悪夢の世界

 次に私の意識が戻ったのは、赤黒く塗られた広い部屋だった。先ほどの自室とは違い、病院のようにベッドが多く並べられており、その横には1人ずつ、釘を持った人間が立っている。そして私は、この場所を知っていた。


 いや、知っているも何も、この場所は私が死んでから、殺されてから、救済を受けてから、ずっと私がをしてきた場所なのだから。


 この場所で私は、延々と釘を打ち続けてきた。ベッドに倒れている人間に対して、時に差し替え、時に1から打ち付けて。何故そんなことをしているのかは聞かされず、ただただ言われた通りに続けてきた事だけ、覚えている。


 こんな時でも、頭はまた、冷静なままであった。意識が戻ったことを悟られれば、悪い事が起こると、そう予測した上で、その通りに行動できていた。


 まずは周囲の確認だ。ベッドの上には釘を打ち付けられた人間が寝かされており、周りのベッドも全く同じ状態だ。その横に立っている人間たちは、無心でをしている者と、横の人間と喋りながらこなしている者の2通りあった。つまり、自我を持った人間が、ここで働けているということだ。そして床頭台の上には、血がついた釘と、新品同然の釘がそれぞれ並べられていた。


「よう、社長。そんな不思議そうに周りのことキョロキョロしちゃってどうしたんだよ。また変なもんでも見つけたか?」


 後ろから声がかかった。どうにも聞き覚えのある声だった。恐る恐る振り向くと、そこには、かつての友人が、隣のベッドの横に腰掛けていたのだ。


 声は出なかった。声を出してしまうと、驚きも動揺も隠しきる自信がなかった。


 友人は、かつての見た目そのままだった。何もかもを見透かしたかのような笑みで、常に余裕そうな態度でそこに居た。


「ああ、そうだ社長。これ見てくれよ。募集ポスター完成したみたいだぜ。やっと俺たちも別の仕事に回れるってもんだよなぁ。ギリギリになってお前が戻ってくれてよかったよ。安心して2人で離れられる」


 こちらが全く情報を持っていない状態で、自分だけが理解したままで話を進める癖もそのままだった。そんな彼は、私に一枚の紙を渡してきた。


 何かの募集ポスターである事はわかった。だけれども、私には何故かそれが読めなかった。文字がぼやけているとか、見たことのない言語だとか、そういう事ではなく、意識がそちらに向かないのだ。辛うじて読み取ろうと思えた上で、実際に読み取る事ができたのは、メンバー紹介が載っている部分だけだった。


「ああ、社長の紹介も載ってるぜ。左下の部分見てみろよ」


 伝え忘れたが、私はこの友人に生まれてこの方「社長」と呼ばれた事はないし、ましてや私の名前はそんな名前ではない。何故そんな呼ばれ方をしているのかもわからない、だけどもその紙には、私の顔の下にしっかりと、社長と書かれていたのだ。


 友人との会話とポスターに気を取られていたせいか、自分に近づく存在に気付くことができていなかった。ポスターから顔を上げると、友人は無表情になり立ち上がっていたのだ。こちらを見向きもせずに、に取り組んでいた。


 影が差した。背後に大きな何かがいることだけは理解できた。恐る恐る背後に目をやると、そこには闇塗れのローブを身につけた大きな人間が立っていた。


「社長君、だね。君はどうやら意識が戻ったらしい。そんな君に1つ、チャンスをあげようと思う。ああ、心配しなくても良い。期待もしないでおくれ。これはすべての者に、平等に与えているチャンスなんだよ」


 声が落ちてきた。内臓にまで響くような低い声だった。心の奥底に語りかけて来るかのような、打ち付けて来るような、そんな声だった。


「君に一枚の紙をあげよう。この質問にすべて答え、署名することができれば、君の脱退を認めよう。晴れて自由の身分だ。一生過ごせるだけの用意もしてやろう」


 そう言って渡された紙には、いくつかの質問と、署名欄があった。質問内容は簡単なものだった。なぜ辞めるのか、辞めた後どうするのか。本当にその程度の質問だ。私は渡されたボールペンを使い、簡潔な答えだけ記入して用紙を書き進めていく。


「ああ、社長君。その紙に署名だけしてもらえれば、その用紙を受理しよう。多分久々に書くだろうからねえ、ちゃんと書けるかな?」


 そう言ってローブの人間は笑った。揶揄われているのだろう。私だって自分の名前くらいかけるつもりだ。


 署名が終わり、紙を手渡す。うんうんと頷きながらにこやかに読み進めるローブの動きが止まった。


「おやおや、社長君。君、自分の名前を間違えているじゃないか。ほら、ファーストネームの漢字が前後入れ替わってるよ」


 何を馬鹿な、と受け取り確認すると、確かに間違っていた。奥村圭一と書いたつもりが、奥村一圭となっている。


「この消しゴムを使いたまえよ。これがよく消えるんだ」


 手渡された消しゴムで署名を消した。微かな違和感が頭の中を通り過ぎていった。もう遥か遠くに行ってしまったようだが、今はさっさと署名を済ませたい。


 そう思い署名欄に手を伸ばすも、苗字が出てこない。自分の名前はわかっている、圭一だ。なぜか思い出せないのだ。ド忘れというやつだ。


「おやおや、社長君。まさかとは思うけれど、君は自分のファミリーネームをド忘れしてしまったのではないかな?仕方ない、ファーストネームだけでも良いよ。私は寛大だからね。それで許してあげようじゃないか」


 ローブが私を馬鹿にしたように笑う。いちいちと笑い方が尺にくる奴だ。私は署名欄に圭一の文字を書き入れた。しかしどうにも『一』という漢字がうまく書けない。どうしても形が歪んでしまうのだ。何度も書き直そうとするうちに、『圭』の字も消えてしまった。改めて名前を書こうとするも、またこれもうまく書けない。そしてまた字を消した時、ふとした事に気付く。けいいちの漢字を思い出せない。


「社長君、君は漢字さえも忘れてしまったのかい?困った奴だねえ。良いよ、ひらがなで書きたまえよ」


 馬鹿にするんじゃない!と怒鳴りたい気持ちでいっぱいだった。しかし声も出ないほどに気持ちが動揺していた。用紙の上を見ても、もうその字は読めなかった。糸が撒き散らされたようなその文字は、何を意図して書いたのか、自分の字なのかすらも思い出せない。


 私は震えながらローブを見上げた。フードの中から、君悪く弧を描いた口元が見えた。


「社長君、書くのは諦めたのかい?」


 嬉しそうに笑う声が落ちてくる。喉の奥あたりから気味の悪い冷たさが這い出てくる。


「君の名前を、教えてくれないか?我々は君を歓迎するよ」


 私は答えられなかった。私は、自分の名前さえも思い出せなくなってしまった。


「これからも君のことは社長と呼ぶよ。よろしくね、社長君」

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夢で見た世界 あるくむしさん @walkingbug

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