鎖
悠斗はいつものように、絵里はモヤモヤを抱えて眠った次の日のこと。二人は学校に着く前に再会することができた。
彼らが住む村には学校がないため隣村まで歩いて登校しなければならないのだが、その途中でたまたま会えたのだ。二人はその偶然に少し驚いたが、「おはよう」とどちらからともなく挨拶を交わし、一緒に登校し始めた。
通う学校がある村もまた田舎であり、通うのは一つの学年に一クラス、約二十人とかなり小規模なものだった。四つの村が合併したのにも関わらず、全校生徒は百十三人。農村の過疎が心配される数字である。
だが、まだ幼い子供たちがそんなことを心配するはずもない。校庭では早くやってきた生徒が遊具などで楽しそうに遊んでいた。
悠斗と絵里も校門をくぐると、一つしかない三年生の教室へと向かう。
新しい一日が、また始まった。
「この文章の中には、文と文をつなぐ言葉はいくつあるでしょうか?」
四時間目の国語の時間の事だ。それまでの時間は何も起きず、君たちが今想像しているような風景が長い間続いていたので割愛する。今日の授業は「しかし」や「だから」のような文をつなぐ語についてだった。先生の質問にパラパラと手が上がるが、悠斗の目には映っていない。机に突っ伏し、何やら念仏のようなものを唱えている。
「超お腹空いた……。まだ四時間目だ……」
いつもの事だった。悠斗は時計を見て、また絶望する。四時間目が始まって十分しかたっていなかった。今なら悟りを開いて仏になれるような気がした。
一方、絵里はかなり真面目に授業を聞いている。こっちにはよく見えないっていうハンデがあるんだから、授業だけはちゃんと聞いておきなさい、とよく両親(主に父親)に言われていたからだ。
二人の授業態度の違いはこの通り歴然だったが、それが成績に比例するわけではない。それが世の中の非情なところである。
悠斗は生まれつき、何かを学ぶことに関しては群を抜いて得意だった。国語や算数などの学校で習うような勉強はもちろん、世界の国旗や新幹線などにも興味を示し、その知識量は並の大人を軽く凌駕する。本人に言わせれば、「なんか覚えようとしたときに頭の中が空いてるんだよねー」ということらしい。
絵里はその才能に嫉妬しないでもなかったが、それで腐らず勉強し続けるところが彼女の性格を体現しているといってよいだろう。
そういう理由で、二人は幼馴染でありながら、互いを高めあうライバルであるということだ(悠斗にその自覚はないのだが)。
その後も国語の授業は続き、悠斗は時間とともにミイラと化していくような気分の中で、ようやくチャイムが鳴った。悠斗は心の中で歓声を上げ、終了の挨拶もそこそこに、先ほどのへばり具合が嘘のように颯爽と給食の準備を始める。さらに、当番である彼は誰よりも早く給食用の白衣に着替え、「早く準備してー」とクラス中に呼びかけるものだから、クラスメイトの何人かと担任の先生は苦笑していた。
「そんなに張り切らなくても……。そんなにお腹空いたの?」と訊いたのは絵里である。
「そりゃそうだよ! 絵里ちゃんもお腹空いたでしょ?」
「うーん……。まあ、空いてるけど、そんな早く食べたくてうずうずするほどじゃないよ」絵里は楽しそうに質問する悠斗に、優しい眼差しを向けて言った。
食べ盛りの小学生にとって、食べる時間は多ければ多いほど嬉しい。だから、給食を運んできて配膳した後、悠斗を含む何人かの男子は、時間を目一杯使い、ひたすら食べ続けるのである。
絵里もたくさん食べるというわけではないが、特別嫌いな食べ物もないため、黙々と味噌汁をすすっている。
腹を空かせながら受ける授業も、黙々と食べる給食も、二人の大切な生活の一部なのかもしれなかった。
二か月前まではぽかぽかとした陽気で、給食後ということもあり睡魔と戦うしかなかった昼休みだが、梅雨も明け、ここ最近はどうやら太陽が本気を出してきたようで、寝るどころではなかった。ひたすら鳴き続ける蝉の声もその暑さを加速させ、冷房もない教室の中はまるで温室のようである。
教卓の前の席では、下敷き片手に話をする悠斗と絵里の姿があった。
「暑いねー」
「暑いよー」
もうそれしか出てきていない。
流石にそれだけでは昼休みを無駄に浪費すると思ったのか、それとも昨日の家での会話を思い出したのか、悠斗はふと絵里に問いかけた。
「ねえ、絵里ちゃんって、外出てみたいと思ったこととか無いの?」
絵里は少し考えつつ、「それはまあ、あるかな」と答える。
「海も山も行ったことないし。この辺、結構自然いっぱいなのに勿体ないよね」
「ふーん、やっぱり外出たいんだ。海もここから近いし、僕は山とか空き地で虫捕りしてるけど……あ!」
どうやら悠斗は何かを閃いたようで、ニヤリと口の端を上げた。よく使われる陳腐な言葉で言うなら、絵里はこの時、嫌な予感がした。人が何かを閃いてニヤッとしたとき、それが有益な提案であることなんてまずない。すべての世界におけるルールである。
