#2 明けない空

「きゃーーー!!!」

 生徒たちの悲鳴が、昴の視界の端に響き渡る。

 周りの景色が刻々と色を変えていく。

 生徒たちの波が後ろへと流れていく。

 何だ、何が起こったんだ?

 一瞬だけ気を留めて振り返ろうとしたものの、すぐにそんな気持ちを押しとどめ、昴は一人歩みを止めずに学校へと向かっていた。

 どうせ野次馬精神の生徒たちだ。気にすることはない。俺があいつらと同じことをする意味はないんだ。それに——。

 ふわぁと一つ欠伸をする。頭がぼんやりとしている。眠い。早く行かなければ。

 昴の頭の中にこびりつく意地のようなものと、それを含めたあらゆる思考を止めようとする眠気。相反するこの二つが、昴の足を前へと動かしていく。だが。

「えっ」

 昴は思わず足を止めていた。視界の隅にうずくまる知った影がよぎったからだ。それは今朝会ったばかりの同居人で、だけどそんな時とは打って変わって苦しそうに頭を押さえていた。なのに、周りの奴らは誰一人気にも留めず——正確には気がついて動揺している奴はいるものの、そこから行動を起こそうとせずに立ち止まっていた。

 昴がどうしようかと思惑に耽りながら傍観しているうちに、次第にカイルの膝は地に吸い寄せられていく。立っているのもままならないようで、今にも気を失って倒れてしまいそうだと昴は一瞬で感じ取った。


 ——俺は、どうする?

 ここで黙って見てるだけなのか?

 ……そんなの、決まってる。


 昴は走り出していた。思考を止めようとする眠気よりも、当人に嫌われているとかよりも、身体がカイルの元へと向かっていた。人の波をかき分け、人の流れに逆らって、昴はなまりかけていた足を必死に動かす。そして十数秒と経たない内にカイルの元へとたどり着いた。

「おい! 大丈夫か!?」

 声をかける。だがその声はカイルには届いていないようで、返事もせず未だ苦しそうに頭を抱えていた。

 と、不意にカイルの頭が電池の切れた人形のように揺れ、そしてそのままくらりと地面に倒れ込もうとする。咄嗟にその身体を昴は支えた。

「お、おいっ!!」

 必死に声をかける。だが気を失ってしまっているようで、何も反応は返って来なかった。

「えっ、あの二人……」

「あいつ、何かあったのか……?」

「こういうのって誰か先生に……」

 途端に周囲のざわめきが更に強くなる。ちらりと視線をやると、数人が寄り集まった生徒たちの集団はひそひそと小言を言っているだけで、行動に移そうとする者は誰一人見られなかった。仕方がない。カイルをこのままにしておく訳にはいかない。

 どうする? こいつを担いで行くか?

 いや、周りにいるこいつらが邪魔だ。

 だったら……できるか分からないけど、やってみるしかない。

 カイルを片腕で抱えつつ、側に転がっているカイルの物だと思われる鞄を掴む。

 そして、少し前から自分に起こるようになった非現実な体験を意図的に起こそうと思い返す。

 確か、あの時はこうだった筈だ。目を閉じて周囲と自分の感覚を切り離して、頭の中に強く思い描く。

 いつもの場所を、保健室を。

 その途端に、昴は軽く浮遊感を感じる。例えるならば、海に揺られるような感覚。

 よし、これだ。そして……

 次第にその感覚は収まっていく。ゆっくりと目を開くと、そこはイメージした通り——。

「……全然、違うじゃんか」

 一人ゆっくりと立ち上がる。そこは想像通りの場所ではなかった。学校の敷地内ではあるが、校庭のど真ん中というなんとも中途半端な場所に昴は立っていた。先ほどまで騒がしかった生徒たちのざわめきが、昴の視界から切り離されたように遠くから聞こえてくる。

 だが、イメージしていた保健室は視界の範囲内にあった。興味本位の傍観者たちも近くにはいない。このくらいだったら、このまま担いで行けるだろう。

 昴は気を失って側に倒れているカイルを背中に背負った。少しばかり鈍っているとはいえ、元陸上部を舐めんなよっ! そう言わんばかりに、昴は眠気に逆らいながら保健室へ向かって一直線に走り出した。


 そんな昴を見ている双眸があったのを、昴を含め誰一人として知らなかった。


 * *


「う……ん……」

 瞼を開けると、ぼんやりと白塗りの景色が広がった。

 ……ここは?

