第4話 糸


 カチッと微かな音を立てて、時計の長針と短針が重なった。七月十九日、午前零時。十五歳の誕生日を迎えた瞬間、私はホッと息をついた。自分が生きていることへの……いや、まだ死んでいないことへの感慨が、そこにはあった。


 生まれた時から心臓に欠陥があった。医者には五歳まで生きられないだろうと言われたらしいが、なんとか生き延びた。限度と言われた十歳を過ぎて、ここまで生きたら奇跡的、とまで言われた十五歳を今、迎えることができた。こんな私が「明日美」なんて名前なのは悪い冗談みたいだな、と思いながら今まで生きてきたけど、どうやら神さまはもう少しだけ明日を見ることを許してくれるようだ。

 だけど、ここまで来たんだからこのままちゃんと大人になれるんじゃないか、なんて都合のいいことを考えたりはしていない。私はただ、日に日に進歩していく医学と、高額な支出を厭わず適切な治療を受けさせてくれる両親と、ほんの少しの運に救われているだけだ。

 それでも最近、本当にそろそろダメなんじゃないのかな、と考えるようになったのはまた、夢にあの老婆が出てくるようになったからだ。


 腰の曲がった、小柄な老婆はいつも同じ姿で現れる。もう何年も櫛など通してそうにない、ぐちゃぐちゃに絡み合った白髪。垢じみたボロボロの着物。皺に埋もれるような小さな眼。そして枯れ木のような手には大きな裁ち鋏。

 その鋏で老婆は私の身体から伸びた、弱々しい光を放つ半透明の糸をバチン、バチンと切断していく。その糸が何を意味しているのかは分からない。だけど、それは私にとってひどく大切なものであるはずだ。私はやめてくれと泣きながら懇願するが、老婆は聞き届けてくれない。

 やがて満足すると、老婆は歯のない口でニチャァ、と笑ってどこかへと去っていく。

 同じ夢を子供の頃から何度も何度も繰り返し見ている。そして、その度に体調を崩して寝込んだり、酷い時には病院に担ぎ込まれることになるのだ。

 無意識的に変調の兆しを察知した脳が悪夢という形で警告しているのだろう……カウンセラーの先生によると身体の弱い人にはままあることらしい。だとしたら、夢を見たときには気をつけておけばいい話だ。実際、その都度家族には声をかけて対応してもらうようにしている。

 だけど、気になることがある。夢を見るたびに、私の身体から伸びているあの光る糸が減っているのだ。最初は何百本もあったはずなのに、今では残り十数本。あの糸が全て失われたら私はきっと……その時はもう、さほど遠くはないはずだ。


 入退院を繰り返し、マトモに学校にも通えていないような私にも友達と呼べる子が二人いる。小学生のころから何かと気にかけてくれて、私みたいな面倒くさい人間の面倒をみてくれる有難い存在だ。

「せっかくの夏休みなんだから、三人で何処かに遊びにいかない?」

 期末テストも終わって終業式を数日後に控えた放課後、ちょっと教室で休んでから帰るつもりの私に付き合ってくれていたユッコが勢いよく手を上げてそんなことを提案した。背が高く活発な彼女は自分が少し色黒であることを気にしているが、生まれてこの方日焼けとは全く縁のない私からすれば、少し羨ましい。

「何よ、いきなり」

 と冷ややかに返した佳奈は背こそ低いがかなりのグラマーで、男子の視線が胸元に集中することを常に嫌がってるが、私はそれも羨ましい。鏡を見る度に骨と皮ばかりの自分の身体がイヤになるし、私の胸にあるのは男子を惹きつけるオッパイどころか醜い大きな手術痕だ。きっと私は好きになった異性に自分の身体を見せることなく一生を終えるのだろう。

