夢で見た世界

あるくむしさん

謎の少女

 その男の物語は、突然の落下から始まった。人間、自分の意図に依らずどこかからどこかへ落下することはそうそう体験しない。それこそ自分が望んで飛び降りたり、誰かの意図や事故によるものであったり。あるいは何も考えず、無意識に、うっかり足を踏み外してしまったおとぼけさんだったり。ただその男は、数多くある例外の中でも唯一と言って良いほど希少なをした人間だと言える。


 その男が家の玄関を一歩出ようと足を踏み出した時、その先の地面がのだ。いや、消えた、という表現は少し違うかもしれない。正しくは、と言うべきだ。今まで信頼してきた、何気なく踏み締めてきたその存在が、突然自分に牙を剥いた。


 その瞬間は、人生で1番密度の高い時間だっただろう。戸惑う中で、軸足や周りのものに縋り付くも、頼ろうとした瞬間にそれらはいく。ドアノブも、靴箱も、自分の靴も、果てには前に落ちていた靴べらも。周りに頼れるものが全てなくなってしまった瞬間、男は暗い暗い地中へと落ちていってしまったのだ。


 何秒、何分、何時間落ちていたかはわからない。考えるだけの余裕がなかったのか、そもそも時間感覚が狂っていたのか、狂わされていたのか。真っ暗な中で、落下していく感覚があったことだけは覚えていた。目が覚めた時、そこは自室であった。何もかもがなくなった自室の中で、大の字になって倒れていた。部屋の窓からは燃えるような夕日が差しているかのように見える。ように見える、と言うのも、多分、実際には違う筈だからだ。自室である、という確信はあるものの、記憶にあるそれとは全く異なっている。部屋は真っ赤に塗られ、床は赤黒い液体で満たされている。差しているように感じている夕日も、窓に塗られた赤を透かされただけの光だ。何が起こったのかわからない。だと言うのに、自分の心は、酷く、落ち着いていた。


「ご機嫌はいかがかしら?」


 青く澄んだ声が落ちてきた。この部屋の穢れを、全て浄化してしまうのではないかと思うほどに青く、澄んだ声が。部屋を探しても声の主を見つけることはできない。起き上がることもできず、首を動かして探しただけでは見つからなかった。一瞬、この絶望に挿した光に期待したことによって、また更に深い絶望に陥った。


 諦めて上を向き、まばたきを1度、パチリとした瞬間に、は現れた。黒髪の少女が頭の横に立ち、私のことを覗き込んでいた。セーラー服を身に纏い、柔らかく冷たい笑みを携え、その手には、腕の長さはありそうなほど長く太い、大きな釘を持って。


「別にあなたに恨みがある訳じゃないのよ。ただ、これが私の、お仕事だから」


 少女はその美しい黒髪を揺らし、禍々しい釘をに構えた。何が起こるか分かったと同時に、訳がわからない状況になった。動けるけれど動けない。動かなければならないのに動こうと思えない。心がそこに縛り付けられたかのように、打ち付けられたかのように。


 少女が腕を大きく振りかぶった。私は強く目を瞑り、来るであろう痛みに備えた。


 痛みはなかった。不思議に思い、目を開けると、少女のその手からは、禍々しい釘が消えていた。そして私の腹には、深々と、部屋の床ごと、その釘が打ち付けられていた。


「あ……ア…………ァ……!?」


 叫ぼうにも、声すら出なかった。声にならない音が私の口から漏れ出した。数瞬後、燃えるような熱さと、巨大な石でも詰め込まれたかのような強い圧迫感が、私の腹に押し寄せた。痛みではない。熱く、苦しいのだ。


 少女の手には、新たな釘が用意されていた。次の的は、私の首だった。


 深々と釘が突き立てられた。呼吸ができているのか、出来ていないのか、自分でもわからない。今わかるのは、自分が今生きていることが異常であることと、何故か自分が異常なほど冷静であり、その冷静な脳が、雪崩かけるかのように苦しみを訴えかけている事だ。


 少女の手には、新たに小さな釘が2本用意されていた。小さい、と言っても、腕の大きさと同じぐらいの釘が、それの半分になった程度に過ぎない。少女はその釘を、私の目に、見事命中させてしまった。


 目はもう見えなくなってしまったけれど、頭はおかしなぐらい冷静だった。痛くはない。だけれども、全身が中と外から締め付けられるような感覚と、雪崩れ込んでくるようなという感情に飲み込まれかけていた。いつまで続くのかわからないこの地獄の中で、私の意識は永遠とも呼べるような時間をかけて、ゆっくりと沈んでいくのであった。




 あの地獄を経て、次に意識が戻った時には、元の状態に戻っていた。自室で大の字になって倒れていて、窓から差し込む光に目を窄めていた。光を遮ろうと手を出そうとしたが、動かない。動かないのだ。


 私はまた、心がそこに打ち付けられていた。


「もう、嫌だ……」


 もう無理だ。もう無理だ。もう無理だ。もう無理だ。もう無理だ。またもう一度、あれには耐えられない。何故こんな状態になっているのか。私が何をしたというのか。何もしていない。私はいつも通りの、日常を、ただ単純に、謳歌していただけではないか。なぜこのような仕打ちを受けなければならないのか。


 頭の上に影がさした。あの少女だった。


「お目覚めですね」


 その手には、またあの釘が掴まれていた。私のことをあれ程に苦しめた、あの釘を。それを見ただけで私は震え上がるような寒気を感じた。それでも体は動かない。実際に震えたりも、痙攣したりする事もない。その事実すらもが恐ろしい。


 少女が腕を大きく振りかぶった。その瞬間、私は声を発していた。発する事ができていた。


「もう、殺してくれ」


 もう駄目だ。駄目なのだ。気も狂わせて貰えずに、妙な感情の波に押しつぶされそうになり、その苦しさだけを、永遠のような時間をかけて押し付けてくる。生きている事こそが既に枷であり、苦しみの原因だ。もう死ぬ事こそが、自分にとっての救いなのだ。


 少女は、私の言葉に一瞬耳を貸し、それを理解した上で無視をした。打ち込まれた鉄塊から、またあの感覚が押し寄せてくる。先ほどまでとは言えずとも、恐ろしいほど長く苦しめてきたあの感覚に、恐怖しか感じられなかった。


 少女の顔を見ると、嬉しそうな、柔らかな笑みを浮かべていた。その闇のように真っ黒な目で、私のことを見ていた。見つめていた。ゆっくりと私の頭に近寄り、しゃがみ込むと、


「いいですよ。殺してあげますね」


 少女は目を細めて、ニッコリと微笑んだ。私にはその笑顔が、女神の微笑みにしか見えていなかった。澄み切った女神様の、救済の微笑みだ。少女は新たな釘を手に、もう1度立ち上がった。そしてその数瞬後には、私の意識はプツリと切れていたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る