年代のない平原

HiraRen

年代のない平原

  改札を出ると再びの吐き気が胸の奥から上がってきた。

 それをぐっと飲みこんだとき、人波が僕自身を飲み込んで――。

「あっ……!!!」

 どすんと背を押された。

 鞄に資料に……たくさんの荷物を持っていた僕は前に倒れた。

「痛ッ!」

 声を出すよりも早く、振り返っていた。

 むかつきと吐き気と……低く沈んだ緊張が胸の奥でどろどろに溶け合っている不快感があった、のに……。

「また迷い人なの?」

 背を押したらしい人物は、大きな一対の黒い瞳で僕を覗き込む。

 制服を着た可愛い女の子にも驚いたけれど、その彼女を覆うように……いや、くぐったはずの改札がもうもうとした木々の中に埋もれていて。

「えっ、なに……」

 僕はそう答えるほかなかった。


 顔色が悪いよ。

 彼女に言われて近くの茂みで嗚咽した。内容物は全然でなくて、呼吸を落ち着けるためにぐぅっと空気を吸い込む。

 ムッとする緑の匂い。

 太陽に温められた草や根や木々の葉が発する、あの夏の匂い。

 ふと、僕は空を見上げた。

 かけた駅舎の庇は幾重にもツタやツルに覆われて、その上に緑色の葉が毛布のようにかぶさっている。それらは清涼な風に揺れて、太陽と緑の匂いを運んでくる。

「ここって……」

 朽ち果てた駅舎のはるか上空には、分厚い雲のようなものが浮かんでいるのが見えた。

「庇護の天井だよ。雨が降るとさ、困るんだよ。わたしの家には木がないからね」

 駅舎を抱くように広がる巨大な天板。彼女はそれを『庇護の天井』と呼んだ。神秘的なネーミングに比して、偉大なる天井は穴だらけだ。

 植物の浸食を受けてはがれた部分があり、流れ出る流水によって朽ちてゆく部分があり、風雨にさらされて崩れる部分もあり……。

 その天井は遠く平原や林や湿地に突き刺さった巨大な主柱らしきものによって支えられ、空に浮かんでいた。穴だらけの天井から流れる水は、太陽の光を反射させてきらきらと光りながら、途中の障害物で屈折したり、広がったりしながら風に揺れる草原へと還ってゆく。ひとすじだけでなく、いくつも水の流れが大地へと流れていた。

 流水のカーテンは、たくさんの穴から差し込む陽光によって輝き、虹をはらみ、薄い飛沫によって水墨画のようなおぼろげさまで内包していた。

「うわぁっ……」

 冷静な眼でそれらを捉えたとき、僕は言葉を失って、ただただ空を覆う穴だらけの天井を見上げていた。

「綺麗でしょ」

 彼女の言葉に「うん……」と頷いた。

「あなた、どこから来たの?」

「どこからって……。立川からだよ。先輩と駅前で待ち合わせをしてるんだけど」

 言いながら、この世界に『立川』は存在しているのだろうか、と思った。たぶん、僕の勤めている不動産ディベロッパーの会社は『庇護の天井』が存在する世界には、ないように思えた。

「僕の言っている意味、わかるかな?」

「ほっとんどわかんない」

 彼女はそう言ってにひひと笑う。可愛らしい笑顔で、僕はちょっとドキッとした。

「こっち来て。太陽のしたの方が涼しいの」

 元気な彼女は僕の手をとって歩き出した。

 朽ち果てた駅舎は、確かに僕が改札を出た東所沢の駅らしかったけれども、老朽化がひどい。何十年もメンテナンスなく、植物と風雨にすべてを託したような風貌になっている。

 道路にアスファルトはなく、膝上に届くほどの荻が風に従って揺れていた。大海のさざ波のように、太陽の煌めきを含んだ風の息吹が荻の穂を揺らしていた。総立ちの観客が演奏の締めくくりに立ち上がり、拍手をするように……その大地に吹き抜ける風を賛美しているように思えた。

「あ、あのさ、ここって……!」

「涼しいでしょ。庇護の天井は雨の時は助かるけど、こうして晴れた日は蒸し暑くってたまんないの!」

 荻の穂が揺れる先に大きな石が転がっている。地上三メートルはあろうという巨石だ。

 彼女はそれに足をかけ、自宅のソファに腰かけるみたいに座った。

「ここ、お気に入りの場所なの」

 そう言って彼女が示す、巨石の天頂付近に誘われ、腰を降ろす。

「あっ、……すごく涼しい」

 穏やかな光を放つ太陽が庇護の天井から顔をのぞかせる。遠くには背の高い木々の林と森のような場所が点在していて、それらを埋めるように荻がゆらゆらと揺れている。見る限りの平原で、吹き抜ける風は清廉でひんやりとしていた。

 朽ち果てた駅舎は、遠くから見ると『駅舎』とは言えない物体で、植物に呑み込まれた構造物の成れの果てだった。長い長い年月の果てに、植物に消化されてしまったようにも思える。

「ちょっと落ち着けば、元の場所に帰れるから。庇護の天井はさ、いろんな人を誘い込んじゃうみたいで」

「どういうこと……?」

「心の隙間にね、にゅっと入り込むの。本当は魂が占有している場所なんだけど、そこがぽっかりと開いちゃうんだよね、人間って。そのとき、庇護の天井が『わたし達の世界』に連れてきちゃうの」

