団欒

 いつものように絵里の家に行き、カミキリムシをプレゼントし、たわいのない会話をしたその後。十分ほど歩き、悠斗は家に帰り着いていた。


 飽きるほど見たいつもの光景。悠斗が生まれる一年前に父の転勤でここに引っ越してきたらしく、この家はその時に建てられたそうだ。つまり十年前であり、古い家が多いこの辺りでは比較的新しい方だった。


 重厚感のある薄茶色の屋根に白い外壁、二階建てで屋根付きのテラスもある、割と大きめの家。表札には「今井」とある。


「ただいまー!」と悠斗が大きな声でドアを開けると、奥の方から「おかえりなさい」と母の声が聞こえてきた。何やらソースのような美味しそうな匂いが漂ってくる。


 こんな時悠斗がすることとは決まっていた。ダッシュで廊下を駆け抜け、キッチンにいる母に、「お母さん、今日のご飯何?」と尋ねることだ。


 フライパンを火にかけサラダ用の野菜を切っていた母は、いつものようにドタドタと走ってきた息子に笑いかけ、こう言った。


「今日は悠斗の大好きなハンバーグよ」


「やったー!」と叫び、興奮のあまり飛び跳ねていると、ソファーから聞き慣れた声が飛んできた。


「うるさい。テレビが聞こえないでしょ」


 そう言ったのはソファーに寝転ぶ姉である。今年中学生になった姉はテニス部の練習があるはずだったが、悠斗と絵里が話し込んでるうちに帰ってきていた。真っ黒なロングヘアーをだらしなく床に垂らし、録画していたアニメを見ているようだ。真剣な目をしている。今は、主人公とヒロインが敵に操られ、無理やり戦わされるという場面だった。正直、悠斗は何が面白いのかよく分からなかったが、「それどこが面白いの?」などと訊いたらまた怒られるのは明白なのでとりあえず黙った。


「こら芽衣、そんなことでいちいち怒らないの。カルシウムもっと摂ったらどう?」


 姉――芽衣は返事をしなかった。悠斗は今の話題からなぜカルシウムの話につながるのか見当もつかなかったが、母が的外れな事を言うのはいつものことなので、特にリアクションもせず手を洗いに洗面所へ向かった。


 パチッ、と言う音ともに電気をつけた。最初に手を濡らし、手のひらに泡をつける。そのまま手のひら、手の甲とよくこすった後、爪の間、親指、手首まできちんとねじり洗い、最後に勢いよく流水で泡を落とす。かかった時間は三十秒きっかり。手を丁寧に洗う、というのは今井家では厳しく言われ続けており、物心ついたころから習慣だった。


 悠斗がリビングに戻り、寝転がる姉の頭の横に座って背もたれにもたれていると、疲れのせいか少しうとうとし始めた。瞼がどんどん重くなってくる。いったん感じてしまった睡眠欲は絶え間なく泉のように湧き続け、悠斗は襲い掛かってくる眠気に負けそうになっていた。が、母の「準備手伝ってー」の声がかかると勢いよく飛び起き、「僕ご飯入れる!」と元気に言うのである。


 子供とは単純な生き物だ。


 準備は悠斗、芽衣、母の三人で手分けしている。三人で行うとすぐ終わり、声を揃えて「いただきます」と言った後、それぞれ違うものに手を伸ばしガツガツと食べ進めていった。


 悠斗はハンバーグとご飯を勢いよくかきこみ、「美味しい」とか「うまい」と言った。母はそう言われる度に嬉しそうに目を細めた。


 食事中の話題は学校、音楽、アニメと多岐にわたるのだが、悠斗が絵里の家に行った日は必ずと言っていいほどその話題が上がる。そんなに毎回話すこともないので悠斗は気が進まないのだが、二人は、特に母は、絵里の話を熱心に聞きたがった。


「それで、今日はちゃんと見せれたの?」と母が尋ねた。


「うん。すごく気に入ったみたいだったから、一つプレゼントしたんだ」悠斗は答える。


「え、ほんとに喜んでたの? しかもプレゼントまで? 絵里ちゃんは女の子なんだから、虫なんか見せられたら嫌がると思ってたんだけど」驚いた風に言うのは芽衣だ。


「そこは心配いらないわ。絵里ちゃん、いつも悠斗の話を熱心に聞いてくみたいだし。プレゼントしてくれてすごく喜んでると思うわよ」悠斗の代わりに母が答えた。


「ふーん、そんなもんかなぁ」と芽衣は不思議そうだ。


 悠斗はその時のことを説明した。

「絵里ちゃんの目がね、すごくキラキラしてたんだ。だから、なんか嬉しくなっちゃって」


 少したどたどしい部分もあったが、母はゆっくりと頷きながら笑顔で話を聞いてくれた。母の聞き方は、話し手を話しやすくさせる雰囲気を持っていた。母に話をしているとすごく気持ちが良くなる。


