あなたの一日には楽しいことが無いですか、と絵里に尋ねれば、そんなことはないと答えるだろう。


 絵里にとって悠斗と話す時間は至福だったし、学校も嫌いではない。


 だが、あなたは十分幸せですか、と訊くと、彼女は言い淀むと思う。


 学校では普通の学級にいるが、その見た目が原因であまり友達はいないし、家にいても両親は共働きなため悠斗が来ない日や帰った後は一人で遊んだり、テレビを見たりしていた。


 悠斗の知らない、家の中。


 絵里はもう一つの「日常」に戻ろうとしていた。




 辺りを田んぼで囲まれている中、堂々とした風格を放つ松原家。百二十坪の土地を有し、一戸建ての中でもかなり大きな部類に入るだろう。屋根は昔ながらの瓦であり、壁は漆喰で白く塗られている。


 その中には、この家の大きさとは不釣り合いなのではと思ってしまうほど小さな女の子がいた。玄関から入り、廊下の突き当りを曲がってすぐの八畳の部屋で、彼女は机に向かって勉強をしていた。


 静かな部屋に、カリカリと鉛筆を滑らせる音が響いている。


 絵里はアルビノであるが、普通学級に通っているため、一番前の席でも黒板が見えないことがあった。そんな時は、家でその部分を復習し、他の人に後れを取らないようにと心がけているのだ。その甲斐あってか、現時点では絵里は上の下くらいの成績をキープできていた。


 放っておけば何色かに染まってしまうのではないかと思えるほど神秘的な白い髪に、蛍光灯の弱い光がキラリと反射した。


 絵里にとってはそこまで難しくない問題だったので、復習はものの三十分ほどで終了した。小学生レベルの問題なんて、生きていれば勝手に解けるようになるわ、と快活に言っていた母親の姿を不意に思い出す。


 今頃何をしているのだろうか、と絵里はふと考えた。ざっと数えて三週間は会えていない。


 母は何やら多忙な仕事をしているらしく、今回のように数週間会えないことも珍しくは無かった。父によるとどうやら夜中には帰ってきているようだが、なにぶん時間が遅すぎるため絵里はいつも就寝している。


 別にそれで泣き喚いたり、しんみりして勉強などが手につかなくなったりするほど絵里は子供ではなかった。周りとは違う体に生まれ、両親には迷惑をかけっぱなしだったため、早く帰ってこいと言ってさらに母を困らせるわけにはいかない。何の仕事をしているかは知らないのだが。


 そんなことを考えていると、少し遠くでガチャリと音がした。どうやら父が帰ってきたようだ。時計を見ると六時三十分前、妥当な時間である。絵里は伸びをして立ち上がり、ドアを開けて外に出た。


「ただいまー」と帰ってきた父は、この古風な家に合う和服を着た貫禄のある人物――ではなく、黒いスーツを着用し、眼鏡をかけたアラサー然の男性であった。髪の色は黒い。彼はそのまま、靴も脱がずに玄関に座り込んだ。


「おかえり。ちょっとお父さん、立って。この前みたいにそこで寝られたら困るんだけど」絵里は廊下を歩いてきて言った。


「いや、父さんは疲れてるんだ……。それに、今日はここで寝たりしないよ」と参ったように言うが、絵里はまだ心配そうである。


 あれは一昨日のこと、母がいない日はいつも早めに帰ってくる父が珍しく八時に帰ってきた日だった。父がなかなか帰ってこないので、絵里が流石に心配になり、リビングでそわそわし始めた頃、ガチャとドアの開く音がした。


 絵里はサッと歩き出し父を迎えに行ったのだが、もう既に手遅れであり、父は情けなく玄関に倒れ眠り込んでいた。


 その時は絵里もかなり戸惑ったものである。


 どうやらかなり疲れているらしいと判断した絵里は頑張って寝室に運ぼうとしたのだが、小柄な彼女に父は背負えず、引きずっていこうにもなんだか痛そうに見えたので諦めて起こした。


「あの時はすごい大変だったんだから。全然起きなかったし」その後耳元で話しかけたり、揺さぶったりして起こそうとしたが、いつの間にそんなに深い眠りに落ちたのか全く目覚めず、結局起きたのは帰ってきてから三十分後だった。


「あはは……。まあ、今日は大丈夫だよ。晩御飯の準備しよう」父はようやく立ち上がり言った。


「うん!」絵里のお腹はペコペコである。




 父親が作った美味しい炒飯を食べながら、絵里は窓の外を見ていた。


「雨、降ってきたね」


「ん、そうか。お父さんが帰ってきたときは降りそうじゃなかったけどな」


 小雨ではあるが、このまま数時間は降り続きそうである。どんよりとした分厚い雨雲が空には浮かんでいた。だが、こんな遅くから外に出る用事もないので、二人には関係ない。


 父は話題を変えた。


「今日の学校はどうだったんだ?」


「別に普通」


「毎日それしか言わないじゃないか」


「だって言うことないんだもん」お決まりの会話である。そんな事件だらけの生活送ってないし、と絵里は心の中で付け加えた。


「同じことでもいいんだ。大事なのは話すことなんだから」父は今日も言うが、


「うーん……」となかなか絵里は思いつかない。


 十秒ほど待ち、まだ思いつかいない絵里を見て、父は「じゃあ、明日何があったか教えてくれよ」と苦笑いしながら言った。


 うん、と返事をしつつ、もう既に何と言うかを考え始める絵里。明日も何もなければとりあえず捏造するつもりである。もしかしたらこう言ったこと自体を父が忘れているかもしれないが。


