囁く舟で人形の夢を
隣のヴィゴがそう話すのを聞きながら、僕は事務所のソファに座っている。あの夜、当のヴィゴの
「報告書は事実通りに書いた。ジークリット・シュレーディンガーは
「僕はマルグリットじゃない。あんたにそう呼ばれたくない」
「生体情報から言えばお前が間違いなく
ヴィゴが何と言おうと、マルグリットは死んだ。
何しろ僕にはもう、記憶がない。
わたしたちとして過ごした記憶はあるが、
通りの向こうの裏道からは、誰かが煙草に火をつけた音が聴こえる。セッティングが狂って久しい僕の耳は音の距離をアンバランスに拾い、目は薄暗がりでも本を読める。ソファの
ヴィゴは僕の肩を抱く。
引き倒して、馬乗りになった。あの晩ここでそうしたように。ヴィゴは文句も言わず黙って乗られている。僕は彼の目の周りを触れる。
本物の骨と組織だ。感覚入力が壊れた僕は、人造の骨格や皮膚、眼球を見分けてしまう。
ヴィゴは本物だ。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「もう終わったろ」
「終わってない。わたしたちの何人かがまだどこかにいるかもしれない。探さなきゃ」
「そうだな。でも、まずはちゃんと眠れ」
「嫌なんだ」
眠ると、それきり
それなのにあんたはいつも僕を寝かしつけてしまうな。
のっそり身体を起こしたヴィゴは当然のように僕の背を抱いて、ジーク、と呼んだ。
温かい。声に乗って生命が入ってくる。出会った頃、ヴィゴが僕の名を選んだ。だから僕はマルグリットではない。
「いい子だから。必ず起こしてやるから」
「あんたの起こし方は勝手なんだよな……」
そしてそのことを、毎回、忘れる。
ざあ、ざあ、と耳の奥で波のような音がしていた。
これは血流の雑音であって外界の音ではない。
この音は聴覚入力から減じてよい。でも僕にはそれができない。
古いいくつかの記憶は読み出し回路から切り離されたままだ。
僕は、思い出さない。
暖かな海には帰らない。
代わりに僕は、ヴィゴという舟に拾われた。
行き先は知らない。これからもずっと乗せていってもらえるのだろうか。それも分からない。
ああ、ヴィゴの鎖骨あたりの匂いがするな。
そして
――
〈了〉
偽装人形の眠り 鍋島小骨 @alphecca_
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