 痛む頭を片手で押さえながら、ゆっくりと起き上がる。

 白い天井。白いカーテン。白いベッド。眼鏡がなく輪郭がはっきりしていないが、そのくらいは僕でも分かった。

 この景色に当てはまるのは、病院か、或いは保健室だろうか?

「あら、目が覚めたのね」

 カーテンを開けながら、白衣を着た人がこちらを覗いてくる。声の調子や体格からして恐らく大人の女性だろう。

「寺川魁琉くん……で合ってるかしら? 貴方、学園の近くで倒れていたのよ。それを東雲くんが運んでくれたの。憶えてる?」

「え、ええと……」

 憶えていない。何があったっけ? 学校に行く途中だったのは記憶にあるけれど……

「あっ、いきなり聞かれても分からないよね。私はイカリショウコ。玄野学園の養護教諭……つまり保健室の先生よ」

 そう言って首に下げた名札を見せてくる。だが視力の悪さが災いしてはっきりと読み取れない。僕は少しだけ口ごもりつつ、その女の人に尋ねた。

「あの……僕の眼鏡、知りませんか?」

「あ、ごめんごめん。それじゃあ見えないよね」

 慌てたように白衣の女の人は僕に背を向けて側の机に手を伸ばす。再び振り返ったその手には僕の眼鏡があった。お礼を述べて小さく頭を下げてからその眼鏡を手に取ってかける。その途端にぼんやりした視界がはっきりとしたものに変わった。

 ふと口角を上げた目の前の女の人の首に下げられた名札に目が留まる。そこには確かに『錨晶子』『玄野学園養護教諭』と書かれている。周りに薬の置かれた棚があることからも、ここは保健室だろうということが分かった。

「では改めて……私は錨晶子よ。よろしくね、寺川くん」

 そう言いながら、錨先生は歳に合わない屈託のない笑みを浮かべた。


 って、それよりも。眼鏡とこの女の先生のことですっかり忘れかけていたけれど。

「……東雲って、東雲昴のことですか?」

「ええ、そうよ」

 錨先生が軽い口調でさらりと返す。同時にカーテンで閉じられた隣のベッドの側へ行き、ほら、とカーテンを少しだけ開けて僕に見せてくる。確かにそこには東雲昴がいた。余程疲れていたのか僕が起きたことに全く気付く様子もなく、ぐっすりと深い眠りについていた。

 彼が、僕のことを助けた……?

 僕はあんな態度を取ったのに、それなのに……


「ここ最近、いつも東雲くんはここで寝てるの」

 思考を遮るように錨先生が話し始める。

「え、それって……」

 東雲昴のことが気になり、思わず口が動いてしまう。瞬時に僕は後悔したけれども、取り消す間も無く錨先生は言葉を続けた。聞いてしまった手前、後戻りすることもできず、僕はそのまま話を聞くことにした。

「……さあ、私も詳しいことはよく分かっていないんだけど。でも睡眠障害の一種ではあるのかな」

「不眠症……ってことですか?」

「まあ、不眠症も睡眠障害の一つね。でも東雲くんの場合はそれともちょっと違ってて」

「というと?」

「そうね……人間には体内時計が備わっていて、夜にはなると自然に眠くなるのは分かるよね?」

「はい、大体は……」

 前に中学校の授業で教えてもらった気がする。詳しいメカニズムは分からないけれど。

「よくある不眠症の場合はね、それがズレても他の大まかな生活リズムは変わらないの。眠る時間が遅くなっても、それ以外の時間は変わらずに生活できたりね。でも、東雲くんの場合は……」

 少しだけ言葉を迷うように躊躇った後、錨先生は言葉を続けた。

「……体内時計がきっちりとした時間でズレてるっていうのかな。いつも授業が始まるくらいの時間に来て、ちょうど授業が終わるくらいに目が覚めるの。病名で言うと『睡眠相後退症候群』が近いんだけど、でも日が昇ってから眠くなるのは前例があまりなくて……」

「……」

 僕は何も言えなかった。

 気になる、そういう気持ちはある。だけどそれ以上に、もう東雲とは関わりたくなかった。これ以上関わらせてはいけないと、強く願ってしまった。


「ごめんね。難しい話しちゃって。……寺川くんは、もう大丈夫そうね」

「え? あ、はい。ありがとうございました」

 錨先生の口調が急に軽くなり、話題が僕のことに切り替わる。勢いに飲まれ思わず僕は頭を下げていた。

「君が倒れたのは……たぶん低血圧かな。君、血圧が低いみたいだから気をつけてね」

 て、低血圧?