 二人に気づかれぬよう、小さくため息をついた。ほんと、私ってコンプレックスの塊のイヤな人間だ。

「だってせっかくの夏休みだよ。一生に一度しかない十五歳の夏なんだから楽しまなきゃ損じゃない」

「分からないでもないけどさ……明日美のことも考えてあげなよ」

 海も山も、夏の日差しも私には程遠い存在だ。夏休みといえば家に引きこもり、遊びにきたユッコと佳奈から旅行の土産話を聞くことだけが唯一の楽しみとするのが常だった。どこへ行っても周りに迷惑をかけるだけの自分が、どこかへ出かけるなんて考えたこともなかった。

「そこは大丈夫。ユッコさん考えた」

 ドンと胸を叩き、思った以上の痛みに顔を顰めながユッコはスカートのポケットから折り畳まれた紙を取り出した。どうやらインターネットのブログ記事をプリントアウトしたもののようだ。

「白髭神社、って知ってる?」

 私と佳奈は顔を見合わせ、首を振った。

「となり町の小さな神社なんだけどさ、そこで毎年お祭りやるんだ。そんな有名な神社でもないから人もそこまで多くはないし、夜だから明日美も大丈夫なんじゃない?」

「お祭り……あぁ、夜店のことか。へぇ、一応花火大会もあるんだね」

「そっちはショボいからあんまり期待はできないけどね。どう、みんなで行かない?」

 なるほど、お祭りかぁ……プリントアウトされた記事を見る限り、たしかにそんなに規模は大きくないし、人出もそれなりなのだろう。距離的にも遠くないし、調子が悪くなったらタクシーで帰宅することもできそうだ。

「うん、お母さんに訊いてみないと分からないけど大丈夫……かも」

「でしょでしょ!」

 と、勢いよく身を乗り出してくるユッコの様子を訝しげに眺めていた佳奈がおもむろにスマートフォンを取り出して何やら調べ始める。

「……なるほど、ね」

 ため息混じりの佳奈は液晶画面に表示された記事をクルリとこちらに向けた。どうやらユッコが見せてくれたのとは違う人のブログ記事のようだ。件の白髭神社について紹介する文章の中に、サラリと「近年、縁結びのパワースポットとして人気を呼び始めている」とある。つまり。そういう下心があったわけだ。

「くっ、バレたか……! でもさ、私らだって花の中学二年生だよ!そろそろ彼氏の一人ぐらいできたっていいじゃない!」

「あなた、先月三組の太田くんに告るとか言ってなかったっけ? あれはどうなったのよ」

「それは訊かないで!」

 佳奈の指摘に、ユッコは耳を塞いで机に突っ伏してしまった。つまり、そういうことらしい。まるでコントのような二人のやりとりに、思わず笑みが漏れた。

 彼氏か……うん、いいかもね。

 私にはムリだけど。


 最も不安だった私の体調と、二番目に不安だった天候をクリアして、無事にお祭りの当日を迎えることができた。三番目の不安は勿体ないから別にいい、と言っていたのに妙に盛り上がってしまった父親がわざわざこのために買ってくれた浴衣にユッコや佳奈がどんな反応を示すかだったが、二人とも「うん、似合ってるぞ」と褒めてくれた。お世辞でも嬉しかった。

 二駅だけ乗った電車を降りて、浴衣姿の混じった人の流れに乗って歩けば五分ほどで目的の白髭神社に辿り着いた。朱塗りの鳥居を潜り、賑やかな参道沿いにズラリと並ぶ露天を眺めながら、私たちは本殿を目指した。参拝し、ご霊験あらたかという御守りを戴くためだ。例の噂のせいか、授与所の辺りには若い女性でごった返している。

