過たない時計は必ず過つ
多架橋衛
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銃声という鼓動が、革命という血液を押し出し、跫音という血流をヨーロッパ全土に響き渡らせている。
城下はまさに市民の生きる渇望に満ち溢れていた。
熱い。ひたすらに熱い。
十五年前の劣情を思い返してしまうほどに。
あの日、もし逃げ出せていたら。
彼女が、約束を破らなかったら。
彼女が、あの日、あの時間に、ちゃんと迎えに来てくれていたら。
少なくともこんなことにはならなかったはずだ。国を戦争に導くことも、市民の革命心に火をつけることも、そして、これから、きっと――。それは歴史が物語っている。
時間を巻き戻すことができるなら、待ち合わせなんて回りくどいことはせずに、逃亡を思いついた瞬間、いますぐわたしを連れて行って、そう彼女に告げよう。
でも、戻らない。
奇跡が起こらないだろうか。
女王は手元の懐中時計に目を落とす。王族に伝わる、この世にまたとない名品中の名品。一度たりとも時間を過ったことのないという奇跡の懐中時計は、今日も、ただ正確に一秒一秒を刻む。
残念ながら、女王に奇跡をもたらすことはなかった。
そういえば、もし逃げおおせたらこの時計を売って費用の足しにしよう、そんなことも話したっけ。
女王は首を振った。
過ぎたことだ。もう、どうにもならない。革命軍の銃の前では女王とてただの女性だ。
現実を静かに受け止める程度には、女王は冷めきっていた。
城にはもう、女がふたり残っているだけだ。召使や兵はおろか大臣連中までもが、革命軍に寝返るか、革命軍に殺されるか、あるいはいつの間にかどこかに逃げてしまった。
いちばん最初に逃げ出したのは、もちろん彼女だ。
約束を破って、あの日、あの時間に、迎えに来てくれなかった彼女。
「結局、最後までわたしといっしょにいてくれたのは、あなただけだったわね」
女王の私室に入ってきた侍女に、ひどく穏やかな目を向ける。
「わたくしは物心ついた瞬間にエリザベート様にお仕えすることをお誓い申し上げました」
侍女は女王よりも四つ年上だった。女王にとっては、生まれる前から時間を共有してきたようなものである。戦争がはじまり、終わり、革命がはじまっても、静かな時間といえば彼女とふたりで過ごすこの瞬間だけだった。
「それ、手紙?」
「石にくくり付けて投げ込まれていました。おそらく、革命軍からかと」
侍女は女王の目をちらりと見て、手紙を手渡した。赤い封蝋は確かに革命軍の紋章が捺されている。ペーパーナイフで封を切る。
どうせ興に乗った革命軍の誰かが裁判官よろしく女王の罪状を書き綴りでもしたのだろう。最後にはギロチン刑に処す、などと付け加えて。それ以外の趣向が思いつかない。読む意味もないのだが、まぁ、せめて最後まで戦犯らしく振舞ってやろう。それが王族の意地どいうもの。
手紙を開いた瞬間、王族の意地は粉々に崩壊する。指から力が抜け、膝の上に落とす。たったの一文を、脳内で何度も何度も反芻し、何度も何度も否定した。
この手紙は嘘だ、ありえない、と。
間の文章をすべて飛ばして、差出人の名前を探した。
疑念も混乱も、膠着する。
手紙の書き出しはこうだ。
なぜ、あなたは、あの日、あの時間に、来てくれなかったのですか。
差出人は、あの日、あの時間に、迎えに来てくれなかった彼女。
ソフィー。
付け加えるなら、父によって一貴族に身を落とした現女王の異母姉。
足音に気が付いた。侍女よりも重い響きだった。
まず、広げたままの手紙と、たっぷり十五分は経過した懐中時計が目に入る。
視線を上げるにつれ、泥と血と火薬のにおいにまみれたブーツ、赤く染まったサーベル、切り伏せられ血を流したまま動かない侍女。
そして、手紙の差出人である、ソフィー。
十五年ぶりだった。
土に汚れやせ細ったぶん、精悍な顔つきになっているが確かにソフィーだ。
実の異母妹にサーベルを突き付けて言う。
「大罪人エリザベート。貴様を捕らえる。おとなしく来い」
もう、リズとは呼んでくれない。
時計を十五年巻き戻しでもしない限り、あの響きは帰ってこない。
だが手元の懐中時計は、正直に時間を刻んでいる。これまでも、これからも。
エリザベートはゆっくりと立ち上がった。これが女王の最後の仕事だった。
「はい」
ソフィーに続いて部屋を出る。
ドレスの裾を持ち上げて、侍女が流した血を避ける。
三十年以上仕えていた侍女は、苦しむことなくこと切れていた。
死に顔は安らかだった。
なぜなら、女王の懐中時計に隠された秘密を彼女だけが知っているから。
そのことを、最後の最後まで女王に知られずに済んだのだから。
懐中時計がちょうど二十四時間を刻んで、女王は処刑された。
だが、女王の首ひとつで事が済むはずはなかった。
王家の血を宿しているという理由だけで、革命の先頭に立っていたソフィー自身も、さらに二百六十四時間後、妹のエリザベートと同じ場所、同じ方法で処刑された。
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