 大まかな話を終えると、芽衣は言った。


「そんなに喜んでたのなら、一つと言わずもっとあげれば良かったのに」


「いや、僕も全部あげるって言ったんだけど……」


「断られたの?」


「うん。なんかお父さんが何とか、みたいなこと言って、一つでいいって言われたんだ」


 やっぱり全部はちょっと嫌だったんじゃないの、と芽衣は呟いたが、悠斗はそうではないと分かっていた。だがなぜ断られたのかは全然分かっていなかった。まあ、分かるはずもない。


「お父さんが……。そうね、絵里ちゃんはちょっと特殊だからねぇ」しかし母は何かを察したようで、少し慎重に、言葉を選ぶように言った。


「特殊じゃだめなの?」悠斗は訊いた。


「ううん、特殊だからだめ、なんてことは全然ないわ。人との違いは認めるべきだと思う。それは悠斗も分かってるでしょ?」


 うん、と悠斗は返事をする。


「だけど、絵里ちゃんは‟病気”なのよ。性格や個性の話じゃなくて、人との違い――症状があの子を傷つけたりするの。だから、私たちとは比べ物にならないくらい気を遣う必要があるんだと思う。絵里ちゃんのお父さんもお母さんも、多分神経質になってるんじゃないかな」


 母の話は悠斗には理解できない部分もあったが、絵里の病気が、彼女を苦しめているということは分かった。そして、できるだけその苦しみを取り除きたい、とも思った。


 今まで絵里に「一緒にどこかへ行こう」という提案をしたことは、少ないながらもある。一応悠斗も気を遣い、水族館や博物館などできるだけ屋内にいられそうな場所を選んだつもりだ。しかし、それでも毎回何かと理由をつけて断られていた。


 病気で外に出られないのは仕方がないと思う。だが、絵里自身はどう思っているのか、自分の体についてどう考えているのか、それは気になった。それを口に出して言うことはなかったが。


 話はそこで終わった。一時の沈黙が食卓を訪れ、箸が皿に当たる音だけが響く。悠斗は落ち着かず、ふと窓の外を見ると、小雨がしんしんと降っていた。しばらくすると芽衣もそれに気づき、無言で席を立ってカーテンを閉めた。


 だが、そんな沈黙が部屋を満たしている時間もそう長くはなく、母の「今日の学校はどうだったの?」という質問によって部屋はまたにぎわい、悠斗は「夏休みが待ち遠しい」だの、芽衣は「テニス部の練習がきつい」だのと、そんな話で盛り上がった。母は、また優しい笑顔で二人の話を聞いていた。


 話をしているうちに全員食べ終わり、三人は片づけに入った。片づけと言っても、悠斗と芽衣は皿を流し台に運ぶだけであり、皿洗いは母任せだ。


 流水が皿に当たる音を聞きながら、悠斗は先ほどの会話について考えていた。お父さんとやらがなんて言っているのかは知らないが、絵里は外に出たいとは思っていないのか。自分自身ができるかもしれないことを探すが、何も見つからない。


 絵里がいないここで考えても埒が明かないと思ったので、悠斗はグッと背伸びをしてソファーにもたれかかり、またテレビを見始めた。十五分ほど「不思議な動物特集」を見ていたのだが、そこまで熱心に見ていたわけでもないので、またもや眠くなってきた。最初のうちは負けじと眠気に対抗していた悠斗だったが、そのうちに面倒になり、目を閉じて眠りに落ちた。




 悠斗としては、そのままベッドに持って行って静かに寝かせてくれればよかったのだが、風呂にも入っていない体でそんなことをしてくれるはずもなく、三十分ほど寝ただけで叩き起こされた。


「眠いのならさっさとお風呂に入って寝なさい」寝起きだったので、悠斗には半分ほどしか伝わっていないのだが、母は芽衣の横で家計簿をつけながら言う。「ふぁい」と返事をしつつ、また目を閉じる。母に叩かれた。


 眠い目をこすりながら悠斗は風呂場へ行き、服を脱いだ。まだ頭はすっきりしていなかったため、急に流れてきた冷水をもろに浴びてしまい内臓が縮こまった気がしたが、それ以外は特に何事もなく入浴を終え、歯磨きも済ませた。


 悠斗は、母の「早く寝なさい」の言葉と明日も学校があることを思い出し、もう寝ることにした。リビングにいる母と芽衣に「おやすみ」を言い、自室の電気を消してベッドに倒れこんだ。寝つきがいい彼は、元から眠かったせいもあり、一分と経たずに眠りについた。静かな部屋に小さな寝息が響く。




 これが、今井悠斗の一日である。朝は学校に行き、放課後に絵里と遊び、夜は家族と談笑する。悠斗は今日もこう思う。


「今日も楽しい一日だった」と。

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