 そのくらい自分も理解している。児童養護施設で暮らしていた時にもかかりつけの医者から言われていたし、だからきちんと睡眠を取ったり朝風呂に入るといった工夫はしていた。なのに倒れた原因が低血圧だなんて、なんだか拍子抜けな気分だった。


「あ、そうだ。今日の授業が終わったら『刻弦総合病院』に来てもらえる?」

 再び錨先生の声が聞こえ、また僕の思考を遮る。

 刻弦総合病院? というと、確か……

「この学園の裏にある大きな病院のことよ。私、元々そこの病院で働いててね。で、君に用があるから伝えてって病院の方から言われてるの。受付の人に伝えてもらえれば分かると思うから、授業が終わったら必ず行ってきてね。じゃないと……」

 そう言いながら、何処からともなく注射器の形をした玩具のペンを取り出してきて。

「君を眠らせてでも、無理やり連れてくからね!」

 歳に合わないような明るい口調を発しながら、ペン先を僕の方に向けてきた。

 ——ああ、この先生はかなり厄介かもしれない。

 最初に抱いた印象とは打って変わり、この数秒の会話だけで、僕はそう考えを改め始めていた。



 錨先生の話を終えて保健室を出た後、僕は寮を出る前に新海さんから教えてもらった上階のとある部屋へと向かった。保健室で見た時計の針は10時過ぎを指していた。この時間に来てと指定された時間から既に1時間半以上は経過している。授業は恐らく2限目の途中くらいだろう。更に上階から生徒たちの声が、沈黙を語る廊下にうっすらと響く。

 そんな中、僕は他の場所よりもいくらか冷たい空気の漂う廊下にたどり着く。高等部と中等部に分かれる校舎に挟まれた棟。その2階。生徒指導室とかういうよく分からない部屋——中学校にそんな部屋はなかったし、或いはそのような名前ではなかったのかもしれない。ともかく僕が世話になったことのない場所だ——の前を通り過ぎ、その先にある大きな部屋の前に立ち止まった。

 職員室。これは小学校や中学校にもあったからどんな部屋か普通に分かる。扉にはめられた小窓から中を少し覗いてみると、多くの机が書類の山と共に並んでいた。流石に中高一貫の学校なだけあって先生の数は多いようだった。でも今はその机のほとんどが空席になっている。今ここにいるのは授業のない先生だろうが、果たして目的の先生はいるだろうか?

 小さく息を吸って、吐く。意を決した僕はコンコンと扉をノックし、取っ手に手をかけてゆっくりと扉を開いた。

「失礼します」

 僕の声が職員室の中に響く。瞬間、部屋の中に沈黙が広がり、先生たちの視線が一斉に僕の方へと集まった。少しだけたじろぎつつも、その気持ちをグッと抑えて新海さんに教えてもらったことを口にする。

「2年7組の寺川です。振井ふるい先生はいらっしゃいますか?」

 職員室内に再び沈黙が広がる。部屋にいる数人の先生たちは少しだけ顔を見合わせてコンタクトを取っていたが、やがて近くに座っている男の先生が僕に向けて口を開いた。

「……もしかして、振井先生のクラスに転校してくる予定の子?」

「は、はい」

 他に転校生がいなければ、それで合っているはずだ。

 そう答えると、その先生は頭を掻きつつ「そうか……」と小さく呟いた。そして。

「……分かった。振井先生、今印刷室の方にいるから、ちょっと呼んでくるね」

 渋々という雰囲気を出しながら、歯切れ悪そうに話すその先生はゆっくりと立ち上がる。そして、少しだけ声を潜めて言葉を続けた。

「あと……最近ちょっと機嫌が悪いみたいだから、あまり怒らせないようにね」

「はぁ……」

 もしかしなくても、さっきの錨先生と同じくらい別ベクトルで厄介な先生なのかもしれない。そんな不安が胸中をよぎった。


 数分後、プリントの山を抱えた女の先生が現れる。この先生が新海さんが教えてくれた僕のクラスの担任、振井三夜みよ先生だろうか。

「……君が寺川くんね。全く……体調管理くらいしっかりして頂戴。ただでさえウチには厄介な子がいるんだから……」

 当の先生と思われる人が鋭い口調で愚痴を零す。先ほどの男の先生が言っていた通り、確かに少しイライラしているようだった。でもさっきの錨先生よりは距離感を注意する必要はなさそうだ。そこだけは少しだけ安心した。

