間は優秀な生き物でもない。それで二人を愚かだと責めるのも、酷であるのだろう。


 その先の日々は、悠斗にとって飛ぶように過ぎていったように感じた。絵里と一緒に出掛けられるということだけで、彼の心は浮き足立った。しかし絵里にとっては、そうではない。もちろん楽しみでないわけはなかったが、日に日に父への罪悪感で押し潰されるようであった。それでも誘いを断らなかったのは、好奇心からだろうか。


 二人の思いは交錯することもなく、時間は過ぎていく。


 誰も知らない小さな冒険が、始まろうとしていた。

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