#3 兆しの連星

 僕は、死神なんだ。

 そう思うようになったのは、児童養護施設で暮らし始めて暫く経った頃のことだった。

 今から7年前——一般では小学校4年生くらいの歳だったと思う——に、僕は児童養護施設『陽だまり寮』に預けられた。といっても、どのような経緯で入るようになったのかは分からない。何せそれ以前について僕の記憶は曖昧で、どんな暮らしをしていたのかも、そして親の顔すらも覚えていなかったから。

 施設の職員の人に聞いた話になるけれど。当時の僕は『陽だまり寮』の前で倒れているところを発見されたそうだ。僕が所持していたのは小さなリュックサックと財布と一冊の本。そして財布の中には、少しの小銭と身元を証明する保険証だけが入っていた。それを元に施設の人が両親を探してくれたが、知ることができたのはその当人らが既に事故で亡くなってしまっていることだけだった。

 それから陽だまり寮の人は、何人かいたらしい僕の親戚の人にも当たってくれた。しかし、どの家も僕を引きとることができない事情があったため、結局僕はそのまま陽だまり寮で暮らすことになった。

 施設の人は僕を温かく受け入れてくれた。施設で暮らす他の子供たちも同様だった。もしかしたら、ここに来るまでの僕は不幸だったのかもしれない。忘れたからこそ、今ここで幸せに暮らせているのかもしれない。そんなことを考えて、そして忘れる日々が続いた。


 異変が起こったのは、それから1年近く経ってからのことだった。

 ある日、仲良くなった施設の子が転んで怪我をした。

 ある日、僕を気遣ってくれた施設の人が病気になって来なくなった。

 最初は特に何事もなかった、というよりも僕が気に留めない程度のことだったのかもしれない。ついさっき1年近く経ってからと言ったが、それも僕が気付いたのがそのくらいになってからで、本当は施設に来て間もなくの頃にも起こっていたのかもしれないけれど。

 それでもやっぱり今思い返しても、それは特に特別でも何でもないことだ。

 けれども僕の周りの不幸は、いつしかそんな些細なことで済ますにはスケールが大きくなっていった。

 ある日、仲良くなった施設の子が事故に遭った。

 ある日、施設の人が犯罪に手を染めて捕まった。

 ある日、施設の人の家族が亡くなった。

 ある日、同じ部屋に住む子が施設から姿を消した。

 これらだけじゃない。もっと多くの様々な不幸が、僕の身の回りで頻繁に起こるようになっていた。

 勿論、これはただの偶然なのかもしれない。ただの偶然と思えば良かったのかもしれない。

 だけど——僕は思い出した。忘れていたのに、思い出してしまった。


『貴方の所為であの人も、あの子も死んだ!! そうよ、貴方も……死神よ!!』


 誰なのかは分からない。だけど、確かに僕は過去にそう言われた。失っていた記憶にそう刻まれていた。

 そしてその言葉は、僕の心に呪いのように消えずに残った。

 ああ、僕は死神なんだ。だから僕は他人と関わったらいけない。僕に関わったら、みんな不幸になってしまうから——。

 いつしか僕の胸中には、常にそんな想いが渦巻くようになった。そして、他人と一定以上の距離を置くことが当たり前になっていた。

 僕は、いつも独りだった。

 でもそれで良いんだと、自分に言い聞かせて。

 だって、僕は、死神なんだから。


 * *


 暗い廊下を一歩ずつ進んでいく。

 多くの扉と窓が並ぶ。だけど、どこも明かりは点っていない。暗闇に慣れた目がぼんやりと区切りを示してくれる。

 僕の歩みは止まらない。まるで何処かに導かれるように。

 ふと僕の足がある扉の前で止まる。扉の隙間からうっすらと明かりが漏れ出ている。ドアノブに手をかけて、ゆっくりとその扉を開くと——


「ああああああああああ!!!!」

 薄暗い部屋。多くの機械が据えられたSFのような世界で、少女の泣き叫ぶ声だけが僕の心を揺さぶるように空間に響いた。

「痛い!! 痛いよ!! 止めて!! もう……止めて!!」

 暗闇に一点だけスポットのように証明が照らされている。

 その光の下、椅子に縛りつけられ苦しそうにもがく姿が、僕の目に痛ましく映る。

 これは、何だ?

 あの子は……誰だ?

