夏、残像、残響。終局。

本陣忠人

夏の日

 何だか妙に。

 やけに蝉の鳴き声が大きく、無性にその音が煩わしい気分になるような気怠い気分の夕方だった。


 備え付けられた空調が故障してるせいか、教室の窓は全て開け放たれていて。

 気圧差によって、時折思いついたみたいな微風に揺れるカーテンは――年代モノのカビ臭さを室内にバラまいた。


 気温と湿度の相互作用により汗ばむシャツの内側の不快指数は、天気予報では予想しきれない範囲で加速度的に増していくばかりである。

 

 誰かが何処からか持ちこんだであろう今にも止まりそうな扇風機がどうにも億劫な動作で首を振って空気を循環させる。

 申し訳程度の空気循環と換気対応、申し分ないが体感的には何も変わらない気がする。


 そのせいか、彼女が放った奇天烈な一言は僕の中にも――或いはこの空間の何処にも吸収される事なく――僕と彼女がいるだけのこの監獄に似た世界の周辺をいつまでも消えること無く回遊している様に思えた。


「父親に殺されるかもしれないの」


 いつまでも無言を貫く僕に業を煮やしたのか、それとも何らかの原因で聞き取れていなかったと判断したのか。


 それが持つ深さや意味合いは僕には到底計り知れなくて、いつまでも分からないことだけど。


 圧倒的な現実として、彼女は数秒前に告げた言葉を繰り返した。

 僕の記憶力を信じるなら一言一句間違いなく、同じ言葉を。もう一度。


 更に言えば、記憶の通りだった故に僕の行動も巻き戻しと呼べるものだった。

 

 つまりは依然として無言。

 怪訝さに眉を寄せて、荒唐無稽を吐き出して救いを求めるみたいに声帯を揺らさずに唇の開閉を行う。


 そんな間抜けな顔で餌を求める鯉か、調理を待つばかりのまな板の上の鯛を思わせる愚鈍な僕。

 半袖シャツの背中側を抜ける汗の原因はきっと猛暑日と言われる気温のせいだけでは無いはずだ。


 窓辺に佇む彼女は短く切り揃えられた前髪を幽かに揺らす風を感じた刹那、膝より高い位置にあるプリーツスカートと毛先の緩い横髪を両の手で抑えた。


 意地悪な風はすぐに止み、彼女の両手は自由を取り戻す。意地悪と感じるのは僕だけの認識のようだ。


 意図とは違う不意なラッキースケベを期待した僕としては些かバツが悪い。自分勝手な気不味さを身勝手ながらひしひし感じる。


 その打開を目的とした訳では無いだろうが、それでもあらゆる善悪と正負を切り裂く様に三度彼女は繰り返す。


「ねぇ、浅野くん。私…父親に殺されるかも知れないの」


 今度は枕に僕の名字が加わった以外は同じ台詞。

 しかし、名を呼ばれることで強制に似た引力が生まれたのも事実だ。


 一説によると名指しされることで人間はある種の責任感を覚えるらしく、緊急時の対応なんかに利用されるメソッドらしいのだが、それに近しいものだろうか?


 僕は生暖かい唾を飲み込んで、なるべく当たり障りのない言葉を選んだ。


「そ、そうだんだ。へぇ…そいつは穏やかじゃないね。ああ、実に穏やかじゃない」


 同じ言葉をただ繰り返すのは何も考えていない証明で、話題に対して自分の考えを持たない事を言外含めて雄弁に語っている。

 そしてそれを踏まえた上で自己を正当化するならば、至極当然な反応だと思う。


 放課後になって、急にそんなに親しくない同級生に呼び止められて。

 何だかよく分からないままに人気の少ない教室に移動して。


 あわや愛の告白でもされるのかと淡い期待を心の何処かで抱いたのも束の間、恋慕とは違う種類のセンシティブでプライベートな告白を聞いた。


 それで、僕にどうしろと?

 君は僕に何を求めているんだ?


 展開が唐突で何一つ理解が及ばない現状において僕がすべきことなんか有るのだろうか?


