第6話 それぞれの未来

 蝉が残りの命を惜しむように鳴いている。マンションの大家であるスミコは銀行からの帰り道、街路樹にいるはずの見えない蝉の声に我が身を重ねていた。

 その日の夕方、一億円のある部屋にゆかりのある人たちがスミコの部屋に集まった。

「突然ですが、私このマンションを手放すことにしました」

「え、嘘でしょう」

「この近くのケア付きマンションに引っ越します。だから今まで通りのお付き合いはできてよ」

「あの一億円のある部屋は?」

「私は一億円だけを大家さんに返してそのまま住まわせてもらいます。仕事も今まで通り続けられるようにしてもらいました」

「ここの住人のタカオさんには少し前にお話をしていたの」

「そうですか。この部屋ともお別れか」

 リョウが名残惜しそうに部屋を見渡す。

「私はすっきりしているのよ」

「この部屋ってどうなるのですか?」

「この部屋はリフォームされて普通の賃貸物件になるそうよ」

「そうか。引っ越し大変そうですね」

「いいえサトル君。思い出ごと売るつもりよ」

「えっ、どうして」

 アキコが皆の声を代弁する。

「もともと夫の物だって言っていたでしょう。もう十年以上この物たちと過ごしたのだからそろそろ解放されてもいいのかなって思ってね。物があるとおちおち倒れることもできないし。終活って言うのかしら」

「まだまだお元気じゃないですか」

「そうでもないのよ。大家の仕事は何かと大変なのよ」

 誰も言葉が出なかった。

「ショウコちゃんはあのお店でこれからも働くのね」

 スミコは話題をショウコに振る。

「はい。それで私も今月引っ越すことになりました」

 ショウコは皆に向かって言っていた。

「タカオさんも寂しくなるわね」

 アキコが一番寂しそうな顔をしている。

「何だかあの部屋からそれぞれの人生の未来が開けたみたいだね」

 リョウの言葉に皆が頷く。

「私は家庭を再構築した。というところかしら」

 アキコはしみじみ呟く。

「自分は将来の夢ができたかな」

 サトルは遠くを見つめる。

「僕はお金への執着がなくなり、人間の良さが皆さんを通してわかりました」

リョウは皆に頭を下げる。

「私もそうだよ、リョウ君。あのままだったら人と人との付き合い方を知らずに孤独で寂しい人間になっていた」

タカオもリョウに倣って頭を下げる。

「リョウの場合は、社会を学んだよな」

「私もそうです。ここに来なければ自分を見失って自棄を起こして今頃どうなっていたか」

 ショウコが皆より深く頭を下げる。

「そうか。大家さんが一億円の部屋を作ったのって、人を再生することが目的だった」

 リョウの言葉に皆の顔もほころぶ。

「そんな立派なことではないわ。私の夫はお金に狂っていた。だから人はどうしてお金に狂ってしまうのか、その訳が知りたかっただけなの」

 しばらくは誰も口を開かなかった。

「でも、ここにいる誰も狂いはしなかったわ。冷静に未来を見つけてくれたのね」

「大家さんのご主人も別にお金に狂っていたわけではないと思います」

「リョウ、どうしてそう思んだ?」

「だって、大家さんである奥さんにこんなに資産を残したってことはお金儲けが得意だったってことでしょう。お金があるから豪華なモノに囲まれて暮らしたかった、という単純なことじゃないかな」

「そのお金儲けの手段がどうであれ?」

「ショウコそれを言ってはダメだよ」

「でも大家さんはそのご主人のお金儲けの手段が許せなかったのですよね?」

「そうね。でも、実のところ詳しいことは何も知らないの。私が勝手にお金とお金持ちを嫌っていただけなのかもしれないわね」

「大家さんはお金持ちだけれども、いい人です」

 ショウコの無邪気な発言に皆が笑う。

「私はただ子供もいなかったから寂しかっただけなのかもしれないわね。だからこそ、こうして皆さんとお付き合いできるようになって本当に幸せです」

「お金って何なのかしら」

 アキコの口から独り言のように漏れる。

「無くては生活できない」

 サトルの言葉にリョウが続ける。

「喜びも得られないし、楽しくもない」

「人とも繋がれないわ」

 ショウコの言葉に皆が頷く。

「お前からそんな言葉が聞けるとは」

 タカオは涙ぐむ。

「大袈裟ね」

「でも、そんなに多くのお金は必要ないわ」

「アキコさんどういうこと?」

「だって、人が生活するのに必要なお金って意外と決まっているもの」

「そうだよな。俺だったら月二十万円あれば結構贅沢に暮らしていける。サトルさんだったら?」

「自分は住む場所にも食べ物にも今のところお金は必要ないから五万円も必要ないかな。あっでも、将来のための貯金分はあるほどいいかな」

「私は馬鹿みたいにホストに注ぎ込んでしまったことがあったけれども、今思うと本当に必要なことではなかったです」

「必要なことって?」

「うーん、無くても生活に支障がない、ってことかな」

「でもその時は、必要だと思ったのでしょう?ホストにお金を使うことが」

 とサトル。

「そうですね。でも本当はそのお金を家に入れるべきだったのに、それができなかった。私はお金を嫌ってお金から逃げてしまった」

「私が家を出たのはね、自分のそれまでの人生が急に虚しくなってしまったからなの。子どもたちにも手がかからなくなり、夫との関係も決して楽しいものではなくて、私って何なの?と、家族にも自分自身にも問いかけていて」

