3/3
三日後の二十六時。
城の裏手を抜け出して川を少し下った橋で馬を用意して待っている。
エリザベートは地味な服を密かに見繕い、旅路に必要だろうと思われるものも最小限まとめた。もちろんマリアには内緒で。
パーティー中やパーティー終わりにさりげなく確認しあい、ついに当日を迎えた。
「じゃあ、二時間後に」
そう耳打ちして、ソフィーはエリザベートの私室を後にした。
「本日はお早いお帰りでしたね」
「ソフィーも忙しいときはあるんじゃない?」
何せこれから馬を手配しなければいけないのだ。エリザベートも、荷物の確認をして、少し休んで、逃走劇に備えなければいけない。
移動の時間を差し引いて、城を出るまではざっと一時間半。余裕はある。
「エリザベート様。珍しいハーブティーが手に入ったのですが、お飲みになりますか?」
「えぇ……お願い」
下手に怪しまれてもいけないので、マリアの好意をいつも通り受け取ることにした。
リンゴを濃縮したような、爽やかでいて強い甘い香り。口当たりは癖がなく、ほんのわずかに渋い程度。カモミールとトケイソウ、あたりがキーだろうか。なんだか、首のあたりがぬくもって、息をするたびに鼻腔から重いものが抜けていくような心地がした。
エリザベートがあっさりと眠りこけてしまったのは、決してハーブの睡眠作用だけが悪いのではなかったのだろう。
それでも跳ね起きたのは、ソフィーとの逃亡を心待ちにしていたからだった。
大慌てで懐中時計を探り出し、針が時計の中央を縦に割っている安堵。
よかった。時計は三十分しか進んでいない。
それからマリアに就寝を告げ、物音を立てないように身支度を済ませ、さらに三十分ほど見計らい、私室を出る。深夜の二十五時半ともなれば、城は当然寝静まっている。静かに動けばいい。見張りの兵にだけ気を付ければいい。
脱走は、あっさりと叶った。
二十五時四十五分。
木の陰に隠れながら裏道を進み、川に当たったところで流れに沿って下る。
エリザベートは想像した。馬にまたがるソフィーの腰に手を回し、夜明けまで街道を進み、適当なところで馬を捨て、朝食はそのあたりで買ったパンをふたりで分け、水もそのあたりの井戸で汲む。それからふたりでずっと歩き、疲れたら木陰に座って鳥でも眺め、宿に泊まるのは危険だろうから夜通しで山を越え、足が痛くなっても唇がカラカラになってもふたりで肩を分け合って森を抜け、泥まみれの汗まみれになったところで、小さな屋敷にたどり着く。そこはもうふたりの知らない国で、かろうじて言葉が通じる程度なのだ。屋敷の住人は堅実な投資家で、人が良くて、エリザベートとソフィーの身の上も聞かずに寝床と温かい食事を分け与えてくれる。ちょうど主人には子供が生まれたばかりで、家庭教師を欲しがっているのを耳聡く聞いたソフィーが、それならとエリザベートを教師に推薦し、ソフィー本人も掃除婦でも洗濯婦でも何でもやるからと丸め込んで、ふたりして住み込みの職を手に入れる。そこからは、子供の成長を見守りながら、故郷の国が静かに死んでいくのを風の便りで聞くのだ。
闇に慣れた目が、橋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせる。
二十五時五十八分。
ちょうど、約束の時間だった。
橋には、誰もいなかった。
懐中時計が二十六時を回り、何か手間取っているのだろうと心配しているうちに三十分が経ち、一時間が、一時間半が、二時間が経とうとしたところで、エリザベートを背後から呼び止める者があった。
「エリザベート様。お体に障ります」
結局、ソフィーは約束の場所に、約束の時間に現れなかった。なぜ来てくれなかったのだろう。所詮は、苦労している出来損ないの女王を憐れんでの嘘だったのだろうか。貴族に身を落としたソフィーの、ちょっとした仕返しだったのだろうか。
そんなところだろう。
もう、自分は、この国とともに少しずつ、緩やかに死んでいくしかないのだろう。
なんだか、どうでもよくなってしまった。
あんなに浮かれていた自分がばからしく思えた。
そっちがその気なら、こっちにだって復讐のやり方はいくらでもあった。
懐中時計を懐にしまって、独り言のようにつぶやく。
「ねぇ、マリア」
「はい」
「わたし、戦争をしようと思うの」
緊張が途切れたように、エリザベートは気絶してしまった。
受け止めるマリア。
すっかり軽くなってしまったエリザベートの体重と、すっかりしぼんでしまったエリザベートの体温が、マリアにはたまらない快感だった。
快感に身を震わせながら、マリアはエリザベートの懐に手を伸ばす。
懐中時計を取り出し、
一時間、進めた。
マリアの行動を知るものは、川の対岸に刻まれた、馬の足跡だけだった。
過たない時計は必ず過つ 多架橋衛 @yomo_ataru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます