#1 死神の星

 まだ薄寒い夜の風が吹き付ける。手に持ったビニール袋がカサカサと音を立てる。もう少し厚めの上着を用意しておけばよかった、と東雲昴しののめすばるは少しだけ後悔していた。何せ、こんなにも遅くなるとは思ってもみなかったのだ。いつものようにほんの少し。そのつもりが、気づけば時刻はとうに門限を超えてしまっていた。

 しかし、それは昴にとっては日常茶飯事だった。門限を超える出歩きはいつものこと。ただそれが、いつもより遅くなってしまっただけのこと。理由をちゃんと述べれば、施設長も寮母さんも少し咎めるだけで納得してくれるだろう。

 大通りは店の明かりや街灯、車のヘッドライトなどで照らされている。立ち並ぶ飲食店はラストオーダーを迎えたのか、ぞろぞろと店を出る客が散見された。その酔っ払いとすれ違い、昴は寮へと帰る道のりを一人歩む。酔っぱらった大人たちの声は次第に消え去り、車の行き交う音だけが昴の耳に心地よく響いた。


 昴は夜が気に入っていた。といっても、そう思うようになったのはここ数週間の話だ。

 数週間前から昴は不眠症に悩まされていた。正確には6時間は眠れているため不眠症とも違う。しかし、それは昼間の話であり、夜は頭が冴えて一睡も出来ず、日の出と共に眠くなってしまう。いわゆる『昼夜逆転』の生活を昴はしていた。このお陰で授業が全く聞けなくなってしまい、昴としてはなけなしの成績が落ちないか悩ましく思っていた。その一方で、夜の静かな時間を使うことで趣味のフィギュア作りが捗るようになったのは悪くないとも思っていた。もっとも、呑気な妹は兄の心配など気にも留めず、ヴァンパイアみたいだと弄ってくるのだろうが。そんなことを考えて、昴は一人声を上げず静かに笑った。


 ふと、寮の前に来たところで歩みを止める。寮の閉まった門の前、側に添えられた街灯の明かりの中に、一つの影が浮かび上がっていた。昴よりも少し背の低いその影は、脇に大きな鞄を抱えて寮の方をジッと見ていた。瞬時に一つの疑問が昴の頭を過ぎる。こんな時間に一体何をしているのだろうか。

 この時間になるとこの辺りをうろつくような人は殆どいない。いたとしても、大抵はこの辺りに点々と腰を据える中企業の本社や支社から近くの刻弦こくげん駅へと向かうサラリーマンだけ。しかし、その駅は昴が今歩いてきた方向にあり、ただのサラリーマンがこの寮の前に立っているのは考えられない。それに、目の前にいるその人影はスーツを着ておらず、社用で来ているような人物ではないことは明らかだ。ならば、何かこの寮に何か用があるということだろうか。

「あの、何してるんですか」

 少し辿々しい口調でその人物に声をかける。間を置いて影は昴の方へと振り向いた。

 薄明かりに照らされる中、真っ先に目線が向かったのは黒い眼鏡だった。そして、目に幾らかかかる程の少し長めの前髪と軽く跳ねた後ろ髪。パッと見ボーイッシュな女と勘違いされるような、それでも男だと容易に分かるような風貌にじっくりと目を凝らしてみると、地味目な服装をしたその人物はまだ学生だろうということに昴は気がついた。それも、自分と同じ高校生くらいの歳の。

 ここまで軽く分析したところで、昴の脳裏には更なる疑問が思い浮かんだ。というのも、昴の記憶の中にこの男と一致する学生は居ない。この特別寮に住む同い年くらいの生徒の顔は大体覚えているが、みんなこの様な風貌ではなかった。なら、今ここにいるこの人物は何だろうか。考えられるとしたら、この寮に暮らす誰かの友達か、或いはただの興味本位で寮を見にきた別の学校の生徒か——この時間に来るのも違和感しかないが——若しくは近々自分の部屋に来ると聞いていた編入生か——。

