アカは行き倒れた。耳元では、おいで、待っていると優しい声が届いているが、体はもう動かなかった。

 ここで自分はもう死ぬのかと思い、見上げた空には、もうまもなく満月になる太った月が輝いていた。これまで以上に鮮明に、森の王子の顔立ちが思い出される。

 整った目鼻立ち。白い肌。簡素な服を纏い、軽やかに歩く。


 つっと涙が頬を伝い、アカは目を閉じる。


 次に目を開いた時、そこはごわごわした干し草の寝床だった。

 はっと体を起こすと、炊かれた薪の前で、女が一人、石を磨いていた。女が磨いている石を見て、アカは息を飲んだ。

 それは深い緑色の石で、アカの持つ石と同じに見えた。


 「ここには何人もの子供や娘が迷い込み、一晩泊まってゆく」

 アカに食事を施しながら、女は言った。

 「ここでどうするか考え、どちらに向かうか決めてゆく」


 「どうするか」や「どちらに向かうか」の意味が、アカには分からなかった。

 女は微笑むと、じっとアカを見つめた。アカの胸には緑の玉が下がっており、女は優しくそれを手に取った。


 「荒野は無限で、どの方向に向かうのも自由。ただ、何が待つかは分からない。それを、自分で決めるということよ」


 草の波は全てを覆い隠し、すぐ手前すら見えない。目隠しされているのと同じ。北に向かうも、南に向かうも自由。ただし、森に向かうなら、二度と現世には戻れない。


 「おまえは森に呼ばれているのだね」

 女は静かに言った。


 ぱちぱちと火がはぜる。粗末な小屋は、風が吹く度、壁のどこかがかたかた鳴った。

 おおー、おー、おー。

 狼が遠吠えをする。今、小屋から一歩でも出たならば、命は危うかった。


**


 森に呼ばれた子供や娘は、どんなに引き留めても、いずれ森に向かう。

 今まで、忽然と消えた村の子供たちは、深く暗い森の奥から手招きをされたのか。


 「魔物が巣食う森は、いつか人の手で焼き払わねばならぬ」

 村人たちは、そう言い合う。森に憎悪を向け、せめて自分の家族は森に心を囚われないように気を付けた。


 喉が潤い、腹も満たされ、体も綺麗に清拭したアカは、やわらかな寝間着にくるまり、目を閉じる。

 じゃぶじゃぶと水音が聞こえてくる。ごしごしと洗う音も響いて来る。女が、アカの着物を清潔に清めてくれている。


 燃える火に干せば一晩で乾くだろう。

 満たされた姿で、アカは向かうべき場所に歩き出すのだ。


 「昔から、わたしはここで、番をしてきた」

 眠りかけるアカに、女は優しく囁いた。それは子守唄のように旋律を帯びていた。

 「原野で無残に死ぬ者も、現世に戻り生き続ける者も。森に還る者も同じ。皆、わたしのところで休んで満たされ、そして旅立ってゆく」


 さらさらと落ちる女の髪は懐かしい香りがする。

 それは、アカを愛してくれた両親の腕の中の匂いや、アオと一緒に食べたおやつの香りのようだった。

 

 「森の花嫁」

 という言葉が耳に届いた時、アカはすとんと眠りに落ちた。闇に近い、濃い暗い緑の沼に沈むように。

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