死んだように眠り続け、目覚めたのは翌晩だった。

 小屋の粗末な壁の隙間から、真昼のように眩しい光が入り込んでいる。女は焚火に干していた着物をおろすと、アカの身だしなみを整えた。


 「満月よ」

 女は微笑んだ。


 おいで。

 待っていたよ、待っていたよ。


 声は、今にも頬に吐息を感じそうなほどに近かった。

 少年は大人になり、たくましい腕を広げて花嫁を待っている。緑の宮殿の奥では、宴の支度が整えられているだろう。


 アカは、その不思議な風景が、見えるように思えた。


 「決めましたか」

 女に問われ、アカは頷いた。


 小屋を出れば、大きな満月が真上で輝いている。

 小屋の屋根まで届くほどの萩が、白い穂を揺らして音を立てた。ざあざあと風になびく気配の中に、不思議かつ懐かしい、歌や笛の音が聞こえた。


 「森が、貴女を迎えに来ている」


**


 女が指さしたところには、これまで遙か遠くに広がり、歩いても歩いてもたどり着けなかった懐かしい森が佇んでいた。

 触れるほど近くに森の木々がそよいでおり、僅かな獣道が、ぽっかり口を開いた森の奥の暗闇へと続いていた。


 歩き出す瞬間、アカは激しい痛みを胸に覚える。

 

 今まで、子供や娘を森に盗られて泣いた村人たちの姿が浮かんだ。

 森を恨み、いつか森を焼き払うと呟く人々。

 そして今度は、アカの優しい両親も。


 けれど、次の瞬間には、アカは心を決めた。

 一歩踏み出した時、深い喜びが足元から込み上げ、強い大地の力、情け深い森の愛に包まれたように感じた。


 「おいで」

 確かにはっきりと、その声は届く。

 アカはゆっくりと、命に満ち溢れる森の奥へと歩を進めるのだった。

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原野奇譚 いも林檎 @ringoi

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