「……君こそ、何でこんな時間に出歩いてるの」

 昴の思考を止めるように、目の前の男は怪訝そうに口を開く。そのぶっきらぼうな態度が、何だか昴の癪に障って。

「……俺は別に良い。それよりも、こんな遅くに何か用があるのか」

 思わずキツい口調で返していた。どうして初めて会ったような奴にそんなことを聞かれなければならないんだ。トゲトゲとした感情が昴の心の中に渦巻いていく。

 一方で辺りには沈黙が広がる。風が二人の間を吹き抜けていく。しばらくの間、昴の方から一方的な睨み合いが続いていたが、突然ガチャリという音がそれを打ち破るように聞こえ、同時に門の横にあるドアが開いた。

「お待たせしてごめんなさいね、寒かったでしょう?」

 開いたドアから出てきたのは、特別寮の管理長を務める新海にいみさんだった。新海さんは最初は男に声をかけた後、昴の方を向いてため息をついた。

「もう、昴くん! 遅くなるのも分からなくはないけど、せめて9時までには帰ってきてよね」

「……はい、すみません。気をつけます」

 そう言って素直に頭を下げた。新海さんも心配してくれていることは分かっている。ここで言い訳をして立ち話を長引かせる理由はなかった。

「さあ、二人とも中に入って」そう言って新海さんが二人を寮内へと迎え入れた。


 玄野学園の特別寮『星野寮』は、その名の通り特別な人しか入居できない寮だ。というのも、この玄野学園を経営する日野黎明は元々児童養護施設を経営していた。それが更に発展した形として、普通の生徒ではなく特殊な立場の生徒を受け入れるために作られたそうだ。親がまともに働けず教育が払えない生徒、親をなくし拠り所のない生徒。理由は人それぞれだが、そういう特殊な事情を持ってる子供を良い学校に通わせてあげたい——。そう考えた日野黎明が学園と共にこの寮を建てた、というような簡単な説明を、昴は入って間もない頃に新海さんから聞いていた。

 そう。昴もそういう特殊な事情があって、この寮に居るのだった。ならば、この男がこの寮に来たのにも、何かしらの事情があるのだろう。最も、昴には人の身の上話を聞く趣味もなかったし、それを誰かに言う理由もなかったが。


「ええと、テラカワカイル君……で合ってるかしら? 君の靴を入れる所はここね。それと部屋の鍵を持ってくるから、もうちょっとだけ待っててね。あ、昴くんもちょっと待っててくれる?」

 新海さんが昴の方にも声をかけてくる。戸惑いつつも昴は「はい」と返事を返した。

 ごめんね、と二人に呟いた新海さんは玄関ホールの側にある事務室へと小走りで入って行く。テラカワカイル、というのがこの男の名前らしい。テラカワは何となく寺川という漢字が思い浮かんだが、名前の方は思い浮かばない。何処かの外国人みたいな名前だな、と考えながら残された寺川カイルという男を見つめていた。

 その寺川カイルはというと、周りには目を留めず、側に置かれた鞄から取り出した本を読み始めていた。前髪が目にかかっていて鬱陶しくはないのだろうか。そもそも、こんな薄暗い暗いところで読んで、目を悪くしないのだろうか。そう思いつつしばらく観察していると、見られているのが気に障ったのかふと歪めた顔を上げた。

「……あのさ。さっきからずっと僕のこと見てるけど、何か言いたいことでもあるの?」

 寺川カイルは先ほどよりも明らかに不機嫌そうに悪態をついた。

「……いや、何でもない。……悪かったな」

 寺川カイルから顔を逸らして若干不貞腐れつつも、今度は突っぱねることなく詫び言を口にする。流石に昴の方にも非があると認め始めていた。無意識に他人を観察してしまう癖があるとはいえ、誰しもじろじろと見られるのはあまり気分が良いとはいえないだろう。

 そんなひと悶着が終わった頃に、新海さんはようやく姿を現した。少しバタバタとしていたのか、軽く息を乱していた。

「何度も待たせてごめんね。はい、これが君の部屋の鍵。そこの昴くんと同じ部屋だから案内してもらって。荷物は部屋にあるから。という訳で昴くん、よろしくね」

 そう言って昴に一声かけた新海さんは、まだ残っている仕事があるのだろうか、すぐに事務所の中へととんぼ返りしていった。


 大方予想していた通りだった。やはり寺川カイルは新しく玄野学園に来た編入生だ。とはいえ他に空いている部屋はないため、新しく入居するなら消去法で昴の部屋しかなかったようだが。