 疑問符に支配されているのはどうやら僕だけで、彼女はそうでは無いらしい。

 夕陽を背にセーラー服に赤色を透過させたまま薄く笑う。


「そう。穏やかじゃないの…全然穏やかじゃない。もうほんとに、最低サイテーに激動なんだ」


 ペロリと舌を出して悪戯な表情でそう締めた。

 それは彼女の持つ快活な雰囲気に良く似合う。


 だけど、違和感があるとすれば、笑顔の割に眼が笑っていないこと。眼の奥で鈍く光る色は言葉の通り、常識的な「穏やか」さを欠いているように見えた。


 これはいよいよ深刻で真剣な話題なのかも知れないと傍観者の僕が警告する。君子危うきには絶対に近寄らずとは僕の言葉だ。すまん、そうであって欲しいだけの現実逃避癖がゆえの空想だ。


 夢想を掻き消すリアルな感触と実感。

 首筋にも汗が滲む感覚。左手でその源を探すように触れる。


「それで君は――花岡は? どうしたいの?」


 花岡ハナビ。

 それが父親に殺されそうだと主張する女の名前。


 僕の意思や彼女の意図はどうあれ、これが紛いなりにも相談の体を持っているのならば、究極的な着地点はそこである。彼女が『何を』求めるかに尽きる。


 父親に殺されそうな人間がどうしたいのか…生憎僕には想像すら出来ないから。有能風なアウトソーシングを称して、詐欺師のように依頼主にバトンを差し戻した訳だ。


 僕の巧みな話術と手練手管が功を奏したのか、手番をスキップすることに成功し、彼女のターンに移行する。


「どうかな…。それを決めかねているからこそ、君に相談したんだって――そういう回答は駄目かな?」

「駄目では無いけど…絶対的な理由にはならないよ」

「だよね。わかってる…うん。信頼してもらうには全然足りないよね」

「その自覚があるなら結構。これなら僕のは――」

「だから私も胸襟を開くことにする」


 き、き、きき胸襟ですと…っ?

 同い年の女子がそういうと、なんだかとてもいやらしく聞こえて。意識せず――或いは意識して――反射的に視線が動く。

 首筋とセーラー服の襟が織りなすデルタ地帯、薄っすら見える鎖骨の更に奥を覗こうと懸命に目を凝らす。くそったれ、見えないッ…!!