「お父さんは仕事どうだったの?」反撃、というわけではないが、絵里は気になったので訊いた。


「ん? いや、まあ……。仕事の話をしても分からないだろ」


「何それ。不公平じゃん。私も言うんだから、お父さんにも言ってもらわないと」恋バナのようなノリで強引に聞き出そうとする絵里だが、


「まあまあ……。頑張ってきたよ。というか絵里は何も言ってないだろ」と露骨にはぐらかされた。絵里は少し負けた気分になったが、そこまで気になることでもなかったのでそれ以上は追及しなかった。残り少ない炒飯を口の中に入れ、「ごちそうさまでした」と呟く。




 晩御飯を食べ終え、二人はテレビを見ていた。しかし、その内容は絵里には全く届いていない。彼女は、とうとうこんな時間にまで引きずってきてしまったと憂鬱になっている最中だ。自分を責めたが、状況は何も変わらなかった。だが、今言わなくてもいずれは気付かれることだ、と言い聞かせる。


 絵里は人の気持ちも知らずテレビを見ている父に、できるだけ不自然にならないように言った。


「あの、お父さん」


「ん?」


「虫さんを飼ってもいい?」今ここに母がいればな、と心から思った瞬間である。


 父はその突然の言葉の意味が分からなかったようで、


「え……、虫?」と驚いていた。


 絵里はこのまま動揺しててくれれば助かると思ったが、そう上手く進むはずがない。元から感情の振れ幅があまり大きくない父である。その顔からすうっと驚きが消え失せると、「なるほどね。そういうことか」などと独り言を言い始め、しばらくすると絵里の目を真っすぐに見てこう言った。


「今日も、あの子来たんだな」そういう父の目は、先ほどとは比べ物にならないほど厳しさに満ちていた。


「あの子じゃなくて、悠斗くんだよ」


「そんなことはどうでもいい」その口調も、人が変わったかのような重たい響きがあった。父は、はぁ、とため息をつきながら言う。


「別にあの子は悪い子だと言ってるわけじゃない。彼は、絵里にもよくしてくれてるんだろう? うちは差別や好機の目を向けられることもよくあるからな。その部分じゃあ、あの子は知り合った時から普通の子と同じように接してくれてたし、すごくいい子だと思う」お決まりの話である。


「うん……。それはすごく嬉しかったよ。でも、その言い方じゃ私が普通じゃないみたい」普通の子、とはいったい何を指すのか、絵里にはよく分からない。


 だが、すぐに「絵里は普通では無いだろう」と父に言われたので、少し悲しくなった。


 自分が普通じゃないなんて、そんなこと、自分が一番よく分かっている。


「あの子がうちに来て、絵里と喋ってくれることもすごく嬉しい。それは絵里も同じだと思う。だけどな、いつも言ってる通り、お前が外の事について興味を持ちすぎるのは、あまりよろしくない事なんだよ。分かるよな?」


 その言葉は、物心ついた時から幾千幾万と聞いてきた言葉だった。


 父はまだ続ける。


「その虫を飼う、っていうの、彼が何かの虫をくれたんだろう。絵里を気にかけてくれるのは嬉しいけど、それは外への興味に繋がる。今から返しに行けとは言わないが、これから先、何か貰うときは俺に言え。じゃないと、あの子との交流を禁止しなきゃいけなくなる」


 父の言葉を聞き流しながら、今ここに母がいればなぁ、と絵里はまた思った。このお父さんを、優しくなだめてくれるかもしれないのに。


 「うん……」と小さな返事をした。「今から返してこい」とか「外に逃がせ」と言われなかっただけましである(そう言われれば反抗するつもりだったが)。


 その後、居間には水を打ったような静寂が訪れ、外で蝉の鳴いている声が間抜けに響いた。いつの間にかテレビは消えている。父は緩慢な動きで立ち上がり、「お風呂入ってくる」と一声かけて廊下に出て行った。一人残された絵里は、ただぼうっと座っているしかない。


 時刻は午後八時を回っている。




 これが彼女の日常だ。こんなことを言われながらも、絵里は父の事が嫌いではなかった。「外」に異常な反応を見せること以外は、いいお父さんだからである。料理もうまいし、話していて楽しいといつも思う。絵里ができるだけ「普通」の生活を送れるよう、最大限の努力をしてくれているのも知っていた。


 風呂に入って歯を磨き、父におやすみを言って自分の部屋に戻ってきた絵里は、ふと机の上に置いた虫かごに目を向けた。その中に入っている虫が、一瞬自分に見えた気がした。

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