 昴と寺川カイル、二人だけが静まり返った玄関ホールに残される。

「あー、えっと……俺は東雲昴だ。同じ部屋同士、よろしくな」

 寺川カイルに向き合い、歯切れの悪そうに声をかける。

 しかし、カイルからは何も帰って来なかった。やはりさっきまでの事があって、あまり良い印象を抱かれていないのだろう。それは昴の方も同じことではあるが。再び顔を逸らし、小さく溜め息をついた時。

「あのさ、それよりも早く案内してくれない? 3階なんでしょ」

 ——意外だった。さっきまで怒っていたような声色だったのが、幾分か柔らかくなっているように思えた。もちろんまだ苛立ちのようなものは多少感じられるが、それ程トゲトゲとしたような印象は受けなかった。

「あ……ああ。こっちだ」

 少しだけ態度の差に動揺しつつ、目の前にある階段を無視して、カイルの脇を通り抜ける。後ろに彼がついて来ているのを確認しつつ、ホールを出て廊下の端へと向かっていった。


 『星野寮』は2棟3階建ての構成になっており、1階につき5部屋しかないあまり大きくない寮だ。更に1階は寮の管理室や共同で使用する食堂や風呂場になっているため、生徒たちが暮らせる部屋は実質20部屋しかない。その分それぞれの部屋は広く、二人で共同して同じ部屋を使うような形になっていた。もちろんそれぞれの机の周りはセパレーターで仕切られた個人スペースがあり、個人のプライバシーはある程度は守られている。もっとも、それは共同で暮らすお互いに最低限の信頼があることが条件ではあるが。

 昴たちが通った道のりは、時間が遅いこともあって誰ともすれ違うことはなかった。風呂場の前を通り過ぎ、廊下の端の階段を3階まで上がっていく。息を切らす寺川カイルの声を聞きながら階段を上がり切ると、昴の暮らす『305号室』は目の前に現れた。

 制服のポケットから鍵を取り出し、扉を開けて部屋に足を踏み入れると、そこは見慣れたいつもの景色があった。目の前には二段ベッド、右手の方にはテレビと簡単な流し台。そして、奥には個人スペース。その一方、1か月前に先輩が卒業して出ていったきり主を失っていた空の机とクローゼットしかなかった右側の空間に、見慣れない段ボールと玄野学園の制服が置かれていた。

 部屋に入ると、寺川カイルは迷わず真っ先に段ボールの置かれている方へと向かっていった。その様子に少しだけ戸惑いつつ、昴は最低限必要なことを伝えようと、これから一緒に暮らすことになる新しい同居人の背中へと声をかけた。

「あ……そっちがお前の部屋な。あと手前のここは俺とお前の共有で、二段ベッドは上がお前の寝る所な」

 しかし寺川カイルは昴の言葉を無視しつつ、段ボールを開けて中の物を取り出していく。気づかれないように脇から見ると、寺川カイルは先ほどとは違う本を手にしていた。一瞬だけ見えた表情は今まで見せた表情とは全く違っていて、最初に会った時より何倍も楽しそうに見えた。

 ……もしかして、さっき幾分か態度が柔らかくなったように思えたのは、これが目的だったからなのだろうか——。もはや諦めの領地に片足を入れ始めた昴は、そんな呑気な事を考え始めていた。だが、ここで折れる訳にはいかない。思考が諦めに傾き始めた脳を引き留め、めげずに再びカイルへと話しかける。

「あ、あと、さっき通った一階の廊下に風呂があるから、今なら空いてると思うし——」

「僕は朝に入る。行くなら、君一人で行ってくれば?」

 淡々とした声で振り返りもせずに呟いた。

「……そう、かよ」

 限界だった。

「だったら……お前一人で勝手にしろよ」

 言葉を吐き捨てる。あまり怒る方ではないとはいえ、こんな態度を取られたら流石の昴も怒らずにはいられなかった。個人スペースへと足早に向かい、手に持っていた荷物をバンッと床へと叩き付ける。そしてクローゼットの引き出しから乱雑にタオルと着替えを取り出して、昴は再び部屋の外へと逃げるように飛び出していった。その扉を激しく閉める時に、隙間から寺川カイルの顔が見えた。