 いや、あれは確か、東雲昴と一緒にいた……

「助けて! 昴!! 誰か……助けて……!!」

 少女の瞳から涙が溢れる。

「助け……て……」

 そしてそのまま、事切れたように少女の手足はだらりと力が抜けた。

 その瞬間、

「——っ」

 僕と目が合った気がした。そして、

「どうして、君は助けてくれないの?」

 言葉は鋭い刃のように僕の心を突き刺した。


「ねえ、どうして」


 ……


「貴方には見えてるんでしょう?」


 止めろ。


「自分には関係ないって思っているんでしょう?」


 止めろ。


「だから、すぐに忘れようとする」


 ……止めてくれ。


「だから、すぐに逃げようとする」


 ……違う。


「『自分は死神だ』って言い訳して、貴方は何もしないの?」


 ……違う、僕は、


「貴方は、何がやりたいの?」


 ……そんなの、

 分かる訳ないじゃないか。

 何がやりたいかなんて、分かっている人なんているのか?

 そんなのはほんの一握りの人種だけだ。

 ……だけど、今これだけは言える。

 僕は、誰かが苦しんでいるのを、悲しんでいるのを、見たくないだけなんだって。


「なら、貴方はどうするの?」


 ……え?


「見たくないから、見て見ぬふりをするの?」


 ……だって、僕には、それしかできないから。


「本当に?」


 ……そうだよ。


「それで貴方は、本当に良いの?」


 ……僕は、

 僕は……何ができるんだ?

 受け入れる?

 それとも変えようとする?

 でも僕は、何も持っていない。

 僕独りだけでは、何もできない。

 だから……

 

 逃げるという選択肢を、忘れるという選択肢を、

 


 * *


「お前の彼女が、死んじゃうんだ!!」


 一瞬、昴の頭の中は白んだ。言葉の意味が理解できなかった。

 程なくして冷静になった頭の中で言葉が反響する。

 お前の彼女が死ぬ。

 俺の、彼女?

 それって、誰のことだ?

 ……いや、まさかこいつ、昨日のアレを見て誤解してるのか? ってことは……!

「あ、明鐘のことなのか!? てかお前、いきなり死ぬって何言ってんだよ!?」思わずカイルに掴みかかっていた。だがカイルは既に錯乱して焦点を失っており、うわごとのようにひたすら否定の言葉を呟いていた。

「駄目……そんなの……でも……僕は……」

「おい、どういうことか説明しろよ!! 明鐘が何だって!?」

 この状態ではまともな返答など返ってこない。そんなことはとうに理解していた。けれども、カイルの発したその言葉の意味が全くもって理解できなかった。

 死ぬ? 明鐘が?

 何でそんなことをこいつが言うんだ。

 何ふざけたことを言ってるんだ。

 怒りと、不安と、疑問と、その他様々な感情が昴の胸中を飲み込んでいく。昴にはもう、感情を抑えきれなくなっていた。

「おい! どういうことなんだって聞いてるだろ!! 何とか言えよ!!」

 思わず殴りかかろうと腕を振りかぶる。その最中、不意にカイルの頭が電池の切れた人形のように揺れ、身体全体を支える力がなくなる。それを昴は瞬時に察知し、振りかぶっていた腕でカイルを支えた。カイルは昴の腕の中で力を失い、だらんとうつ伏せの状態になっていた。

「くっ、またかよ……」軽めとはいえ男一人分の重さが昴の片腕にのしかかる。昨日と全く同じ光景と返答が返って来なかった苛立ちと行先を失った怒りを掃き出すように、昴は大きくため息をついた。

 だが同時に昴の中には疑問が思い浮かぶ。

 またこうなる、っていうのはどういうことなんだ?

 こんな風に頭痛があって気絶して……なんてのが、実際しょっちゅう起こるものなのか?

 こういうのが頻繁にあるとしたら、何らかの病気があるとされてもおかしくはない。もし仮にそんな病気があるとしたら、同居人に少しは説明があるのではないか? 或いはこの寮ではなく病院に入院するのではないのか?

 こいつには、何かあるのか?


