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 近世ヨーロッパ。

 虫が互いに食い合い、卵を産み、また食い合うように、刻々と版図が塗り替わっていく大陸で、どうにか生き残り続けている小国があった。

 仮にA国としておく。教科書でも一行書かれるかどうかという小国だし、その程度の小国なら星の数ほどあるのでいちいち覚えていられない。ただ、Aという国は確かに存在した。


 A国の最後の統治者は、名をエリザベート。女だった。


 そのエリザベートも、最近ではすっかりやつれていた。自分がこの国を終わらせてしまうことを気に病んでいるのでは当然ない。

 父と夫、王位に就く者が相次いで他界し、若干二十歳のエリザベートの手元にあれよあれよと王位が転がり込んだ。内政は大臣に任せて何とかなってはいるものの、外交はそうはいかない。挨拶周りに諸々の折衝、接待代わりのパーティー、小国としてやらなければならないことは山ほどあり、まだお飾りに過ぎないとしても女王エリザベートにもやらなければならないことが山ほどあった。


 しかも、である。


 ただでさえ最近の大陸はきな臭い。あの国が分裂し、あの国があの国を飲み込み、あの国では市民が王に反旗を翻そうとしている。

 一歩間違えれば、いや、エリザベートがひとこと間違えれば、それだけでこの国も火の海に沈んでしまう。

 シルクの上を全速力で綱渡りしている気分だった。

 最近、赤くない尿を見ていない。

 それでも、止まるわけにはいかなかった。力不足を補うために、毎夜遅くまで歴代の王が残してくれた日記を読み漁る。外交術や話術を身に着けるのは難しい。こうやって個人と深く結びついた過去の記録が数少ない教師だった。


「エリザベート様。お休みになられては」


 侍女のマリアが温かいハーブティーを持ってきた。彼女は侍女のなかでもっともエリザベートとの付き合いが長い。その付き合いは、エリザベート0歳、マリア4歳のころから続いている。その縁もあって、エリザベートが王位に就くと同時にマリアも侍女長に抜擢された。信頼の強さは言うまでもない。何よりエリザベートは、マリアの入れてくれるハーブティーが好きだった。


「ありがとう、マリア」


 カップを傾けながら、女王は続ける。


「でもね、寝たくない。少しでも早く、やれることはやっておかないと」

「そうですか」


 だが、最近は少し距離を感じていた。

 国のために身を削るエリザベート。

 女王であっても無理は控えてほしいマリア。

 ふたりの意志は真逆だった。

 マリアの立場は、真逆の意志を曲げることしか許さない。



「そういう状況だったら、着替えのときくらいしか休めないね」


 ある日のパーティー終わり、エリザベートはドレスと帽子を脱いでマリアに髪を洗ってもらいながら、ある人物を私室に招いた。

 異母姉のソフィーは、国の有力貴族と結婚し悠々自適の生活を送っていた。生来の陽気さで王族から下ってもけろりとしているし、血筋と家柄もあってエリザベートとも頻繁に会える。王女の相談相手としてこれほど気安いものものない。


「ほんと、もう息が詰まってしょうがない」

「寝てる?」

「寝たい」


 以前とは真逆の弱音を聞きながらも、マリアは淡々と職務をこなす。髪にタオルを当て、新しい服を着せ、女王が肌身離さず持っている懐中時計のゼンマイを巻く。時計に狂いはない。だが、エリザベートの肩は薄くなっただろうか。


「そうだ、マリア。何か飲み物を用意してもらえないかな」


 思いついたようにソフィー。王女付き侍女を使うことにも抵抗はない。マリアも心得ている。


「エリザベート様はいかがなさいますか?」

「じゃあ、わたしも。何か目が覚めるものを」

「かしこまりました」


 脱いだドレスを両手で抱きながら、マリアが部屋を出ていく。完全に扉が閉まったのを確認して、ソフィーはエリザベートに向き直った。


「リズはさ、上に立つ職が向いてないんだよ」


 女王を愛称で呼ぶ人間も、この世にはもう異母姉しか残っていない。


「どうしたの、急に。……確かに、わたしはまだ何もできないけど、だからこうやって頑張らないと――」

「違う違う。そうやって頑張ってるのが見えちゃってる時点で、向いてないんだよ。やっぱり人の上に立つ者は、どっしり構えててもらわないと」


 エリザベートは息がひきつった。確かに、父も夫も、いかなる時でも動じなかった記憶がある。大陸全土がきな臭いこの時期に至っても、気にする素振りすら見せなかった。エリザベートにはそれが愚鈍さとしか映らず不安を掻き立てられたのだが、それが、かえって王の器だったということなのだろうか。この小国が生き残ってきた理由も、そこにあったのだろうか。


「でも、わたし、そんなことできない……」


 目の前が暗くなる。これまでやってきたこと、考えてきたことは、すべて無駄だった。それどころか逆効果ですらあったかもしれない。転がり込んだ王位とはいえ、何なのだろう、この体たらくは。それを思い知らされる失望といったら、いかばかりか。


「わかってる。だからリズは、王女のままだったんだよ」


 ソフィーはけろりと言ってのける。


「どうして長女のわたしが貴族に下って、次女のリズが王族に残ったのか、理由はわかる?」


 完全に頭が真っ白になってしまって、首を振ることしかできない。


「リズの性格が王に向かないからだよ」


 どうして。そんな人間が王になってしまったのか。そんな人間が王族に残されたのか。ソフィーの言い分ではまるで、人の上に立つ素質があるから貴族に落とされたのだ、と言っているようなものではないか。


「わたしたちの父さまは、大陸全体がちょっとずつおかしくなっているのを敏感に嗅ぎ取っていた。いつ火の粉がかかってくるかわからない、ってね。そんなときに国のなかが、王族が、つまらないことで揉めてしまったら守れるものも守れなくなるでしょ? だから父さまは、王にいちばん向いている人を王族にひとりだけ残して、それ以外にちょっとでも素質のある人たちは片っ端から放り出して貴族と結婚させてしまった。そうすれば、王位継承の線は一本だけになるし、貴族は求心力を手に入れるし、国全体が落ち着くってわけ」


 王族に残ったたったひとりというのは、先王、つまりエリザベートの夫。

 そして、放り出されたうちのひとりというのは、目の前にいる異母姉、ソフィー。


「だけど父さまの誤算がたったひとつだけあったんだよね。ご自身が亡くなってすぐ、あなたの夫まで若くして亡くなってしまった。そのせいで、空いた穴を埋められる人間が王族には残っていなかった。そこに滑り込まざるをえなかったのが、あなただったの」


 自分は、お飾りの女王だ。

 それはわかっている。だから少しでも挽回しようとして努力を積み重ねてきた。それなのに、その努力すら、すべてが見当違いのものだった。


 もう、何もできないじゃないか。

 この国を維持することも、守ることも、いずれは他国に飲み込まれてしまって。


「だからリズ、逃げよう」

「……え?」

「逃げるんだよ。ここから」


 そのひらめきは、甘美だった。


「国のことなんてもういいじゃない。父さまが亡くなって、あなたの夫が亡くなって、もうこの国は終わるしかないんだ。いや、父さまが国を安定させるためとはいえ王族のほとんどを貴族に下らせるような博打まがいのことをしたのだって、それくらい危険な賭けをしないといけないくらい国が傾いてたってことじゃないかな。もう、この国は寿命なんだよ。あなたの夫が生きていたとしても、もう数十年は続かなかったかもしれない」


 つまり。


「リズが努力したところで、貴族がこらえたところで、この国はもう終わる。だからさ、いっしょに逃げよう。全部捨てて」

「……できるの?」

「任せてよ。これでも貴族になってからいろいろ勉強したんだ。町のこととか、庶民のこととか。生活能力だってちょっとは身につけた」


 しょせん元王族がいう貴族の生活能力だ。そんなもので山を越え谷を渡り国境を跨いで明日のパンを求めることなどふたりにはできない。この国と同じなのだ。国の寿命が短いということは、王族も、貴族も、そう長くはもたない。ソフィーは父と同じことをしようとした。国とともに滅ぶくらいなら、ふたりで足が動く限り逃げ出してしまえ。そのほうが、いくらか幸せをつかめる可能性があるはずだ。


「わたしたち、貴族の生活はわかってるでしょ。だからさ、国境を越えて、その地にいる貴族か王族か領主か、最近はお金持ちの庶民も増えてるからさ、そういう人に取り入って、お金持ちの暮らしを教えるんだよ。家庭教師にでもなって。そうやってお金を稼いで、ひっそり暮らそう」


 エリザベートは考えてみる。

 隣にソフィーがいる暮らしを。外交や内政といった重圧から解放されて、異母姉と過ごす時間を。何ができるだろう。何をしたいだろう。もう、止まらなくなった。


「ねぇ、ソフィー。この時計、売ったらいくらになるかな」


 手元から懐中時計を取り出し、ソフィーに見せる。王族に伝わる、時間を過ったことのただ一度さえない懐中時計。

 ソフィーは全身をのけ反らせて大笑いした。

 エリザベートもつられて笑った。


 その笑い声を盗み聞く者がいるとも知らずに。

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