一億円のある部屋

たかしま りえ

第1話 アキコの決断

 不動産屋に紹介されたマンションは比較的新しくオシャレな造りをしていた。

 十階建てで最上階に住む大家のもとをまずは訪ねろと駅前の不動産屋に言われて来てみたのだが、どうにも気が進まない。離婚を決意し、住まいと仕事探しをしているのだが、仕事は面接すら至らない上に、仕事もない主婦に貸してくれる部屋などあるはずもなく、自分の判断の甘さに打ちのめされているところだった。

 半年間、家賃は一万円、しかも家具備品付きと聞き、飛びついたのであるが、そんな話には裏がありそうで、騙された自分を見下す夫の顔が頭の中に浮かんできて、益々滅入るばかりだった。

 それでも何か行動を起さないと何も変わらない。そう自分に言い聞かせて、アキコは重い足を大家の部屋の前まで運んだ。

 七十歳はとうに超えたであろう婦人は、とても上品で騙されるかもしれないという思いは一瞬で去った。

 結婚して二十五年、夫と子供二人の家族だが、子供が二人とも独立し離婚を考えていること。自分名義の預金が三百万円あること。夫からの慰謝料や財産分与は望んでいないこと。それらを捲し立てる様にその婦人に語っていた。

 「すみません。私、何だかお喋りが過ぎますね」

 アキコはハッとして顔を赤らめた。

 「いいえ。気になさらないで」

 婦人は紅茶を入れ替えるために一旦席を立った。

 アキコは部屋を見渡した。高価そうな家具と調度品、趣のある風景画に、由緒ありそうな花瓶、見るもの全てが自分には縁のない物ばかりだった。

 「素敵なお部屋ですね」

 「ありがとう。全て主人が残した品物で、私の趣味ではないのよ」

 婦人は意味深げにそう言った。

 「私は離婚するにあたって、持って出る荷物を整理していたのですが、スーツケース一つに収まってしまいました」

 「あらそう。私もそうかもしれないわ」

 「こんなに沢山素敵な物があるのに」

 「だから言ったでしょう。この物たちは私の物ではないのよ」

 そう言い切った婦人の毅然さにアキコは圧倒されていた。

 

 いつもの時間に夫を送り出した。有難いことに夫は、アキコが荷物の整理をしていたことも、ましてや離婚を考えていることすら気付かずにいた。

 洗濯物をベランダに干し、掃除機をかけ、洗った食器を食器棚に戻し、エプロンをはずした。「主婦業はこれでお終り」心でそう呟く。 

 桜満開の青空に祝福され、晴れやかな気持ちでスーツケース一つを持ち、振り返ることもせずに家を出た。


 凡そ四十平米のその部屋は、リビングとキッチンが独立していて寝室も別にあった。玄関は狭いが廊下がありドアをあけてリビングに入るところが特に気に入っていた。

 寝室の備え付けのクローゼットに、持ってきたスーツケースから服を仕舞い始めた。すると、何やら奥に小さな金庫を見つけた。ホテルの部屋にあるような暗証番号で開くタイプのもので、初めの設定は扉に書かれていた。その後は部屋主が暗号を決めるようにと指示もあった。

 服を仕舞い終わると、キッチンでコーヒーを淹れて一息入れた。

 まだ仕事も決まっていなかった。なのに、逸る気持ちでここへ来てしまった。この決意を実行するには今しかない。大家とのお喋りがアキコの背中を押した。

 夫は夜中に帰宅をして、出しっぱなしの洗濯物とダイニングテーブルの上の離婚届、どちらを先に見つけるだろうか。いやきっと、どちらにも気が付かないで自分の部屋へ行き、朝になって驚くことだろう。そう思うと少しだけ気が晴れた。