「おい、離せ」

 ふと腕の中から声が聞こえる。気がつくと腕にかかっていた力はほとんどなくなっており、カイルが首を起こして顔を昴の方に向けていた。だが長い髪の毛が顔を覆い、どんな表情をしているのか昴には読み取れない。

「え? あ……悪い……」昴は戸惑いつつも支えていた腕の力を緩め、カイルの身体を解放する。期を伺っていたらしいカイルはすぐに昴の腕を跳ね除け、昴の前に向き直った。長い前髪の奥に、昴を見据える鋭い瞳が見える。ついさっき気を失っていたのが嘘のように、カイルは何の支えもなくしっかりと足を着いて立っていた。

「お、お前……大丈夫、なのか?」

「何がだ」カイルが冷徹な声色を発する。初めて聞く声だった。今までに何度か言葉を交わしたりついさっき発狂していた姿とはまるで別人のようだった。

「だ、だって、俺の彼女が死ぬとか、何とか……」

「何のことだ。そんなこと、知らないな」

 その瞬間、昴の心に引っかかっていたものが解けた——あるいは余計に引っかかりが強くなったように感じた。そして。

「……お前は、誰だ?」思わず昴はカイルの胸ぐらを掴み上げていた。

「誰だ、とは? 俺は俺だ」それでもなお、カイルは冷静な声音で吐き捨てる。少しだけ身長の高い昴を、闇の中から睨みつけている。

 もしかして、と咄嗟に思い浮かんだ疑問が僅かに確信へと近づく。昴は少しだけ考えを巡らせた。これがもし仮にそうなら、確かにカイルは“病気”なのかもしれない。小さく呼吸をした後、昴は沈黙を破るようにその疑問をカイルへとぶつけた。

「……お前、二重人格なのか?」

「……」返事はなかった。だけど昴はそのまま言葉を続けた。

「お前とカイルじゃ、明らかに態度が違う。顔つきが違う。あいつには感情があった。俺を避けるような態度だったけど、それでも何か考えがあって無理してやってるのは分かった。だってあいつの顔が——何処か寂しそうだったから。でも、お前は違う。お前には感情がない。意図が見えない。ただ俺を、その態度だけで突き放そうとしてるだけに思える」

 そう、これは昴の経験から得たものだった。何かを考えて行動している人は——人によって個人差は大きいものの——その考えが表情や態度に現れやすい。人を観察するのが癖になっている昴にはそれを読むことは容易かった。

 皮肉にもそれは、数年前にこの寮に入る原因となったある出来事がきっかけで得たものだったが。

「……」カイルはなおも口を閉ざしていた。目つきが少しだけ更に鋭くなったような気がするが、それでもなお昴は続ける。

「というか、まず一人称が違う。あいつは自分のことを“僕”って言ってた。そこを一致させてない時点で、お前に隠す気はないんじゃねぇのか」

 昴が話し終えた後、しばらくの間沈黙が続いた。二人は対峙し互いに睨み合っていた。まるで初めて寮の前で会った時と同じように。

 やがてあの時とは違って昴の方が痺れを切らしてしまい、昴は一息ついて再び口を開いた。

「……で、さっきあいつが……俺が今までに会った“カイル”が言ってたのはどういうことなんだ」

「……」相変わらず目の前のカイルは黙り続けていた。このまま白を切るつもりなのだろうか。だがそうはいかない。

「俺の女……っていうのは、たぶん病院で一緒にいた時に見た明鐘のことを言ってるんだろ? 明鐘が死ぬっていうのはどういうことなんだ。それとも、お前には分からないことなのか?」

 再び沈黙が訪れる。重い空気が暗闇に広がっている。

 恐らくこのままカイルはだんまりを決め込むつもりだろう。それでも、今の昴には折れない自信があった。この時間、一切の眠気を失ってしまった昴は、普通の人では日中とほぼ同程度のコンディションだ。夜更かしに慣れてないような普通の人は眠気に耐えられる訳がない。そして、夜は長い。これも数ヶ月の間に得た経験と実体験だった。

 暫くの沈黙の後、カイルはふっと息をついた。このままでは埒が明かないと判断したのだろう。ようやく重たかった口をゆっくりと開いた。

「……流石にそろそろあいつが起きる。仕方ない。それまでに終わらせなければいけないからな」驚く程に冷静な声音だった。それに引き寄せられたのか、先ほどまで気が動転して怒りが渦巻いていた昴も、今ではすっかり落ち着いていた。

「話す気になったか?」少しだけ威圧するように目の前の同居人を睨みつける。

「ああ。だがあまり時間もない。お前には簡単に要件だけを話そう」

 だが彼はそんなことなど意に介さず、先程までと全く変わらない口調で話を始めた。


「まずお前の想像通り、俺たちは『解離性同一性障害』というやつだ。そして、あくまであいつの方が主人格で、俺はいわゆる副人格。俺はあいつの苦しみを全て引き受けるための存在だ」