 あいつは何とも思っていないんだろう。俺のことなんて、ただの他人で、初対面にジロジロと見てきた気に食わない奴で。

 だから、俺が教えてやる義理なんて何もないんだ。これからお前一人で頑張れよざまあみろ——。

 そう思おうとしたのに。

 その一瞬だけ見えた顔が、昴には何故か寂しそうに笑っているように見えた。


 部屋の前の廊下で静かに息を吐く。昂った感情を落ち着かせる。そうだ、冷静にならなければ。あいつの態度もあまり良くなかったとはいえ、あいつにも俺と同じような何かしらの事情がある。そうじゃなきゃこの寮に来ることもないし、あんな顔はしない筈だ。だったら、こんなところで仲違いしてる場合じゃない。俺の方こそあいつに謝らなければ——。

 だが、こんな事が起こった後に、果たして良い関係を築くことなんてできるのか——。


 ふと長く伸びる廊下を見やると、隣の部屋に暮らす一つ年上の先輩が扉から顔を覗かせていた。騒ぎを聞きつけた野次馬だ。そういう人物が昴は何よりも嫌いだった。

 興味本位の同情なんて、俺は求めちゃいない。

 先輩を無視して、昴は一人平静を取り繕って階下へと降りる。

「——って、俺の方こそ興味本位の同情みたいなとこはあるか……」

 小さな独り言は、誰にも聞こえず足音にかき消されていった。



  * *



 遠くから鳥のさえずりが聞こえる。

 薄っすらと目を細めて開ける。

 少しだけ明るくなった天井が目の前に現れる。

 天井の近さに違和感を覚える。

 ああ、そうか。僕は新しい場所で暮らすことになったんだっけ。

 ゆっくりと身を起こし、枕元にあった眼鏡を手に取る。眼鏡をかけると、周りの視界は鮮明なものに変わる。同じ高さにある掛け時計は、6時の5分前を示していた。

 ふと、何かの異臭が僕の鼻につく。背後から『シュー』という何かの音が聞こえる。

 振り返ると、そこには机に座る誰かの背があった。どうやらそこから音が聞こえているようだ。

 ここまで理解したところで、ようやくこの異臭が記憶と合致し、そのものの正体を浮かび上がらせた。そうだ、ペンキの臭いだ。そして、脳がそれを理解したことで次第に頭が痛くなってきたように感じた。

 その途端、僕は慌ててはしごを駆け下りていた。そして目の前の閉まった窓を全開した。

 眩しい朝日が部屋に差し込んでくる。同時に異臭のない外の街の空気が部屋に吹き込む。

 僕は窓から顔を出して一つ深呼吸をした後、その異臭を発生させた原因であろう人物の側に行き、声を上げた。

「ねえ、何で窓開けずにやってるの」

「……え?」

 振り返ったその人物は明らかに理解していないようなきょとんとした顔で僕を見ていた。

「それ。プラモか何か分からないけど、そういうのって普通窓開けてやるものでしょ」

 そう言って、僕は机の上に乗ってる作りかけの何かのパーツを指差す。隣には恐らくスプレーを吹きかけるための機械が散らばっている。

「あそっか、今はお前がいたっけか」

 そう言って男は呑気に納得したような声で呟いた後、少し間を置いて「……悪かった」とバツが悪そうに頭を下げて僕に謝ってきた。

「昨日のことも、な」

「……は?」

「あの後、俺考えてたんだ。お前に悪いことしたってな。確かにあれは売り言葉に買い言葉で、お前も悪くないとは言わないけど…… でも、俺の方こそ言い方が悪かったなって。だから……ごめん」