「傍から見たら幸せそうでも、そうではないことも多いですからね。お金の問題以前にね」

 アキコの言葉にタカオが続く。

「贅沢な悩みだっていうことは、重々承知していたのだけれども、自分で自分の心をコントロールできなかった」

 アキコは天井を見つめて言った。

「それ、とってもよくわかります。私もそうだったから。心が悲鳴をあげていて、誰かに胸の内を叫びたい、そんな感じでした」

 アキコはショウコの手を黙って握った。

「二人とも行動を起したことで、新たな展開を引き寄せたのね」

 スミコは立ち上がって二人の肩にそっと手を置く。

「私は家族を巻き込んでしまいましたけれど」

「私なんて借金までしてしまいました。でも、うちの場合、そんなことがあったおかげで家族との関係が、ここにいるお父さんも含めて良くなりました」

「そうね。私の家も私が暴れたお陰で、どうにか仲の良い関係になれたかな」

「自分自身の心の声に耳を傾けていないと人って壊れてしまうから。心の声を知って、それを上手く伝えられたら人間関係のトラブルなんてないのかも」

「お前も成長したな」

 サトルがリョウをからかい、真剣だった皆の顔が綻んだ。

「私はもっと夫とお金についての話をしていればよかったのね」

「大家さんはご主人とお金の話をしたことがなかったのですか?」

「お金の話をすることって何だかタブーだったから」

「それって時代?」

「今でもその空気ってあるよね」

 サトルの問いかけにリョウも追随する。

「日本人の特徴の一つじゃないかな」

「そうね。周りの人たちを見てもお金の話を家族でしているのって少ないイメージだわ」

 タカオの言葉にアキコが重ねる。

「私の家も今の義父はお金の話をしてはくれませんでした。もっと早くから家族でお金の話ができていたら、私も進学先を変えたのに。そうしていたらあんなことには・・・」

「私に相談してくれていたら。そもそもちゃんと連絡を取り合える関係でいたら・・・」

「これからの話をしましょうよ」

 大家がそう言って紅茶を入れるためにキッチンに向かった。アキコとショウコがそれに倣う。

「サトル君はずっとあのレストランで働く予定なのかい?」

 タカオの問いかけに少し考え込むサトル。

「実はまだ何も決めていなくて。覚えることもまだ多いし何より料理の勉強が面白くて」

「それが正解なのかもしれないね」

「お父さん、どういうこと?」

「今夢中になることがあって、面白くて仕方のないってことね」

 タカオに変わってアキコが言う。

「アキコさんも?」

「そう、私はね家族のためだけに生きていたのだけれども、それが間違いだったことに気が付いたの。家族がいても主婦としての役割があったとしても、私が今楽しくて面白いことをしていないと駄目だってことに」

「家族のために忙しかったら自分のことが疎かになるのは仕様がないよね」

「でもそれだと家族にも迷惑だったりするでしょう。自分は何をしたいのか、どうしている時が楽しいのかを考えるだけでも良かったのかなって今は思うわ」

「リョウ君の将来の夢は何だい?」

 タカオがリョウに聞く。

「僕もまだ漠然としています。だんだん仕事が面白くなりかけている状況かな」

「ショウコちゃんは?」

 アキコがショウコに笑顔を向ける。

「私もまだ将来のことは考えられなくて。でも、接客している自分が好きです」

「自分が好きって大事なことよね」

「それに尽きるのかも」

「私ね、実は株式投資は夫から引き継いだことだったの。それが楽しくなってしまって。お金が嫌いだなんて言って株で稼いだりしていたのだからどうしようもないわね」

 スミコが少女のように照れくさそうに告げる。

「増やしました?」

「実はかなり」

 スミコは悪戯っ子のように笑った。

「株や経済の勉強しているのが好きだったわ。主人に感謝しないとね。今更だけれど」

「役所勤めをしていた時は人間不信になりましたけれど、今は人のために身体を動かすのが楽しくなりました」

 タカオの表情もこのマンションに来たばかりの時とは別人のように明るかった。

「一億円のある部屋で学んだことは、楽しく生きるってことになるかな」

「リョウ、何それ。まとめているつもりか」

「お金を大切に扱えば、楽しい人生になるってことよね」

「アキコさんまで」

 みんなの笑い声が最後の締めとなりいつもの集まりはお開きとなった。


 アキコの明るい声、サトルの屈託のない笑顔、リョウの真剣な横顔、タカオの穏やかな姿、ショウコの漲る若さ、それらを目に焼き付けるように、スミコは一人目を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一億円のある部屋 たかしま りえ @reafmoon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る