 多重人格——一般的な病名で解離性同一性障害と言われるその病気の概要は、昴も大まかには知っていた。といっても、それはフィクションにおけるキャラクターの個性として形骸化されたものだ。

 『一つの人間に二つ以上の人格が存在する状態』

 これを基本に多重人格の設定をキャラに与え、物語の重要なキャラやネタキャラとして位置付ける。また、人格の入れ替わりを変身のように演出したり、物に宿った全くの別人が憑依したりといったそれぞれの物語独自の設定として多重人格を扱い、ギャップ萌などにより人気キャラになったりもする。明鐘の好きなアニメでも二人以上の人格を持つキャラが界隈で一番人気になっているらしいということは昴も聞いていた。

 しかしそれはフィクションの話。実際にはそんな話などはありえない。病気としての多重人格の話はネットにもあるが、現実はそんなに華々しいものではない。フィクションではあり得ても、現実ではそんなことはそうそう起こるようなことではない。そう思っていた。

 だが、今目の前にいるこいつは……

 これはフィクションじゃない。現実だ。

 確かに彼が多重人格者であるのは昴が言い出した。だが実際に本人の口からそれを聞いてしまったことで、反対に何処か現実味が失われてしまったような気がしていた。


「そして、お前が一番聞きたいだろうことだが——残念ながら、忘れろ」

「……は?」思考に更けていた頭が現実に引き戻される。「それは、どういうことだ」思わずまたキツい口調でカイルに詰め寄っていた。

「あいつもさっきのことは忘れる。あいつが忘れたいと願ったから」

「そんなの、主人格のあいつが願ったからって……副人格のお前に本当にできるのかよ?」

「ああ。俺はあいつを守るために生まれた。だから俺は嫌な記憶を全て消してきた。あいつの願い通りに。……だからあいつには何を聞いても無駄だ。当然、俺のことも……な」今まで表情一つ崩さなかったカイルの顔が一瞬だけ翳ったような気がした。

 忘れる、というのは多重人格でよくある『入れ替わった時の記憶をなくしている』ということだろうか。だったら、実際に都合の良い記憶だけを消すということは不可能ではないのかもしれない。そんな分析をしつつも、昴の胸中には怒りと焦りを超えて新たな疑問がふつふつと湧き上がってきていた。

「……お前は、それで良いのかよ」

「……」

「お前は、あいつに何もかも忘れさせて、本当に良いのかって聞いてるんだ」


 忘れる。

 それで、自分の存在も忘れさせるって?

 それは、本当にあいつが願ったのか?

 ただ逃げてるだけじゃないのか?

 一番近いところにいるのに、一つの身体の中にいるのに、存在を知らないって、知られてないって、

 それじゃあ、こいつは、こいつらは、ずっと一人きりで何も変わんないんじゃねぇのか?


 それは親切から出た言葉なんかじゃなかった。

 ただそれは、昴自身が恐れていることで。

 逃げたいと願っていても、それを許してはいけないと心の何処かで思っていて。

 だけど、昴は既にそれを選択してしまっていて、他の選択はもうできないと諦めていて。

 こう言ってくれる人があの時に居てくれたらと、心の何処かで思っていて。


「……お前は、良い奴だな」ふっと息を吐いて、カイルは呟く。

「……え?」それが突然のことで、昴は思わず喫驚の声を漏らす。それはこの少しの間で初めて聞いた、少しだけ感情があるように思える言葉だった。

「あいつが、カイルが言ってたよ。お前は良い奴だって」

「……そう、なのか?」

 それは意外だった。

 まさかこの数日だけで、あいつがこう思っていたなんて。

 昴自身は他人に優しくしているような自覚はあまりなかった。

 ただ自分がこうしたいと、こうすることが当たり前だと思うことをやっていただけだった。

 少なくとも、あの時に逃げた自分は良い奴ではないと、昴は自分を評価していた。

 そして残念ながら、それが昴の中で揺るぐことはなかった。


「一つだけ、教えておいてやる。お前の女……明鐘っていう子だったか、そいつが死ぬのは真実だ。だけどそれはこれから起きることだ。お前なら……もしかしたら、それを変えられるのかもしれないな」

 二段ベッドの梯子に足をかけ、登ろうとする背中がそう告げる。

「俺が言えるのはこれだけだ。……たぶん、二度とお前と話すことは……ない。じゃあな」

 そう言ってカイルはベッドに寝転がり、布団の中へとその身を潜らせた。間も無く穏やかに眠る寝息が昴の耳に聞こえてくる。

 昴は一人部屋の真ん中に立ち尽くした。


 明鐘が死ぬ?