「……」

 僕は、思わず呆然と立ち尽くしていた。

 予想外だった。まさか昨日のことを謝られるなんて。

 あれは、僕の方が悪かったのに。

 あれは、僕がわざと煽っただけなのに。

 ——ああ、こいつは、昴は良い奴だ。

『だからこそ、駄目だ』

 ああ。僕の取るべき行動は。

「……君、何言ってるの?」

 ふらふらと自分のクローゼットへと向かう。

「え?」

「謝られる義理なんて少しもないんだけど」

 セパレーター越しに同居人へと吐き出す。

「もう僕に関わろうとしないでくれる?」

 綺麗に畳まれた制服の端を静かに握る。

「僕は、本気だから」

 一つ言葉を残して、僕は振り返らず部屋を後にした。


 誰も居ない廊下で、僕は独り静かに笑う。

 そうだ、これで良いんだ。

 僕に関わった人は、みんな不幸な目に遭う。

 だから僕は、誰とも関わっちゃいけない。

 そう、僕は——。



「……“死神”なんだから」



 部屋から出た僕は、昨日の宣言通りシャワーを浴びて制服に着替えた。今日から僕が新しく通うことになる学校、『玄野学園』の制服だ。至って普通な濃い紺のブレザーだった。僕は初めてのネクタイに少しだけ戸惑いつつ、ネットで調べた通りに何とか制服を見に纏った。そして一緒に貰った丸く小さなバッジを襟に止める。黒の背景に金色の縁取りで『2』と書かれていた。

 数年前はこうなるなんて考えても見なかった。まさか、僕が高校に通うことになるなんて。

 両親のいない僕は、児童養護施設で義務教育の課程を終えることしかできなかったから。もしかしたら、施設の人に頼めば行かせてくれたかもしれない。でも、僕にはその選択はできなかった。したくなかった。

 だけど、それも終わったこと。今の僕は玄野学園の生徒。なれないと思ってた高校生だ。

 それでも僕は変わらず、今まで通りに過ごすだけ。場所や環境は違えど、僕のやることは同じ——。


 シャワーを浴びて着替えを終えたその足で、僕は食堂へと向かった。場所は分からなかったが、ちょうど同じく食堂に向かおうとしていたここの学生たちの後を付け、迷うことなくたどり着くことができた。どうやらここは2つの棟の間にあるらしく、男子生徒だけでなく女子生徒も利用しているようだった。

 食堂に入る直前、入口のホワイトボードを見ると、今日のメニューが書かれていた。なになに? 今朝の献立はパンと牛乳と——和食がよかった、などという軽い愚痴が思い浮かんだが、今日のところは我慢しておこう。きっとメニューはローテーションで組まれていると思うから、わざわざリクエストしなくてもいつかは和食になるだろう。

 周りの生徒を見ながら列に並び、朝食を受け取る。何処で食べようか……そう思った瞬間、視界の端に東雲昴の姿が映る。彼はどうやら一人のようだった。僕が起きた時とは打って変わり、とても眠そうに何度も欠伸をしている。あの様子から見るに、恐らくプラモのようなものを一晩中かけて作っていたのだろう。徹夜をしたことのない僕にとっては全くもって縁のないことではあるが。

 ふと彼が僕の方を見た気がした。慌てて目を逸らし、何事もなかったようにその場を移動した。

 僕は食堂の端を選び、一人で朝食を食べた。まあ普通の朝食だ。味は悪くなさそうだった。


 朝食を終えた後、僕は昨日会った寮の管理長である新海さんに呼ばれて事務室へと向かった。何故呼ばれたか最初は分からなかったが、どうやら昨日忘れていたものがあったらしい。この寮や学校の決まりなどを簡単に教えてもらったり、学園生活に必要なものをいくつか受け取った。

 その中の一つに定期券があった。この寮から玄野学園までは歩いて行けない距離ではないが、それでも少し距離が離れているらしい。そして、この寮に住む生徒の多くは電車を使って通学しているそうだった。もちろん僕は運動が苦手だし朝から散歩する趣味もないから、素直にその通学方法を選んだ。


 自室に戻ると、部屋の時計はちょうど7時半に差し掛かるところだった。東雲昴は居ない。僕が新海さんに呼ばれている間に出ていったのだろう。鞄を取り、他の寮生に紛れて教えてもらった通りに玄野学園へと向かった。