「僕みたいに?」

 そう、と彼女は頷く。それからちょっと可愛く笑って。

「あなたはどうして庇護の天井のもとにいたの? そのナントカってところから、どうしてきたの?」

 彼女の質問に僕はうつむいた。

 駅舎だと思っていた場所の近くには長い長い谷が走っている。方位がわからないけれども、太陽の位置から考えて東西に走っているのだろう。その谷間に庇護の天井から滴り落ちる水がとめどなく流れている。

「初めてのプレゼンなんだ。会社にはゴリラみたいな先輩しかいなくってさ。僕は先輩たちみたいにちゃんとできるかどうか不安で……」

「それ、なんのことなの? あたりまえのことなの?」

「先輩たちの世界じゃあ当たり前みたいなんだ。僕にとっては当たり前じゃない。怖いんだ」

 仮称・新つつじヶ丘グランドコミューンプロジェクト、という吐き気を催すようなタイトルが頭によぎる。その第一回プレゼンテーションを実施するために立川からやってきた。

 つつじが丘駅と東所沢駅を巻き込んだ開発計画で、居住性と商業能率の向上を目的とした不動産開発案だ。それらの隙間に公園と学校と病院と図書館を設置する。新進気鋭の設計士がデザインする公共施設で、緑あふれる再開発計画……。

 僕は一息にそれを話した。先ほどの嗚咽よりも苦しい言葉のおう吐だ。

「設計士として会社に入ったのに、こんなプレゼンなんて聞いてないヨ……」

 いまにも涙がこぼれそうだった。

 彼女は僕の話を八割も理解できていないだろう。それなのに、嬉しそうに相槌を打ったりしてくれていた。

「すごいんだ。キミって」

「すごくなんかないよ。ただ……」

「ねえ、その鞄の中にはなにが入っているの?」

「資料だよ。さっき言った新つつじヶ丘の……」

 僕が鞄を開くと……なかには真っ白い綿毛が入っていて、鞄を開くなりふわりと風に乗って空へと舞い上がった。

「あはっはっはっ……!!! 綺麗だねえー」

「あ、あれぇ、資料がない……!!! どうして!?」

「いいじゃない。そんなの。たぶん、この世界にはキミが思い悩むようなものはないんだよ。風に乗ってさ、水に流れてさ、魂が落ち着ける場所なんだから」

 そして彼女は言ったのだ。

「キミが鞄から失くしたものって、たぶんなくなってもいいものなんだよ。本当になくしちゃいけないものを『庇護の天井』は思い出させてくれるの」

 その言葉に僕はぎゅっと握りしめていた大切な鞄を巨石の下に取り落とした。拾おうともしなかった。

 僕は聞いた。

「あの庇護の天井はどうしてできたの?」

「知らないよ。ずぅーっと昔から、わたしが生まれるずっとずっと昔から、あったんだと思うよ」

「いま、この世界は何年なの?」

「そんなの、ないよ。おじいちゃん達が自分の歳を数えられなくなっちゃいみたいに、もう私たちの世界は年数とか年代を数えないの。それだけもう、おじいちゃんなの」

 また、風が吹いた。

 はるか遠くにかすんで見える山々の薄い稜線から幾程の時間をかけて吹きわたってくる。それは清廉さを含み、大地の木々を揺らし、梢を鳴らし、荻を歌わせる。

 僕はまたすぅーっと深呼吸した。

「ずっとこの世界にいることは出来るのかな」

「そういう思いになったらね、もう魂が戻ってきてる証拠だよ。あなたの心の隙間は、たぶんもうすぐ満たされちゃう」

「じゃ、じゃあ……!!! ここからいなくなるの!?」

「そういう事だね。迷い人はもといた『本来の世界』に帰ってゆく。あなたのハナシも面白かったよ。頑張れ、ツツジくん!」

 違う、新つつじヶ丘だ。

 そう否定しようとしたとき――。


「――おい!」

 振り返るとゴリラのような先輩がいかめしい顔で立っていた。

「おまえ、なにぼうっとしてんだよ。駅の改札前で。邪魔くせえだろうが」

 そう言われて、全身にぐっと重みを感じた。

 両手には鞄、背中にも資料を詰めたリュックがあることに気づく。

「まあそう気負うな。再開発案喋って今日は終いなんだからよ」

 豪快に言う先輩だが……それができないから困っているのだ。

「んで、とっておきの標語はできたのかよ?」

 先輩に指摘されて、いまのいままで忘れていた。

「おまえ、まさか忘れたんじゃねえだろうな」

「か、か、考えてきました……。その……」

 訝しげに僕を睨む先輩の視線が怖くて――。

「年代のない平原……です」

 そう答えていた。

 先輩はぴんと来ない顔をしていたが、「まあいいや」と吐き捨てた。

「東所沢駅の改修案でクライアントを納得させられるだろう。駅の上に作る空中庭園のプレゼンはばっちりだろうな?」

「は、はい! それはばっちりです!」

 そう答えたとき、ふと『庇護の天井』を思い出した。

 先を歩く先輩が「早く来いって」と振り返ったとき……僕は途方もない未来の世界を夢見ていたのではないかと逡巡し……今日のプレゼンの事に頭を切り替えた。

 本当になくしちゃいけないものは、たぶん、まだ、僕は失いきってない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

年代のない平原 HiraRen @HiraRen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説