第6話 シャツ

「なに? これ」

 ぷん、と鼻をつく臭いに私は思わず顔をしかめた。生乾きのような、汗臭いような独特の異臭。臭いの元を辿ると、今まさに取り込んでいる洗濯物だった。

「どうして……?」

 手にした夫のワイシャツに鼻を近づけると、思わず吐き気を催しそうになった。洗濯には柔軟剤を使用しているし、今日は一日快晴だったので生乾きということもあり得ない。しかもここはマンションの八階だ。陽当たりのせいでもあり得ない。

 だというのに、こんなに臭うなんて……

「洗い直さなきゃ」

 私はベランダから部屋に駆け込み、叩きつけるようにして臭いシャツを洗濯機に放り込んだ。


 そんな事が時々起きるようになったが、原因はまったく不明だった。柔軟剤や洗濯機のせいではない。何しろ臭うのは全ての洗濯物ではなく、必ず夫のワイシャツ一枚だけなのだ。夫に理由を説明してそのシャツを棄てさせてもらったが、今度は違うシャツが臭うようになった。いわゆる加齢臭というものなのかとも思ったが、私より二つ歳下の夫はまだ三十代前半。皮脂から漂う老廃物の臭いが気になる年齢ではない。


 夫に異変が起きたのは数日後の夜、ベッドで抱かれている時だった。

「なぁ、試したいことがあるんだけど」

「……え?」

 返答に応じる暇もあればこそ、いきなり首を絞められた。いきなり呼吸を遮られた苦しみにその手を振りほどこうとするが夫の力は強く、私ではまったく敵わない。苦しみもがく私のことなど一切構わずに、夫は無遠慮に下半身を激しく打ち付けてくる。

「ほら、こうすれば締まるっていうだろ……? へへ、あれって本当だったんだな!」

 涎を垂らしながら、夫は醜く下卑た笑みを浮かべる。涙が溢れてくるのは苦痛のせいか、あるいは夫の豹変のせいか……消えゆく意識の中で、私は鼻に付くあの臭いを嗅いでいた。


 落ち着いた、優しい性格の夫があんなことをするなんて私には到底信じられない。だからその時のことについても一時の気の迷いか、抑え込んでいたストレスがなにかの拍子で暴走しただけだと思っていた……思おうとしていた。

 だが、夫が次第に変わっていることを疑う余地はない。ちょっとしたことで罵声を浴びせられ、無理矢理衣服を剥がれて力ずくで犯され、時には暴力を振るわれた。

 そして、夫が凶暴化する時にいつも漂っているのがあの臭い……きっとあのシャツの臭いが夫を変えてしまったのだ。そのことに気づいた私は半狂乱になって夫のワイシャツを片っ端から破り捨て、全て新しいものと交換した。さすがに夫(マトモな時の)は困惑したようだったが、それで私が納得するのならと笑って受け入れてくれた。ワイシャツの総入れ替えが功を奏したのか、あの臭いは綺麗さっぱり我が家から消え去り、夫の豹変もようやく収まった……一週間ほどは。


 金曜日の夕方、珍しく仕事が定時に終わったから同僚と家で飲みたいが構わないか、というSNSのメッセージがスマートフォンに送られてきた。もちろん差出人は夫だ。

 私は快諾した。正直、いつ豹変するかわからない夫と二人で過ごすことに不安と疲労を覚えていたし、他の誰かが居てくれた方が夫だって無茶をしないだろうと判断したからだ。

 一時間後、夫は二人の同僚と共に帰宅し、リビングで小規模な宴会が始まった。私はといえば簡単なおつまみを用意し、最初だけお酌をしてから四畳半の和室に引っ込んでのんびりとテレビを鑑賞していた。男同士の会話に混ざる野暮はしたくなかったし、何よりも久々に落ち着いた時間を過ごせるのが嬉しかった。

 小一時間ほど経った頃だろうか。そろそろおつまみと飲み物の追加がいるかもしれないと思い、リビングの様子を見に行った。

 ぷんと鼻をついたのはあの異臭。はっとした時にはもう遅かった。ドアの脇に隠れていた夫に羽交い締めにされ、フローリングの床に押し倒された私に他の二人が群がってくる。男三人の力に抗うことなどできるはずはなく、瞬く間に部屋着を剥ぎ取られてしまった。

「いや! やめて! 」と叫ぼうとした口に丸めた下着を突っ込まれ、ネクタイで猿轡をされるともう声は出せない。

「回数無制限で一人五万だ。元手もかからない、いい商売だろ? ん?」

 夫は仰向けに寝かされたお腹にどっかりと座ると、ゲラゲラ笑いながら扇子のように広げた一万円札で私の頬を張った。十万円。私の人間として、女性としての価値がそんなはした金だと思うと、悲しくて情けなくて涙が溢れてきた。

 声なき慟哭に噎ぶ私を、三人の男たちは嘲笑いながら弄び始める。避妊もなしで何度も何度も犯され、汗と唾液と精液にまみれた私がようやく解放されたのは明け方近くになってからだった。


 朝になって、蹴り起こされた。どうやらあのままリビングの床の上で気を失っていたらしい。

「昨日はありがとよ。また頼むぜ」

 夫はニヤリと笑いながら、私の眼前にスマートフォンを突きつけてきた。その液晶画面に表示されていたのは、彼の同僚と名乗る男たちに弄ばれている私の姿。それを見た瞬間、私の中の「何か」が音を立てて切れた。

「わああああっ!」という絶叫を聞いた気がする。あれは誰の声だったのか。気がつけば私は血濡れの包丁を手に佇んでいた。足元の血溜まりにはズタボロになった夫が倒れていて、まだピクピクと痙攣している。ボンヤリと眺めているうちにそれは弱まり、ほどなくして動かなくなった。

 恐怖も、罪悪感もなかった。あるのはただ、これで解放されたのだというこの上ない開放感。さぁ、シャワーを浴びて、着替えてから警察を呼ぼう。裸だし、返り血にまみれているし。こんな格好でお巡りさんを迎え入れるわけにはいかない。

 包丁をキッチンのシンクに放り込むついでに、さっき蹴り起こされた仕返しに動かなくなった夫の頭を蹴り飛ばしてみた。テーブルの脚にゴツンとぶつかって元の位置に戻るのがなんだか妙に面白くて、何度も何度も繰り返す。気づけば涙が出るぐらい大笑いしていた。

 おっと、いつまでもこうしているわけにはいかない。早くバスルームに行かないと、返り血が乾いて髪や肌にこびりついてしまう。そうなったら洗い落とすのも一苦労だ。

 最後に夫の股間に思いっきり蹴りを入れてから、私はバスルームに向かった。

 あの臭いがまた漂ってきたのはその時だった。慌てて振り返ったが、夫ではない。あれはもう、ただの肉塊にすぎないのだ。では、この臭いはいったいどこから……?

「……ああ、そうか」

 バスルームはやめてベランダに向かった。どれだけ身体を洗って、血と精液を洗い流してもこの臭いを消し去ることはできない。私の中にある負の感情を、悪意を消し去らない限り。

 さすがに裸で外に出るのは抵抗があったので、干しっぱなしになっていた洗濯物を羽織った。夫のワイシャツだった。

「さて、いくか」


 ベランダの手すりを乗り越えて、私は虚空へと身を踊らせた。

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Bloken Pieces 蒼 隼大 @aoisyunta

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