夏夜

夏夜

 さあ寝ようかと布団へ寝転がった際、りょうの自室窓をコンと叩く音がした。これは、幼馴染の孝文たかふみが、綾を遊びに誘う合図だ。

 綾は聞かなかったことにしようと思い目を瞑ったが、窓へ小石を次々と投げつける孝文に観念し、瞼を開けた。

 一階に下り、居間へ入ると、蚊取り線香がまだゆらゆらと煙を立てていた。

 綾は蚊取り線香の缶を左腕で抱え、家族を起こさぬよう足音を消し、玄関へ向かった。玄関引き戸を開けると、背の低い門扉の前に立ち、控えめに手をあげる孝文を軽く睨みつけた。

「悪い、寝とった?」

 そう言いつつ口元に微笑を浮かべるところを見るに、微塵も悪く思っていないことが伺えた。

 綾は少し腹が立ち、玄関引き戸を後ろ手に閉め、門扉へ続く緩やかな階段を下りつつ、

「これから寝よ思とった」

 とぶっきらぼうに返した。

 門扉を開錠し、孝文へそこに座れと顎でしゃくる。そこ、というのは門扉のある段差のことだ。ここはアスファルトにコンクリートが載っており、一段高くなっている。二人は軽く会話を交わす時、この段差をよく利用する。俗に言う特等席だ。母の真記まきには、

「ご近所さんの目もあるんやからやめてや」

 と叱られるが、今更な気がしてならず、場所を変えていない。

 綾は段差に腰掛けた孝文の左足元へ蚊取り線香を置き、それを右足で挟むようにして隣へ座った。

 綾がふと横を見るとそこには、家の塀へ寄せるように停められた孝文の自転車があった。

「なんでチャリ? タカの家から俺ん家まで徒歩二分やん」

「コンビニで花火買うた帰りや」

 ニッカリと白い歯を見せ笑う孝文は、とても無邪気だった。

「花火?」

「そお、花火。やっぱ夏といえば花火やろ」

 孝文らしい安直な考えだなと思い、綾は微笑んだ。


          ◇


「他人に寄せる好意なんかな、微熱くらいが丁度えぇねん」

 門扉のある段差へ、綾と少し間を開け座る孝文は、時折このように物事の核心を突く。

 あの後で綾が台所の冷蔵庫から取って来たラムネは、残り半分になっていた。

 持ち上げてみれば、冷えた瓶内と、鬱陶しく纏わりつく夏の熱気との差により生じた水滴が、綾の掌を潤した。炭酸が抜け、爽快感や温度のぬるくなったラムネは、喉に優しかった。

「なんでまたそんなこと」

 閑静な深夜の住宅地に、二人の声は静かに響いた。

「色恋沙汰の例え話で、『味の濃いジュースばっか飲み続けてたら飽きるけど、水は飽きんと飲み続けれる』ってよお聞くやろ? それと一緒や」

 だからどうして、そんなことを言い出したのかを知りたい、と綾は隣を見遣った。

 そこには、じっと正面だけを見据え、「余計なことは聞くな」とでも言いたげに、物憂げな顔をした孝文が居た。

 溺愛していた彼女──沙耶さやに振られでもしたのだろうか。と綾は思った。

 沙耶というのは、孝文が高校へ入学してから結ばれた、三人目の恋人だ。腰まで伸びた黒髪が艶やかで綺麗な女子、と綾は記憶している。

「あぁ、なるほどな」

 深掘りはせず、ただ話を聞く。これが、綾に出来る精一杯の慰めだった。

 孝文の左足と綾の右足の間から、蚊取り線香の独特な匂いを乗せた白い煙が立ち昇っていた。

「恋は、お互いに好意の温度が高ければ高いほど燃え上がるけど、終わるんも早いってわけ」

 孝文は、自身が先刻コンビニエンスストアで購入した手持ち花火の詰め合わせを、ガサガサと大きな音をたて、レジ袋から取り出した。

 油が足らずギィギィと鳴る自転車、汗を滲ませ漕ぐ孝文の姿が、綾の脳裏に浮かんだ。

 ススキ花火を引き抜き、デニムジーンズのポケットから取り出したライターでその先端を炙る孝文は、爽やかな白のシャツがよく似合う褐色肌をしていた。

 ボッと火がつき、色とりどりの光が眩しいほどに輝いた。火花は、次々に色を変え煌めいたかと思うと、すぐに地面へ落ち、姿を消した。

「こんな風に」

 ドキドキしとったらいつの間にか終わんねん。と言葉を紡いだ孝文の瞳は、涙で濡れていた。それは花火の煙によるものなのか、失恋がもたらしたものなのか、綾にはわからなかった。

「うん」

 孝文は、綾が頷くのを見届け、飲み終えたラムネ瓶に先程のススキ花火を突き刺した。

「微熱の恋なんか、俺にはわからん」

 孝文は弱々しく呟いた。その姿は、飼主に叱られてしょげている子犬のように、可哀想に痛々しく、綾の目に映った。

「タカ、ちょおそれ貸して」

 花火の詰め合わせを指差し言う綾に応じ、孝文は素直に手渡した。

 綾は、固定するために貼られたセロハンを丁寧に剥がし、線香花火を手に取ると、孝文に突きつけ、先端を炙るよう促した。

 孝文の、関節が太く短い親指が、プッシュ式ライターの着火レバーを押すと、カチッと音をたて、小さな炎がついた。

「微熱の恋ってゆうんはさ、こうゆうことやと思う」

 着火すると、直径五ミリメートル程度の火球が、確かな光を灯した。

 次第に、黄色くパチパチと輝き、激しさを増した火花が四方八方へと散る。

 綾は、大きくなりゆく火球を落とさぬよう、線香花火を持つ右腕に神経を集中させた。

 火球から飛び出す火花は、勢いが衰え、細くやや下を向き始めた。

「綺麗や」

 孝文は、優しさを含んだ眼差しを火花へ向け、静かに見つめた。

 火花は散るのをやめ、重く垂れ下がった火球は色を失い、アスファルトへポトリと落ちた。

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夏夜 @sega-lu1925

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