 カイルの言うことも到底信じられるような内容じゃない。

 だけど俺は……どうするんだ?

 ここで何もせず、また同じことを繰り返すのか?


 夜が明けるまでの残りの時間を作業に充てることもできず、昴はただ一人思考の世界へと意識を飛び立たせていた。


 * *


 この部屋で暮らし始めてから二回目の朝がやってきた。


 昨日とは打って変わり、昴は既に部屋から姿を消していた。ただ、通学用の鞄はなかったから、もう既に準備を済ませて学校に行ってしまったのだろう。

 時計を見る。6時5分。いつもより少し寝坊してしまったが、今日の朝礼には十分間に合うだろうと軽く目測を立てる。そして昨日と同じように1階の風呂場へと向かった。

 昨日の授業後の放送で、今日の朝に緊急朝礼が行われることは聞いていた。それもあってか、昴だけでなく生徒たちの流れは昨日よりも早かった。現に昨日と同じくらいの時間に訪れた食堂では、既に食事を楽しんでいる多くの寮生がいた。僕もそれに混じって昨日と同じように食事を済ませる。

 今日の献立は和食だった。ご飯も味噌汁も味はまあまあだと思う。陽だまり寮では和食が出ることが多かったためか、慣れ親しんだ朝食で昨日よりも美味しく感じた。


 食事を終えた僕は何事もなくまっすぐ部屋に戻り、机の上に置かれた本を手にする。背表紙で藍色の石が揺れる。その本を鞄にしまいつつ時計を見ると、その針は7時15分を少し過ぎたところだった。昨日は新海さんの話を聞いたことで遅くなってしまったが、この時間なら昨日よりも1本早い電車に乗れるだろうか。そう思って部屋を後にしようとした時。

『……る、……』

 声が聞こえた、ような気がした。瞬時に周囲を見回してみるが、部屋の中には誰もいない。

 疑問に思いつつもいつの間にか自分が立ち尽くしていたことに気がつき、足を部屋の外へと向かわせようとする。

『……る、……こえ……』

 また声が聞こえた。今度は少しだけはっきりとしていた。相変わらず周りには誰もいない。部屋を出て外を見回してみるが、別の室内や階下から声が聞こえてくるだけで側に人の気配はなかった。

 何なんだ? 幻聴か?

 それとも、誰かが僕に話しかけているとでも言うのか?

 ……いや、余計なことを考えるのは止めておこう。それよりも学校に行かなければ。

 また止まっていた身体を動かして、僕は部屋の鍵を閉める。一度引いて鍵がかかったことを確認した僕は、扉を後目に部屋の前の階段を静かに降りていった。



 昨日とは違い何事もなく教室にたどり着くと、教室内は生徒たちの雑多な会話で溢れていた。静かに自席へと向かおうとすると、一人の女子生徒からおはようと明るい声をかけられる。僕は軽く返事をして受け流し、何事もなかったように席に着いた。

 鞄から教科書を取り出しつつ密かに横目で見る。つい先ほど話しかけてきた生徒は、複数人の女子グループの中へと駆け寄っているようだった。不満そうな顔で何かをぼやいたかと思うと、それがグループの全員に同じ顔が広がった。一瞬だけ僕の方を見たような気がしたが、教科書越しに顔を逸らしたため気づかれてはいないだろう。

 女子生徒たちが話している内容は聞こえなくても分かった。大方僕に対する期待が外れたとか嫌な奴だとかそんなところだろう。

 でも僕はそれで構わない。想定通りだ。

 教室の壁にかけられている時計を見る。8時15分。昨日、帰りのホームルームで振井先生に告げられた時間まではまだ10分以上あった。このくらいなら少しは読み進められるか。