 バッグに入れてきた通帳と印鑑を取り出し、これを金庫に保管しようと思い付いた。

 初期設定の暗証番号を入れて金庫を開けると、そこには現金が置いてあった。

 一瞬心臓が止まるかと思うほど、アキコはビックリした。こんな大金見たことがなかった。テレビの刑事ドラマで誘拐犯人が要求する身代金でしかイメージできない金額である。

 すぐに大家の家に駆け込んだ。

 慌てるアキコを婦人はゆったりとした雰囲気で家に迎え入れた。

「あのお金を見つけたのね」

「はい、こちらにすぐお持ちします」

 と、席を立とうとするアキコを婦人は制し、前回の訪問時と同様に紅茶を出してくれた。

「まずは落ち着いて、これを飲んで」

「ありがとうございます」

「あの一億円も、あの部屋の備品です」

 静かなトーンで婦人は話し始めた。

「半年後にそのままであればいいのよ」

「はい?どういうことでしょうか」

「あのお金で何かを初めて欲しいの。あなたの手腕で増やすことができれば、何も問題はないでしょう」

「増やすって・・・・・・」

「方法はお任せします。アドバイスはするわよ」

「もし、半年後に増やせなかったら?」

「利息を付けてお貸しすることになるわね。そうそう、半年後に住み続ける場合は、お家賃十七万円支払っていただければその中に一億円の利息も含まれています。要するに家を出るときに一億円あればいいのよ」

 ここのマンションの家賃相場は十二万円ほどだったはずなので、かなりの高額になるがそれも納得できた。

「半年・・・・・・」

 思わずアキコは項垂れていた。

「あなた、お仕事は決まったの?」

「まだです」

「お仕事の経験は?」

「結婚する前は保険会社で事務をしていました。その後は会計事務所で事務のパートを少しだけ・・・」

「パソコンはできるの?」

「事務のパートを探している時、パソコンが必須だと知って、パソコン教室に通いました」

「だったら、数字に強いしパソコンもできるなら、株をやってみない?」

「株ですか?」

「私が教えます」


 アキコは成り行きとは言え、後戻りのできない状況にあった。他に方法は見当たらず、婦人の気迫に押された形で、株を始めることにした。

 翌日、約束の朝八時に部屋を訪れると、リビングとは別の部屋に通された。パソコン画面が三台置かれ、書棚には経済の本がビッシリ詰まっていた。

 リビングとの違いにアキコは目を見張った。

「びっくりした?」

「はい、ご主人の書斎ですか?」

「いいえ、主人が亡くなってから私が作った部屋よ。この部屋だけがここでの私のお気に入り」

「すごいですね」

「まずは、一週間あなたはここに通いなさい。私が株の手ほどきをしてあげます」

「はい、よろしくお願いします」

 それから毎日、婦人に株取引のイロハをアキコは叩き込まれた。パソコンも購入し、書籍も株取引の基礎から読み漁った。

 デイトレードと中期投資、長期投資の組み合わせでリスクを回避すること。売買の仕組みが分かってからは、空売りとの組み合わせで儲けを確保すること。チャートの見方、銘柄の選び方などなど、アキコは食いつくように婦人からのレクチャーを受けた。


 三カ月後には、金庫からのお金の一部を運用して百万円増やすことに成功をした。

 午後三時過ぎ、いつものようにお茶会をしていると婦人から、

「そろそろ、あの部屋出る?」

「えっ、どうしてですか?まだ教わりたいこと沢山あるのに」

「あなたはもう、一人でも大丈夫よ」

「だったら、あと残りの三カ月間だけ今まで通りにお世話にならせてください。その後、別の一億円のない部屋に移らせていただけないでしょうか?そして月に一度程度は、大家さんのご指導を仰ぎたいと思います」

「わかりました。いいでしょう。あなたは投資に向いているから、きっと上手くいきます」

「どうして私は投資に向いていると思うのですか?」

「まず、第一慎重であること。真面目であること。何より堅実であること」

「それが向いている理由ですか」

「だって、株で一儲けしようとは考えていないでしょう」

「はい、教えていただいた通り、デイトレードでは一日一万円の利益を目指しています」

「今は一日平均二万円の利益をだしているものね」

「油断は禁物です。今は日経平均が高めに推移している稀な時期ですから、これがいつまで続くかわかりません」

「それでも、中期投資でも倍近くの利益を確定させたじゃない」

「あれもラッキーだっただけです」

「本当に浮かれない人ね。だから向いていると言っているのよ。ほとんどの人が株で儲けてもそれを使ってしまうか、気が大きくなり過ぎて賭けに出て負けてしまうか、お金が残る人はほんの一握りですからね」

「私の場合、大きいお金にはあまり興味がなくて、生活費が稼げればそれで充分ですから」

「あなた俗に言うバブル世代ではなくて?」

「そうです。夫はブランド品が大好きで。子供ができても、家を建てても、自分のお給料が減ってもブランド品を買うことにばかり気持ちがいっていて。それが思うように買えないからとイラついて私や子供に当たり散らす。それを観てきたので私はブランド品に対して嫌悪感しかなくなってしまいました」