「あらら、エライことになってるわ」

「諦めなよ」

「ここまで来て? いや、私は行く!」

 一度決めたら譲らない、頑固な性格のユッコはズンズンと授与所へと向かっていく。ため息をついてこっちを見る佳奈の眼が「どうする?」と訊いている。

「私は……ちょっと疲れたからそこのベンチで休ませてもらうね。佳奈はユッコについててあげて……放っておいたらダメな気がするから」

 佳奈がストッパーにならないと、今のユッコの勢いなら有り金全部を御守りにつぎ込みかねない。

「だよね。じゃあ、行ってくるから待っててね」

「うん」

 ユッコを追って女子の群れに突入していく佳奈を見送って、私は薄暗い境内の隅に置かれたベンチに座った。目を閉じて、ゆっくりと呼吸を整える。


「嬢ちゃんはいかねぇのかい?」

 突然のダミ声に目を開けると、ベンチの横に敷かれたブルーシートに座った中年の男がこっちをみていた。グレーの作業着を着た、無精髭だらけの日に焼けた中年男だ。厳ついご面相の中で、小さな眼だけが人懐っこそうな光を宿している。

「はい、ちょっと疲れてしまって」

 答えて、ふと気がついた。男が敷いたブルーシートの上には何か、小さなものが並べられている。よく見ればそれは束ねられた色とりどりの糸だった。

「あの、これは?」

「売り物だ」

 まあ、こうして選びやすいように並べてあるのだから販売する意図はあるのだろう。だけど、夜店で糸を売っているなんて聞いたこともない。

「売れますか?」

「さっぱりだな」

 予想通りの答えがすぐに帰ってきた。

「まあ、いいのさ。こんなもん売れないほうが」

 妙な事を言う。商品が売れないと困るだろう。場合によっては生活に差し障りが出たりする事もあるのではないだろうか。

「ああ、気にすんな。別にこいつが俺の生業ってわけじゃない。今日はここの神さんに頼まれて臨時に店を開いてるだけだ。まったく……あのジジイめ、こんな退屈な仕事を押し付けやがってよ」

「……はあ」

 神さんとはなんだろう? 神主さん? ここの神主さんはそんなにご高齢なのだろうか?

「まあ、こんなもんでも必要な人間には必要なんだとさ。へへ、どうだ嬢ちゃんちょっと見てみないか」

 男に手招きされ、私はブルーシートの前にしゃがみ込んだ。こうして並べていればカラフルで綺麗に見えるが、それでも糸は糸だ。私には手芸の趣味はないし、やっぱりいらないかな……

 そう思って立ち上がろうとした時、ボンヤリと光る何かに気づいて私は視線をそちらに向けた。

「これは?」

 私が指差したのは、やはり糸の束だった。だけど他のものとは違って暗がりの中でも光を放っているように見えるのが不思議だった。いったい、どういう原理なのだろう?

「ほう、そいつが気になるか。ふむ、なるほど……そういうことかよ」

 ブツブツ言いながら、男は一人で納得してウンウンと頷いている。

「これも、売り物なんですか?」

「当然だ。だが、こいつはちょっと特別なもんでな、ちょいと値が張るんだわ」

「おいくらですか?」

 男は腕を組んで少し考えた。

「まあ、ハッキリとした決まりがあるわけじゃないんだが……欲しいって言うんならお嬢ちゃんの持ち金全部で売ってやるぜ」

 私の財布には一万円札と、切符を買った残りの数百円が入っている。一万円は体調が悪くなった時のためのタクシー代を含めてお母さんが持たせてくれたものだし、残りの数百円だってなくなれば帰りの電車に乗れなくなる。いくら珍しい、光る糸だからってそれだけの代償を払って購入するなど馬鹿げているとだろう。授与所に突撃していったユッコのことなど何も言えないではないか。

 だけどそれでも、この手の中にある糸に私はひどく惹きつけられている。今、この瞬間に手に入れておかなければあとで激しく後悔するのではないか……そんな予感がして仕方がない。