 僕の淫らな凝視が余りにも露骨だったせいで多分普通にバレた。

 花岡は右手で素早く胸元を抑えてエデンが見え隠れする天岩戸を消してしまう。


「…えっち」

「ごめんなさい」


 これならいっそ普通に罵ってくれた方がマシだった。

 整えられた眉をひそめて桃色の唇を尖らせる彼女を見て今更罪悪感が強く芽生える。


 このままでは罪悪感がコンプレッションウェアの様に僕の全身を加圧して、やがて潰れてしまいそうなのでその前に圧力からの脱出を試みる。


「そ、それでっ! 胸襟を開くってのは何かしらの私事な事実を明かして。心を開いて本音で語り合おうって意味だよな?」

「そこまでちゃんと理解した上で、私の胸元を覗いたんだ…ふ〜ん、へぇ…」

「ふ、ふっ、不可抗力だっ! 僕が悪いのは間違いないが、花岡の言い方も良くなかっただろ?」

「まー、いーけどね。それでも」


 言葉の割に全然納得していない感ありありの表情で一旦会話を区切り、キョロキョロとサバンナの草食動物を思わせる目の色で辺りを見回す。


 そして声を落としてから、如何にも内緒話ですと言った装いで僕の耳元に囁いた。


「あのね…私、父子家庭なんだ」


 あぁ…、なるほど……。


 全ての得心が行った。

 こうして大して親しくもない級友に彼女が声をかけたのは――僕がその対象に選ばれたのは――そういう訳か。委細を把握した。


 なら僕の返答は決まってる。生まれた瞬間からそれは確定している。


 納得と諦観を混ぜ込んだセピアに染まった息を深く吐き出した。


「そっか、なら僕も自分を開かなきゃな…実は僕んは――母子家庭なんだよね」

「風のウワサでそう、聞いたよ…」

「それは破廉恥な風だね」

「しかも悪意が無いのが更に厄介」

「違いない」


 目線を合わせずに小粋な会話のやり取り。皮肉や風刺と呼ぶには余りにも個人的見解が含まれた言葉。


 だから僕達はどちらともなく笑い出した。彼女のソプラノとそれより低い僕の声がハモる訳でもないけれど、平行線よりは確かに重なって。


 見慣れた教室に知らない音が響いた。

 

 やがてそれも数分持たずに残滓も残さずに綺麗サッパリ無くなって。

 僕達は互いの生活の不満を吐き出した。


 端的に言えば片親の子供としてネガティブ方面のを愚痴りあった。


 独りで育ててくれていることには感謝している。

 けれど配慮が足りないし、理解が及んでいない。

 加えて世間の目は無遠慮で、社会の目は何故か厳しい。


 僕達はただ生まれて来ただけだというのに。

 おぎゃあと生まれた瞬間のその先に両親の内、ただ一人が存在していなかっただけだというのに。


 当たり前みたいに父と母がいる家庭に帰りたい。

 サラリーマンの父がビールを片手に野球中継を見て、選手の采配にケチをつけている。

 専業主婦の母は家事の苦労を語りながらそんな父を嗜める。


 飽きずにそれを繰り返す両親を思春期ごっこに興じる僕は冷めた目線を送りながら温かいご飯を食べて、机の上に置いたスマホが震えないか――気になる異性からメッセージが来ないか内心ドキドキしている。


 夢みたいな生活リアルがどうして僕達の毎日には存在しないのか。

 

 そういった惨めで妬ましさに溢れていて、どうしようもない事実について語り合った。

 みっともなく傷を舐めあって、興が乗った所でタイムアップ。


 完全下校を知らせるチャイムが無慈悲に機械音を無機質な感じで鳴らす。

 やがて巡回の教師に追い出されて、校門の外に投げ出された。


 またも顔を見合わせて笑う。目の端に涙を浮かべる程に笑ったのはいついらいだろう? 彼女の方は知らないけれど、僕は本当に久しぶりの気分だった。


 これが青春小説ならば、場所を移して第二ラウンドと行くのかも知れないけれど、生憎僕が生きるのは純然たるノンフィクションの世界。


 そんな甘酸っぱい延長線は訪れない。


「じゃあね、浅野くん。私帰ってから『あの人』の夕飯の支度をしないと――、」

「しないと?」


 きっと、


 花岡ハナビは目を伏せて、声を殺してそう言った。

 それがどの程度の真実を含んでいるのか、はたまた彼女の言う「あの人」とは誰のことなのか。


 鏡越しの隣人たる僕には想像するしかない彼女が抱える生活げんじつだ。


 ただ、今にして思うのはここで彼女の手を取って、何かしらの行動を起こせば――。


 彼女のその後はちょっとは変化したかも知れないという自罰に似た感傷があるのも事実だけれど。


 話と意識と時間軸を戻そう。


 僕とよく似た境遇の彼女は再び「じゃあね」と口にして小走りで去って行く。


 全身の運動に合わせて髪がコミカルに揺れ、膝より上にあるスカートが悩ましく揺れ、肩にかけたスクールバックが重々しく揺れる。

 後ろから背中を眺める僕には分からないけれど、ひょっとしたら同級生の中では目を引くサイズの胸部もいやらしく弾んでいたかも知れない。


 なんて思春期の些事にも程がある下世話な物思いはさておき――それこそただの逃げ口上で――僕が花岡ハナビの姿を見たのはこれが最後であり最期となったことだけは述べなければならないだろう。


 彼女と性的な意味を含まない胸襟を開いて、お互いがそれなりに本音を見せあった翌日。

 僕が去りゆく彼女を歳相応に歪んだ感情混じりで見送った数時間後。


 彼女は自殺した。

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