 暇つぶしに鞄から本を一冊取り出す。『ウィズと魔法の冒険』と書かれたそれは、陽だまり寮の施設の人から貰った本だった。

 僕は暇さえあれば読書をするくらい本の虫だと自負している。消灯された施設内の布団の中でこっそり読んで夜更かししたことも頻繁にあった。児童養護施設に来る前もそうだったかは分からないが、当時の所持品に本があったことから、それは昔から変わらなかったのかもしれない。

 でも同じ本を何度も読むようなことは滅多になかった。一度しっかりと読んで、読み終えたらそれきり。だから自分で本を買うことはほとんどなく、図書館や図書室で本を借りたり、施設の共用スペースに置かれている本を借りて読んでいた。

 けれども陽だまり寮を去る数日前、一人の施設の人が僕に声をかけてきた。その人は僕が陽だまり寮で暮らすようになる前から施設で働いていた人で、僕が陽だまり寮で暮らし始めた当時に共用スペースで本を読み漁っていたり、頻繁に近くの図書館へ出かけていたりと読書が好きなのを覚えていてくれたらしい。

 その人は僕に共用スペースの本を一冊あげると言ってくれた。本当は断るべきだっただろうが、本をくれるという誘惑に勝つことは出来なかった。結局そこの本の中から一冊選び抜き、星野寮へ送られる段ボールへと詰められた。それが、今僕が持っている唯一の本だった。

 数年も前に一度読み終えたけれど、もうその内容も忘れてしまった本。背表紙に書いてあるあらすじも特別惹かれるような内容ではない。だけど、僕は数ある何気なくこの本を選んだ。何故この本を選んだのか、その答えは果たしてこの本の中にあるのだろうか。

 そんなことを考えつつ、本の表紙寄りのページから飛び出る金属製の栞を軽く支えて本をめくる。昨日読んだページが開かれると同時に、背表紙の向こうで藍色の石の付いたチャームが揺れた。

 この栞とも長い付き合いだ。というのも、これは僕が陽だまり寮に来た時の所持品の一つだった。金色の斑点模様が散りばめられた藍色の石。そんなチャームが付いた銀色の薄い棒状の栞。普通の栞とは変わってかんざしのような形をしたそれは、何かの特注品のような特殊なものなのかもしれないし、僕が陽だまり寮に来る前からの宝物だったのかもしれない。だけどそれ以上に本を読む僕にとっては必需品で、本を読むときはいつもこの栞を使うのが当たり前だった。

 その栞を本から外し、右手の中指と人差し指で落ちないように挟み持つ。

 昨日読んだところは確か主人公が不思議な力に目覚めたところだったか。主人公のウィズが魔法の石に触れたことで魔法が使えるようになって……

 ……読み始めた時から思ってたけど、内容がどうも幼稚すぎないか?

 というか字幅が広めだったり難しい漢字に振り仮名が振ってあったりと、明らかに小学生向けの本だ。

 そんなことすら気にもせずに、僕はこれを選んで読んでいたというのか……

 い、いや、でもこういうのは読み始めたら案外楽しいものだ。それに、面白ければ子供向けも大人向けも関係ない。

 雑念を振り切って読み進めていく。登場人物が新しく現れ、物語が移り変わっていく。

 魔法の力に目覚めたウィズが新たな人物と出会い、国中を旅するようになる——。


 と、数ページほど読み進めたところで不意にザザッと雑音が耳に入る。間もなくスピーカーから声が聞こえてくる。

『あー、あー。……おほん。みなさん、おはようございます。選挙管理委員会委員長のヒサノです。今から緊急集会を行います。テレビを付けていないクラスは電源を入れて……』

 その声と同時に、テレビの画面に一人の男子生徒の姿が映る。いつ教室に入ってきたのか、教壇の横にテレビのリモコンを手に持った振井先生が立っていた。振井先生は生徒たちを睨め付けるように教室を見回していた。

 あの先生はイラつかせると厄介そうだ。僕は急いで今読んでいるページに栞を挟み、机の下に隠して何食わぬ顔でテレビへと顔を向けた。幸い振井先生は何も気づかなかったようで、特に意を介さず画面へと意識を移していた。暫くするとテレビに映っているヒサノという男子生徒は、マイクを手に持ち手元の紙を確認しながら神妙な面持ちで話し始めた。