「……まあ、丁度いいわ。次の授業7組だから、始まる前に自己紹介させてあげる。簡単で良いから考えといて」

 ……自己紹介。

 軽く予想はしていたが、実際にそれをすることになるとは。

 果たして、どのように自己紹介をすれば興味を持たれないようにできるか。さっきまで抱いていた不安がなくなった代わりに、僕の脳はただその方法を考えるためだけに回り始めていた。



 昼食を経て6限目まで行われた授業は、何事もなく終わりを迎えた。

 本当はもう1限授業、生徒会役員選挙があったらしいが、何かしらの諸事情で中止になってしまった。6限目が終わってすぐに校内放送がかかり、翌朝に緊急集会を行う旨と同時に生徒たちにすぐに下校するようにとの知らせが学園中に行き渡った。

 しかし、何故中止になったのか詳細は知らされなかった。教師たちに何かあったのか、それとも生徒側に何か不都合なことがあったのか。

 まあ、それはどちらでもいい。何一つ分からない僕にとっては中止になってくれて有り難い限りだった。

 それにしても、と今日の授業を軽く思い返す。内容はどうということはなかった。中学以来の授業だったからついて行けるか少しだけ心配していたが、空白期間のうちに自主勉強していたことが功を奏し、難なく授業を受けることができた。

 自己紹介も脳内で軽く予行練習した通りだったと思う。そのお陰で休憩時間の間に僕に話しかける人はあまり多くなかったし、そんな中で話しかけてきたいわゆる陽キャラと言われるような奴も、嫌悪感を持たれないように上手くあしらった。

 後ろの席が空席だったのも幸運だった。中学生だった時も周囲の席——特に真後ろの席——の奴がしつこく話しかけてくるのが気に障っていたからだ。


 授業を終えた僕は、その足で『刻弦総合病院』へと向かった。錨先生に言われたこともあったが、それ以上に用事を早く済ませたいと思い、素直に従うことにした。

 受付の人に錨先生のことを伝えると、少し待たされた後、ある場所へと案内された。僕が通されたのは、病院内にある検診センターだった。聞くところによると、学園全体で数日前に健康診断が既に行われていたらしい。しかし、今日初めて来たばかりの僕だけは健康診断を受けておらず、直接検診センターで受ける必要があったそうだった。健康診断は項目もあまり多くなく簡単なものだけだったため、1時間足らずで終わることができた。

 全く、そうならそうと普通に言ってくれれば良いものの……

 やっぱりあの先生は厄介だと結論付けるには十分だった。


 その健康診断の結果は予想の範疇だった。血圧は今朝言われた通り低かったし、視力も眼鏡をかけて真ん中辺りから下が見えなかったから、そろそろ新しい眼鏡に変えた方が良いだろうとのことだった。身長は……これ以上は傷つくから言わないでおく。


 用事を終えて健診センターを出た僕は、先ほど軽く待たされたロビーへと戻る。午後の診察時間が始まったことで、ロビーの人の数は僕がいた時よりも人は増えていた。その中に。

「——っ」

 何故か、東雲昴の姿があった。朝に寮で会ったり保健室で見た時とは違って、今はきちんと起きているようだった。それどころか、今までに見たことのないような明るい笑顔を浮かべている。

 そんな彼の顔の先には、パジャマを着て片腕で松葉杖をつく女の子の姿があった。その女の子も同様に笑っている。この病院に入院している子だろうか。

 それにしても、東雲昴があんな顔をするなんて。今まで見てきた顔は眠そうにしていたりふて腐れたりといったような顔しかなかった。僕と話す時も少しだけ愛想笑いを浮かべていたような印象しかない。そんな彼が、女の子と一緒に笑っている。優しい笑顔を浮かべて、その女の子と何か楽しい話をしているようだった。それだけ彼にとって特別な女の子ということだろうか。

