残像/残響
この国の治安と安全を守護する警察当局の公式的な見解は知らないけれど、地元紙の片隅を飾った小さな記事によると彼女の死因は転落死。
この辺りで一番高い建物から、うら若きその身を虚空へと投げ出したそうだ。
社会の一部である世間からある種、隔絶されて隔離された空間である所属組織の我が学び舎では、その衝撃的な事件を受けて。
彼女を知る者知らない者を問わず、にわかに色々な噂が現れては消えて。
煙みたいにすぐさま立ち消えては、形を変えて幾度も囁かれた。
根も葉もない上に、葉脈や脈絡すら曖昧な噂が無遠慮さと不躾さを伴って人から人へ伝播して、無作為にも無闇に歪められ。
そして、今日もまた誰かに無責任にも伝播する。
悪意も善意も何一つ、有する強い感情を持たない無関係の第三者が面白可笑しく話を盛って、都合良く削って。
動物よりも浅慮な本能に従って興味本位の知ったかぶりで口々に違う誰かへマウントをとる。
思想や興味も持たずに暇つぶしの娯楽の為に、何でもない顔で他者の死を消費して行く。
曰く、彼女は苛烈ないじめの被害にあっていた。
曰く、彼女は売春行為に勤しんでいた。
曰く、彼女は年齢を偽り水商売をしていた。
曰く、彼女は唯一の肉親たる父親から性的虐待を受けていた。
僕の知る限り、飛び立った彼女についての下品な噂の多くは…大抵そんな感じの結論に辿り着いていた様に思う。
年齢に対する想像力の限界かな?
まだまだ残っていたはずの生命を自ら断つ程の大きな理由を、死を選ぶレベルの理由を思春期の学生はそれほど多く持たないせいもあるのかも知れない。
目を塞いでいても嫌でも耳に入ってくる雑音に似たそれらが彼女の――花岡ハナビの過ごした実情にどれほどマッチしていたのかは分からない。
尤も、僕が生きて彼女が死んだ情報化社会においては、それなりに本気で調べれていれば案外あっさり判明する事柄であっても、そうはしたくなかった。そうしなかった。
死人に口なしを最大限利用して、自身の空虚を満たしたつもりでいるだけの口さがない連中と同類になりたくなかったし、何よりも――それが本当に彼女の持つ多面性の一つであった場合――死んでも見たくない真実に耐えられる自信が無かったからだ。
僕の中での花岡は普通に親しくない級友であって、境遇の似ている人間になった。
そして傷を舐めあった、かけがえのない
だから彼女についての心無い噂話が不意に耳に入る度に堪らなく心がざわめいて、無性にささくれだって。
他人でしかない誰かが彼女を汚す度に耐え難い程に腹の底が煮えくり返った。
でも、そんな風に強い気持ちを持ったのも最初の方だけで。
やがてその内に僕は全ての色と温度を失った。
灼ける様な痛みや刺されるような感覚はすぐに何処か遠くへ行ってしまった。
失くしてしまったものの代わりに考えた。愚かしい代償行為。
彼女との短い会話の内容を思った。
彼女が数回見せた笑顔と無邪気さを思った。
僕のつまらない冗談に笑って、ツッコむように肩を叩く彼女の姿を思った。
網膜に焼き付いた嫋やかな肢体としとやかな髪の毛を思い出す。
会話の中で不意にチクリと刺さるシニカルな内面に惹かれた。
僕の至らなさを何だかんだで許容してくれる内面を好いた。
だから僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、僕は。
そして僕は―――っ、
そんなどうしようもない程に美化した短い過去と原初の姿とはかけ離れてしまった刹那の思い出。卑しくておぞましくて耐えられない程に醜い変容。
だって僕はもう自分で自分に自信が持てない。僕の中には確固とした真実がまるで見えない。
僕の思い出す彼女の姿は本当に彼女のものか? 声は? 表情は? 仕草は?
記憶の中で鮮明なはずの本当は現実的に彼女を正しく映し出したものなのか?
もう分からない。二度と見えない。
故に僕は枯れたエゴと茹だったイドと、一片の淡い幻想を胸に抱いて、朝のラッシュで賑わうホームに飛び込んだ。
僕と彼女以外の数え切れない誰かを乗せた快速急行がけたたましい音と振動を伴って眼前に迫る。
忌避する様な高い周波数でうなりを上げる鉄の塊が貧弱な有機物とそれに宿る虚弱な精神を追い越して行くまであと0.5秒。ヨン。サン。ニ。イちぃ―――、
夏、残像、残響。終局。 本陣忠人 @honjin
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