「私と同じかもしれないわね。夫はお金と豪華な品が大好きで、どんな手段をしてでもそれらを得ていた。本当に見苦しいくらいに」


 アキコがこのマンションに越してきて五カ月が過ぎようとしていた。大家の部屋を訪問し、色々な話をすることが楽しみの一つになっていた。

 その日は大家と夕食を共にすることになっていたので、夕方近くの商店街に買い物に出た。大家はあまり料理が得意ではないと言うので料理好きのアキコが腕を振る舞うことが多かった。食材を買いマンションの玄関を入ると二十三歳になるアキコの娘が立っていた。

「あら、どうしたの?」

「ママったら、どうしたの、じゃないわよ」

「ちゃんとあなたには伝えたでしょう」

「そうだけど」

「今日仕事はお休み?」

「そうよ。有給とって大阪から帰ってきたのよ。夏休みも取らずに働いていたから遅い夏休みってとこ」

「パパは元気?」

「元気ないよ。ママの心配をしていたわよ」

「そうかしら。まあ、上がって」

「何か美味しいもの作ってくれるの?」

「ああ、これね。あなたのためではないわよ」

「えっ、もう男の人と住んでいるの?」

「違うわよ。まあ、一緒に来なさい」

 アキコと娘は大家の部屋にそのまま向かった。

「娘が突然来てしまいまして」

「あら、私は大歓迎よ。でも、親子水入らずになりたいのであれば、私は遠慮しますわ」

「いいえ、ここでご一緒に三人で食事をしていただけませんか?二人きりだと上手く話せる自信がなくて」

「だったらそうして」

 アキコが料理を作っている間、大家とアキコの娘は何やら楽しそうに話し込んでいた。

 料理を運ぶのを娘も手伝い、三人での晩餐が始まった。

「こんなにしっかりしている娘さんがいらっしゃるなら、安心ね」

「いえいえ、まだまだ我儘な子どもで」

「私は家では我儘だけれど外ではいい子ですからね」

「自分で言うかしらね」

「今はお仕事で大阪なのね。少しは慣れた?」

「はい、何とかやっています」

「やっと家を出られて楽しんでいるのよね」

「おかげさまで」

「確か弟さんは大学生で九州に住んでいるのよね」

「今年から私が家を出てしまい、父と母は二人きりになるので、心配はしていました」 

「そうなの?」

「だって、私がいたから二人は何とか会話もあったけれど、ママはパパを嫌っていたから」

「嫌いとかではないのだけれど、これからの人生を考えた時、一緒にはいられないって思ったのよ」

「弟が大学を卒業するまでの仕送りの手続きまで済ませて、私にも内緒で家を出るなんて、本当にびっくりしました」

「あの時はすぐに行動起さないともう二度と動けなくなってしまうように感じられて、ただただ焦っていたのかもしれないわね」

「で、ここでの暮らしは幸せなのね?」

「とっても」

「ならいいわ。パパも仕事がまだ忙しいようで、ママのことちゃんと考えられていないみたいなの。食事は外食ばかりのようだけれど、掃除や洗濯は何とかやっているみたい」

「離婚の手続きはしていないのかしら」

「パパも来月あたりから子会社に出向になって、お給料は減るけど時間ができるから、その時にするとか何とか言っていたわ」 

「子会社に行くの?」

「そう、エリート街道から外れるのよ。そんなタイミングも重なって、別人のようにしぼんでいるわよ」

「そう」

「前みたいに偉そうでなくなったし、人をバカにすることもしないし、私のこともお前は立派だなんて言うし。笑っちゃうけど」

「あら、どうしたのかしら」

「荒療治が利いたようね」

 大家の言葉にアキコはハッとする。

「荒療治ですか?」

「そう。数か月離れて暮らしたことで、見えなくなっていたことが見えてきたのかも」

「一度二人でゆっくり話し合ったらどうかしら」


 娘が帰り一人で部屋にいると色々なことが頭を駆け巡る。夫は学生時代のサークルの憧れの先輩だった。新婚当時はよく一緒に買い物に行き、料理を手伝ってくれたこと。下の子が生まれた時は、毎朝上の子を幼稚園へ連れて行ってくれたこと。結婚してから一度もお金の心配も女性の陰すら疑ったことがなかったこと。それまでは、夫の嫌な部分しか頭の中に残っていなかったはずなのに、今は良い思い出が溢れ出してくる。四人で暮らしていたあの家に、今は一人きりでいるのだと思うと、何だか可哀そうになってくる。そんな感情がまだあったことに、アキコ自身が戸惑っていた。

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