 ——まあ、それでも僕には関係のないことだ。

 いつの間にか止めていた足を再び動かす。もう余計なことには首を突っ込まないようにしなければ。そうでもしなければ、彼や彼女に不幸が降りかかってしまいそうだったから。

 だから僕は、逃げるようにその場を去った。


 * *


「……ねぇ、昴。今あの子がこっち見てたんだけど」

「ん?」

 ほら、と昴の隣を歩いていた東雲明鐘あかねがある方向を指し示す。昴は釣られてその方へと顔を向けた。

 あれは……

 少しはねた黒髪が、そそくさとその場から逃げるように人の群れの中に消えていく。それは間違いなく、昨日から度々見るようになった同居人だった。

「あ! もしかしてさっき言ってた、昴の部屋に来たっていう転校生?」

 明鐘が楽しげな口調で昴に話しかける。

「あ、ああ…… まあ、そうだな……」

 少しだけ昨日や今朝の出来事を思い出して吃ってしまう。でもそんな昴の返しに不満を覚えたらしい明鐘は、昴を咎めるように言葉を続けた。

「ちょっとー、あの子困ってるんじゃないの? せっかくのルームメイトなんだし、色々と教えてあげなって」

「い、いや、それは……」

 あいつが断ったんだから、と言う暇もなく。

「あたしのことは良いからさ。ほら、もう大分歩けるようになったし!」

 そう言いながら、明鐘は左に一つ抱えた松葉杖を軽く浮かせ、包帯の巻かれた左足を軸にしてくるりと1回転しようとする。その瞬間、「いっ……」と小さく呻いて明鐘は顔を歪めた。バランスを崩しかけた身体その身体を昴は慌てて支えた。

「ほら、やっぱりまだじゃねぇか。焦っても余計に悪くするだけなんだから、ゆっくり治していこう。な?」

「むう…… こんなのアニメとかマンガだったら気合ですぐに治っちゃうのになぁ……」

「そんな都合の良いこと、ある訳ないだろ」

 頬を膨らませふて腐れる明鐘をなだめるように、昴は少しだけ微笑んだ。

 ——もしそれが本当にあったら、どれだけ幸せなことだろうか。

 そんな想いを胸中に秘めて。


 散歩を終えた二人は、そんな会話を重ねながらゆっくりと元の病室へと帰っていった。


 * *


 数ヶ月前、昴と明鐘は事故に遭った。

 それはただ不運だったとしか言いようがない。渡り始めた青の横断歩道に、車が猛スピードで突っ込んできたのだった。

 幸いにも大事には至らなかった。足や腕を擦りむいただけで、外傷はほとんどないと言って良かった。

 だが、それは昴の場合だ。明鐘はそうはならなかった。

 足関節の骨折。

 医師に告げられたのは絶望だった。大きな骨折ではなかったが、それでも骨折には違いなかった。ダンス部に所属していた明鐘は、近くに行われる予定だった大会を辞退して入院しなければならなくなってしまった。

 ギプスをはめ、リハビリを重ね。昴も明鐘のリハビリをサポートをして。

 そして、2ヶ月が経った。

 骨折はほとんど治り、骨はだいぶ繋がった。

 ギプスは外されたが、明鐘は今もリハビリを続けている。

 だが——。


 * *


 外はすっかり暗くなっていた。部屋の中の明かりもただ一つを残して全て消えている。唯一残された昴の机に添えられたライトだけが、昴の顔を闇に浮かび上がらせていた。

 静かな部屋に小さな呻き声が聞こえる。真後ろにある二段ベッドの上で眠っているカイルの声だろう。

 夜になったら眠る。それは当然のことだ。でも、その中に昴は含まれていない。定められたサイクルから外れた存在。誰とも一緒ではない存在。昴にとってそんなことはどうでも良かったし、こうして静かに作業する時間に当てられることは良く思っていた。けれども、何処か寂しく感じてしまう部分もここ数日で何度か感じるようになっていた。


 昴は目の前に置かれているバラバラのパーツの中から、“足”のパーツをそっと手に取る。机の上には粘土で作られた小さな身体を模したパーツがいくつか置かれている。決して殺人現場ではない。けれども、それらは“本物”と色以外に大差ないくらい細部まで精巧に形作られていた。

 昴は続いて、机の隅に置かれているペン立てから細い筆を選んで手にする。その筆先をパーツ達よりも手前に置かれているパレットの中から、一つのインク溜まりを選んで浸した。そして、先ほど手に取った“足”のパーツに線を描いていく。昨日の作業で大まかに色は塗っていたため、後は細かい部分を塗っていくだけだった。


 リハビリを頑張っている明鐘に、何か自分ができることはないか。そう思った昴が作り始めたのが、このフィギュアだった。

 学園の図書館で『誰でもプロクオリティ! フィギュアの作り方』という本を見つけた昴は、それを見ながらフィギュアを作り始めた。明鐘の好きなアニメの中からキャラを選んで簡単に絵を描き、それを元に100均で買った粘土や針金で形を作っていった。昔、母親たちと暮らしていた頃に自作プラモをいくつか作っていたこともあり、そう難しいと思うことはなかった。