『まず初めに、昨日行えなかった生徒会役員選挙についてです。ご存知の方もいらっしゃると思いますが……』

 ほんの少しだけ間が開く。ヒサノと名乗った生徒が一瞬言い淀み、顔が少しだけ歪んだように見えたが、しかしすぐに平静を取り繕って再び口を開いた。

『……前生徒会長で今期生徒会長候補者の、日野陽羽あきはさんが交通事故に遭われました』

 瞬間、クラス中がどよめいた。

「えっ……陽羽先輩が……?」「うそ!? そんなの……」「やっぱりあれ……」

 このクラスだけではない。隣のクラスや別の階のクラスからも生徒たちの動揺の声が聞こえてくる。

 もちろん僕も何も思わない訳がなかった。

 日野陽羽。名前と顔だけは廊下に貼られている生徒会選挙のポスターで知っていた。だけど、それだけだ。直接会ったことはない。だから僕には関係ない。

 ……筈だけれど。過去には僕が直接会っていなくても関わった人と親しかった人が例が何度かあった。

 確証はない。だけど僕には関係のないものだとは思えなかった。

 これも、僕が?

 いや、違う。僕は……

「静かになさい!」

 その時、思考の渦に飲まれかけていた僕を鋭い声が引き戻した。

「まだ朝会の途中よ。きちんと聞きなさい」

 見ると振井先生が声を上げていた。それに気圧されてたのかクラス中から雑音が薄れていく。別のクラスからも同様に叱るような大人の声がパラパラと聞こえていた。

『……以上のことから、次期生徒会長は、前生徒会副会長で今期生徒会長候補者の箕輪琴音みのわことねさんにお願いすることとなりました』

 次第に他のクラスからの声も小さくなり、放送の声が再び聞こえるようになってくる。クラスの声はヒソヒソとまだ辛うじて聞こえるものの、先ほどまでの放送が聞こえなくなるほどの大きな声ではなくなっていた。

『では、今期生徒会会長となった箕輪琴音さん、よろしくお願いします』

 テレビに映っていた男子生徒の姿が画面外に消え、間もなく身なりの整った女子生徒が現れる。ほんの少し茶色がかった黒髪をポニーテールに結えた女生徒。これも選挙のポスターで見た顔だ。箕輪琴音と紹介された新生徒会は、画面の方へしっかりと顔を向け、はっきりとした声で話し始めた。

『みなさん、おはようございます。今期の生徒会会長を務めることになりました、3年6組の箕輪琴音です。先ほどの通り、前生徒会長の日野さんが事故に遭われてしまったのはとても残念です。日野さんは同じ生徒会メンバーとして、とても頼れる方でした。彼女が居なくなってしまったことは大きな痛手だと思います。しかし、新生徒会長として彼女の思いを継ぎ、生徒会一同、学園を良くするために頑張っていきます。半年間という短い間ですが、よろしくお願いいたします』

 画面の奥で箕輪琴音が礼をする。同時に学校中で拍手が鳴り響いた。それ程までに学校中でこの新生徒会長が受け入れられているということなのだろう。

 頭を上げた箕輪琴音は一息ついた後、また画面に向かって口を開いた。

『早速ですが、皆さんにご協力いただきたいことがあります。生徒たちの意見を身近に取り入れるために、二週間に一度、スクールミーティングを行いたいと思います。初日は20日、来週月曜日の放課後に視聴覚室で行います。学年も性別も人数も問いません。気軽に参加していただければと——』


 * *


『……またお前か。もう俺たちに関わるな』


『そういう訳にはいかないわ。私は、あの子に伝えないといけない』


『お前も痛い目に遭っただろう? ……頼むから、もう関わるな。あいつに思い出させるな』


『……本当に、それで良いの?』


『ああ。俺はそのためにここにいるんだ。今更何とも思わない』


『そうじゃなくて、貴方はどうなの?』


『……何が言いたい』


『……全てを抱えて、全てを忘れさせて、貴方は本当に幸せなの?』


『……俺は元々、そういう存在だ。だから俺はあいつのために……』


『それは、本当にあの子のためにやっているの? あの子がそれを願ったの? 貴方が……ただ忘れさせたいだけではないの?』


『……忘れることが悪いとでも言うのか?』


『知らないことが、本当に幸せなの?』


『……ああ』

 少なくとも俺はそう思う。

 何故ならば、あいつの抱える記憶はあまりにも辛いものだから。

 あいつの抱える罪はあまりにも重いものだから。

 だから俺はあいつ中に生まれた存在として、あいつの記憶も罪も、全て——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星辰のPsycholapse-サイコラプス- 灰川藍 @Gray_ce_9093

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