「買います」

 キッパリと言い切って財布を取り出す私を、男は「ほう」と感心したような表情を浮かべて見た。

「嬢ちゃん、思い切りがいいな。もしかして、この糸が何なのか知ってるのか?」

 私は首を振った。それが何なのかは知らないが、よく似たものなら知っている。夢の中で、あの老婆が断ち切っていた光る糸だ。そんな話をすると男は納得した様子で。

「あぁ、糸切りの婆ァか。まったくアイツはタチが悪くてなぁ……なるほどねぇ、そういうことか」

 男は金を受け取ると、私に手を出すように促した。言う通りにすると男は光る糸を少し伸ばすと私の細い手首にしっかりと結びつけた。

「これでよし、じゃあ投げてみな」

「投げるって……?」

 男はニヤニヤ笑いながら上を、無数の星々が瞬く夜空を指差した。

 訳の分からないまま、私は糸を放った。手を離れるとすぐに糸は無数に枝分かれし、夜空に向かって凄まじい勢いで飛んでいく。星々に向かって疾走する無数の光線は花火のように、いや、それ以上に美しかった。

 やがて、私の手首にギシっと、重い感触が伝わってきた。男は立ち上がり、私の手首から伸びた糸を指先で軽く弾く。ピーンと澄んだ音が響き、金色の粒子が舞い散った。

「あ、あの、これって……」

 戸惑う私に、男はニヤリと笑いかける。

「安心しな。お前とこの世の中の誰かさんとの間に『縁』を結んだだけだ」

「縁?」

「人間ってなぁ、死ぬ時は一人だ。つまりある意味で死ってのは全ての縁が切れたってことだろ? 逆に言えば全ての縁が切れた時に人間は死ぬってことでもある」

 夜空に向かって放射状に広がる無数の輝く糸。その信じられない光景を私は呆然と見上げた。この全てが誰かと繋がっているなんて、とても信じられる話ではない。

「縁なんてそんなもんさ。分かりやすい縁もあれば、まったく気付かずに終わる縁もある。アンタの縁はあのクソ婆ァにだいぶやられてたが、これで一安心だ。なんせここの神さまの髭で作った特別製の糸だからな。コイツにはあの婆ァも手は出せねぇ」

 これであのクソ婆ァに一泡吹かせてやれる、と男は豪快に笑った。

「残念ながらここの神さんは縁結びの神さんだから嬢ちゃんの身体を治してやれねぇんだが、心配することはねぇ。これであと二十年、いや三十年は生きられるさ」

 二十年。三十年。それは私にとって想像だしたことすらない、途方もない年月だ。本当にそんな時間を生きることができるのか……私はもう一度、星々の瞬く夜空を見上げた。

「その糸で繋がった縁を、大事にしなよ」

 ハッと我に帰り、その声に振り返ると男の姿はもうどこにも無かった。


 ユッコや佳奈に説明することもできず、仕方がないので「お金を何処かで落としたようだ」と説明すると二人は呆れながらもお金を貸してくれて、私はこれまでにない、楽しい時間を過ごすことができた。

 あれは本当にあった出来事なのか。あの男はいったい何者だったのか。私には何もわからない。ただその後、あの老婆の出てくる夢を一切見なくなったことだけは確かだ。


 そして気がつけば十年の歳月が流れ、今年もあの白髭神社の夏祭りがやってきた。浴衣姿の佳奈とユッコ、そしてユッコの腕の中には生後半年の長男、佳明くんがいる。明るいイケメンになるようにと、私と佳奈の名前から一文字づつ取って名前を付けたそうだ。

 佳明くんの小さな小さな手は熱く、生命力に満ちている。さすがに私には子供を授かることは無理だろうが、こうして私たちの名前を受け継いでくれる存在があることが何よりも嬉しい。

 世代を跨いで、縁は見えない糸で紡がれていく。思えばあの日、ユッコと佳奈がこの神社に連れてきてくれたのも一つの縁だったのだろう。

 ユッコと佳奈に、あの日出会った糸売りの男性に、そして全ての出会いに感謝の意を込めて私はこの神社の神様に手を合わせた。


 だから、私は明日も生きていく。





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