 『刻弦駅』へと向かう道は昨日と同じだった。ただ、時間も見ている方向も違うからか、何故か違う場所のように思えた。街路樹と飲食店が立ち並ぶ、ごく普通の道。その奥に高架になっている駅がぼんやりと見えた。そこにたどり着くまで僕の足でも5分とかからなかった。


「ねぇみんな決めた? 生徒会長、誰に投票する?」

「そんなのアキハ先輩に決まってるでしょ? あの人、先生たちにも気に入られてるし」

「だよねー。やっぱり何年もやってるだけあって信用できるっていうか」

「私的にはコトネ先輩も悪くないと思うけど……」

「でもあの人は去年も副会長だったし、やっぱりアキハ先輩には敵わないでしょ!」

「そうそう。でもまあ、あの人たちが生徒会メンバーなら安泰だよね~」


 同じ制服の生徒たちであふれた電車の中で、僕は立ったまま揺られる。すぐ近くに固まっていた女子生徒たちが何かを話しているのが耳に入る。どうやら今日は生徒会の選挙が行われるようだった。とはいえ僕は何一つ聞いていないから、誰に投票するかとかは全くもって分からないけれど。

「まもなく—— 玄野学園前—— 玄野学園前——」

 そう思っているうちに、次の駅の到着を知らせるアナウンスが電車内に響く。学校の名前そのままの駅名なんて、それほど有名な学校だということなんだろう。周りの学生たちに紛れ、僕もその駅を降りた。

 そこから玄野学園へはすぐ近くだった。駅の前の大きな通りを渡ると、フェンス越しに校庭の中が見える。その向こうで、部活のユニフォームを着た何人かの生徒が走っている。陸上部だろうか。朝からやってるなんて随分と熱心なんだな。そんなことを思いつつ、僕はそのまま何も気に留めなかったふりをして、生徒たちの波が向かう方向へと歩いていく。


 その時だった。

「キャーーー!!!」

 突然、背後から複数の生徒たちの叫び声が耳に入る。次第にざわざわとしたノイズが大きくなっていく。

「何だ?」「えっ、事故?」「うそっ、あれって……」

 僕は、関係ない。だけど——。

 意思に反して僕の足は立ち止まる。そのままゆっくりと、後ろを振り返る。周りの生徒の流れが乱れていた。立ち止まる生徒もいれば、駅の方へと引き返していく生徒も散見された。

「轢かれたって……」「救急車呼んだ!?」「誰か先生を……!!」

 駅前の大きな通りは赤信号を示してる。にも関わらず、多くの生徒はその道路の真ん中で立ち往生しているようだった。人の波は既にそこに溢れている。あまり背が高いとはいえない僕には、そこで何が起こっているのか何一つ分からなかった。

 しばらくして完全に道路が生徒たちの流れが滞ってしまった頃になって、ようやく救急車のサイレンの音が近づいてくる。学校から数百メートル離れたところに大きな病院があることは聞いていた。校内から先生と思われる大人も出てきて、生徒たちに早く校内に入れとしきりに呼びかけ始めていた。僕もここで立ち尽くすより早く学校へ向かった方が良さそうだ。そうして僕は止まっていた足を一歩踏み出した。


魁琉かいる、逃げて』

 ——え?

 頭の中に声が響く。思わず周りを見渡す。だが、周りにいる生徒たちは後方に夢中になっているらしく、僕に向かって呼び掛けてるような影は誰一人見当たらない。

『ここにいたら駄目。早く逃げないと……』

 この声は、君は、誰だ。

「——っ!?」

 不意に強烈な頭痛が襲い掛かる。

 知らない?

 いや、違う。

 僕は、この声を知っている。

 確か、あの時のことだ。

 あの時、僕に……

『それは、思い出してはいけないことだから』

 ぐにゃりと目の前の景色が歪む。立っているのもままならず、思わず地面に膝をつく。

 思い出してはいけない? それは、何のことだ。僕はそんなこと知らないのに、何でそれを、——。


 一瞬だけ思い浮かんだ考えも、痛みと歪んだ景色にかき消されていく。何も抵抗できず、僕の意識は暗闇へと落ちていった。

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