第5話 マスク
街に出ると、誰もかれもがマスクを着けている。今年に入って流行し始めた、あの厄介なウィルス性の感染症のせいだ。
しかしマスクというのは奇妙なもので、顔の下半分を隠しているだけなのにどいつもこいつもみんな同じ顔に見えてしまう。特に若い女性なんて、通勤電車の同じ車両に乗り合わせている二人が、毎日見ているはずなのにまったく見分けがつかないのだ。あれは本当にそれぞれ別の人間なのだろうか、とさえ思えてくる。
「そうか? 俺は特にそんな風には思わんがな」
仕事帰りにちょっと一杯行こうや、と同僚の平田に誘われて繁華街に飲みに出た。馴染みの居酒屋ではあるが、金曜の夜だというのに空席が目立つ。
「自粛ムードってヤツか。まったくかなわんなぁ」
などと苦笑いしながら向かい合わせに座るいつものテーブル席ではなく、カウンター席で隣合わせに座ったのは俺たちもどこかで飛沫感染とやらを警戒しているからなのかもしれない。
「期間雇用の大崎さん、いるだろ」
「あぁ」
と平田は頷きながら枝豆を口に放り込む。大崎さんとは俺と同じ担当に配属されている、期間雇用社員の中年女性だ。年齢は俺たちより上で、五十代半ばか、六十に近いはずである。
「あの人もマスクでだいぶ印象変わったと思わんか?」
マスクでいわゆる『ほうれい線』が隠れているせいか、年齢の割に若く、綺麗に見えるのは俺だけだろうか……
「そうか? 前と別に変わらんがな」
俺だけのようだ……いや、そんなはずはない。化粧でなんとでもなる目元と違って、鼻から口の形はごまかしにくいものだ。元々「可愛く見えるから」という理由で感染症の流行以前から日常的にマスクを着用している女子もいると聞く。それはつまり、それだけマスクで印象を変わる、ということだ。大崎さんだけが例外というわけではあるまい。
「なんだよ、平田、おまえ何にも見てないのな」
「職場の女性をそういう目線で見る方がおかしいだろ。まさかおまえ大崎さんに……」
「ばっ……違う! んなわけあるか!」
俺の上げた声がガラガラの店内に響く。暇そうな女性店員にジロリと睨まれた。ため息をついて、俺は焼き鳥の串に噛り付いた。やはり皮塩は美味い。
「しかしなぁ……マスクで女性が同じ顔に見えるのは間違いないんだぜ。言ったろ、電車の中に同じ顔した女の子が二人いるって」
「あぁ」
「今朝な、その二人のことで妙なことに気づいたんだ」
「ほう? ……どんな?」
平田はチューハイレモンをグイと呷ってジョッキを空にした。
「たまたまさ、その片方が俺の左隣に座っててさ、もう一人が右前に立ってたのよ……つり革を掴んでな」
「ふむふむ」
「見れば立ってるほうの左腕、手首のちょっと上に火傷の痕みたいなものがあったんだ。新しいものじゃなくて、子供の頃にでもやった感じかな」
「なんだ、リスカの痕でもあるのかと思った」
「違うよ。それでさ、何気なく隣に座ってる子の方を見たらさ……どういうわけかその子にも同じ場所に同じ形の火傷の痕が……」
「見間違いだろ」
「いや、そんなはずはない。そっくりな二人の同じ場所に同じ形の傷があるなんて、偶然にしても出来すぎている……そうだろ? もしかしたら、ドッペルゲンガーってヤツじゃないかな?」
「あれは自分の分身に会うってヤツだろ? 毎日同じ電車に乗り合わせる分身なんているかよ」
「さあな。でもどっちかはニセモノなんじゃないか? 一皮剥いたらウロコだらけの顔が出てくるかもしれないぜ」
声をひそめて言うと、平田は大きくため息をついた。
「……なんだよ」
「いや、仕方のないヤツだと思って」
どういう意味だよ、と問いかけようとした瞬間、視界がグニャリと歪んだ。なんだ? もう酔いが回ったのか? いや、まだそんなに呑んではいないはずだ。
「余計なことに気づくのが悪いんだからな……まったく、おまえの順番はまだ先のはずだってのに……」
と、平田の呟く声を最後に、俺の意識は途切れた。
気づけば真っ白い壁に囲まれた広い部屋の真ん中で、全裸でベッドに寝かされていた。いや、寝かされているんじゃない……両手両足を固定されているこの状態は、拘束されている、という方が適切だろう。だけどどうして? 酔って暴れでもしたってのか?
「目が覚めたか」
言いながら、マスク姿の平田がベッドに歩み寄ってきた。背後には電車の中の、腕に火傷の痕がある例の女の子の片割れ。二人は知り合いだったのか? まさか、そんな偶然なんて。
「どういうことだよ、平田! それに、その子は……」
「この子は俺の仲間だよ。第一次植民隊のメンバーでな、名前は☆%$×*#€〒☆○〆だ」
紹介されてもそんな名前は日本人には、いや人間には発音できないだろう。いったい、なんの悪ふざけだというのか。
「悪ふざけなんかじゃない。俺たちの任務は実験だ」
「実験?」
「感染力は高いが致死率はそこそこのウィルスを撒いてマスクを着けさせるとさ、おまえの言ったとおり顔の見分けがつかなくなるだろ? つまり、俺たちが近づいてその行動を学習するのにうってつけの環境が出来るんだ。そして充分に対象の人間の言動やクセをコピーしたら、本物を拉致してそいつと入れ替わる」
コピーして入れ替わる? 俺には平田が言っていることが理解できない。俺が困惑していると見ると、平田は大仰な仕草で指を鳴らした。壁の一部が音もなく開いて、そこから一人の男性が歩いてくる。マスクを着けてはいても、その顔を見間違えるはずはない。あれは俺だ、俺の……偽物だ。
「コイツが行動を学習するためにおまえの近くにいたって、気づかなかっただろ? まだ充分だとは言えないが……明日からはコイツがおまえになる」
『俺』が俺に向かってペコリと頭を下げてから、ニヤリと笑った。俺の人生を奪い取った者の、勝ち誇った笑みだった。
「おまえら……いったい何者だよ……」
「我々は#_@♪☆%$だ。もういいだろう、連れて行け」
『俺』がキャスターのロックを外し、ベッドを押して移動させる。
俺は何処へ連れて行かれるのだろう? これからどうなってしまうのだろう?
俺に分かっていることは一つだけ……俺はもう、自分の人生に戻ることはできないだろうということだけだ。
ベッドのまま開いた白い扉をくぐると、その先に待っていたのは真っ暗な闇だった。
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