「……どうしたの?」絵里は戦々恐々としながら訊いた。
「海だよ、海! 海行こう!」悠斗は興奮したように叫んだ。クラスにいた数人が一斉に顔をこっちに向けた。
「はあ。いってらっしゃい」
「いやそうじゃなくて、絵里ちゃんも行くんだよ!」意味が分からず、気の抜けた返事をした絵里に、悠斗は一緒に行くのだということを説明した。
つまり、ほとんど外に出られない彼女に海を見せてあげようという計らいだったのだが、返ってきたのは「いや、外はちょっとね……」といういつもの返事であった。
いつもの悠斗であればここで気を遣い手を引くところであったが、「外に出たい」という絵里の気持ちを聞いた彼はもう少し粘る。
「けど、海行ってみたいでしょ? 海見てみたいなあ、とかこの前言ってたじゃん」記憶力のいい彼は、一か月前の事をかなり鮮明に覚えていた。
うぐ、と絵里は心の中で呟く。もしかしたら口にも出ていたかもしれない。確かに自分の目で見たことはなかった。ほんの少しだが、海なんて本当に存在するのかどうか疑う気持ちもある。だが、そんな話を悠斗の前でするべきではなかったな、と感じた。
「言ったかもしれないけど、それとこれとは話が違うでしょ。宝くじ当たれ、と願ったところで当たらないのと同じだよ」
「海は宝くじではないよ」
その通りだった。的を射ていない例えである。
「行きたいなら行けばいいじゃん。もっとこう……自分の気持ちに正直にならないと」と悠斗は言った。「楽しく生きたいしさ」と。
その瞬間だけ、絵里には悠斗が自分より大人に見えた。気がした。
何か言葉を返そうと思ったが、その「何か」が見つからない。三秒ほどの沈黙の後、何とか言葉を絞り出し、「いや、でも、お父さんが……」ともごもごとした声で言った。
「またお父さんだよ。僕は会ったことないけどさ、そんな言いなりにならなくてもいいんじゃないの? 絵里ちゃんは人形なんかじゃないんだよ」
悠斗は、かなり思い切って言葉を発し、絵里の望みを叶えてあげようとした。だが、それが絵里の体の中で反響し、心の周りに張られた膜を破ったかと言われれば、そうではない。
人が大きく変わるには、相当の労力と時間がかかる。絵里にまとわりついていたのは、「膜」なんかじゃなく「鎖」であり、それはたとえ幼馴染が心を込めた言葉であっても、その一瞬で解けるような、軽い「鎖」ではなかった。
「うーん……。でもこの季節に海なんて行かせてくれるわけないし……。行ってみたい気持ちも確かにあるけど……」
だが、完全に無意味というわけでもなかった。悠斗のその言葉は、絵里が「父への迷い」と「好奇心」という
「行こう! やっぱりそれがいい!」
しかし、そのタイミングで昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってしまったため、話はそこで打ち切りとなってしまった。四時間目のときは神の恵みのように思えたこの音だったが、今となっては邪魔な雑音でしかない、と悠斗は思った。
その後、特に二人の間では会話もなく五、六時間目は終了した。今度は悠斗も半分くらい真面目に授業を聞いていた。そして今日の学校生活もあっけなく終わり、二人は家路につくことになる。灼熱の日光で熱された道の隅から隅まで、蝉の煩い鳴き声で染まっているようだった。
沈黙を楽しむ、なんてできるはずのない小学生にとって、帰り道はいつも騒がしいものだ。この二人も、昼休みの会話など朦朧とする暑さの中での白昼夢だったのではと思われるような、中身の無い、それでも大切な話を続けていた。だが、二人に大切だという認識はない。将来、そう思うかもしれないだけだ。
どうでもいい話をしつつも、昼休みの事を本当に忘れているわけではない。悠斗も絵里も、心の片隅ではそのことを考えていた。ただ、二人とも何となくではあったが、もう一度その話をしたところであまり意味がないのではないかと感じていた。
結局、決めるのは絵里なのである。他人がどうこう言ったところで本質の解決にはなり得ない。
学校からは絵里の家の方が近いので、二人は途中で別れることとなる。悠斗はまだここから十分ほど歩かなければならない。「いいなー、家近くて」と冗談めかして言うと、「大して変わらないでしょ」といつもの返事が返ってきた。悠斗は少し舌を出した。
じゃあね、と挨拶を交わし、二人は別々の方向に歩いていく。絵里はふと立ち止まり、音を立てずに振り向いた。そして、早歩きで去っていく悠斗の背中に、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。
「海、考えておくよ」
届いたかどうか定かではないが、悠斗の首が少し前に傾いたように、絵里には見えた。その表情は、笑っているのかもしれない。
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