 それにしても、だ。

 まさかこんなに上手く作れるなんて。

 自分で言うのも何だが——初めてだというのにかなり出来が良い、と目の前の作品について昴は自負し始めていた。この出来ならば、明鐘も喜んでくれるだろうか。


 ふと、今日明鐘に会った時のことを思い出していた。

 明鐘はいつものように明るい顔をしていたが、何処か焦っているようにも見えた。

 その気持ちは昴にも分からなくもなかった。

 明鐘は今まで部活に熱心に打ち込んできた。昴は玄野学園に入った時に陸上部を辞めてしまったが、明鐘は玄野学園に来てからもずっとダンス部で頑張ってきた。明鐘はアニメやマンガも好きだが、それ以上に打ち込めるものはダンス以外になかった。ダンスだけが、明鐘の根幹になっていた。アイデンティティになっていた。

 それが、ただ一つの事故で崩れようとしていた。一度壊れかけ、それでも必死に守り続けたそのアイデンティティが、なくなろうとしていた。いや、もしかしたらもう明鐘の中では大半が崩れてしまっていて、一本の芯だけで辛うじて形を留めているだけなのかもしれない。それでも、明鐘は失う訳にはいかないと、取り戻したいと、今必死になっている。だけど——。

「……そんな明鐘を、俺はただ見守ることしかできないんだよな」

 昴はそっと呟いた。その声は、誰の耳にも入らず夜の闇へとかき消されていった。


 唐突に、昴はふぅ、と一息ついて伸びをする。さっきまでの雑念を打ち消すように頭を軽く振る。壁の時計を見ると、その針は2時くらいを指していた。ここ数か月の経験から、夜は思っているよりも長いということが分かっている。こんなブルーな気持ちのままで作業を進めても、余計に作業効率を悪くして失敗するだけだ。

 そう思って席を立った昴は、久しぶりに夜食を摂ることにした。机の横にかけてある袋から、小さな麺の袋を取り出す。そして、足音を立てないよう静かに共有スペースにある簡易キッチンへと向かった。シンク横の小さな水切りに置かれている自分のマグカップに袋から軽く砕いた麺とかやくを入れ、側に置かれている保温ポットのお湯を注ぐ。たちまち美味しそうなスープの匂いが昴の鼻孔をつく。マグカップからは薄っすらと湯気が立ち昇る。夕食の時に食堂で貰ってきたお湯は、残念ながら少しだけ冷めてしまっていた。

 水切りから更に自分の箸を手に取り、麺を軽くかき混ぜる。入れてすぐはやはりまだ柔らかくなっていないが、このくらいのまだ少しだけ硬さが残った状態で食べるのが昴は好きだった。マグカップに口をつけ、スープを含もうとした。その時。


「……あ、あぁ……」

 不意に、暗闇の中から声が聞こえる。

「だめ、だ…… そんなの、ちが……僕は……」

 何処か恐怖に囚われているような、思わず口から漏れてしまったような声が。

 その声の主を探す、と言ってもそれに該当するであろう人物は一人しか昴には思い当たらなかった。同じこの部屋に住み、今は二段ベッドの上で眠っている筈のもう一人の同居人を見る。

 その当人は、ベッドの上で起き上がり頭を抱えている。その姿は今朝——もう昨日になるが——の様子と重なった。

「お、おい、大丈夫か?」

 昴は思わず手に持っていたマグカップを置き、声をひそめてベッドの上へと声をかける。

 だが、寺川カイルの耳には全く届いていないようだった。それどころか、ぶつぶつと何かを呟きながらふらふらと梯子を降りてくる。

「おいっ、何処行くんだっ」

 扉へと向かおうとしていた寺川カイルの肩に手を置き、無理やり自分の方へと振り向かせる。その顔は焦点が全く合っていなかった。寝ぼけているのか意識もまだ夢の中にいるのかもしれない。一瞬そう考えたが、絶え間なく何かを言い続けるその姿がただの夢遊病によるものとは思えなかった。

「……が、……」

「え? な、何かあったのか?」呟いた言葉に思わず昴は返す。すると突然、カイルの目が見開かれ、口調が激しくなる。

「お前、のっ……!」

 その口からは昴の予想だにしなかった言葉が発せられた。


「お前の彼女が、死んじゃうんだっ!!」

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