鈴蘭の王国は瓦礫の下に
一分後、僕はきれいなままの手でドアを開け部屋を出る。どうせこんなことだろうと思ってあらかじめ手袋を着けていたので、血まみれのそれを外すだけでよかった。
廊下を進み階段を登り、屋上に出ると濃紺色の車が雨に濡れている。この
僕はシートに身を預けると、先ほど引き出した眼球から――正確に言うと眼球に繋がる人工視神経の束に
車体はドアを閉じながら既に垂直上昇を始めている。風を読み雨を測り、方位を読み座標と照合。表示は目的地まで三十四分。システムが発進許可を求め、僕はゴーサインを与える。
加速開始を感じさせないほど滑らかに、僕を乗せた
恐らく、この釣りは成功する。キトリ・ザンデルリングの狙いを知り、ヴィゴが段取った。全く無謀なことを言い出すものだが、ヴィゴには勝算があったらしい。近年キトリは増長から油断が出てきており、僕を見つけ次第、雑な段取りで仕掛けてくるだろうという見立てだった。
キトリは前にも同じことをしているという。つまり、親しい人間の偽者を送り込んで対象を怒らせ、自分の所まで乗り込んでくるように仕向けて捕獲する。
さっきバラした『ヴィゴのような何か』は、人造骨格に
一見しただけでも、
三次元計測に基づいてサイズと
対象とアンマッチな古すぎる
キトリ・ザンデルリングはそのくらい調べてから僕に手を出すべきだった。
キトリは別名の方が世間に通っていて、その世間とは違法なヒト型AI――
かつて、AIは機能も外見も明らかに人間ではなかった。しかし人は長い間、ヒト型の人造生命の夢を見続けてきた。アンドロイド。ヒューマノイド。サイボーグ。レプリカント。
本物の人間と思わせたい。
そして、様々な動機から倫理規程を無視した技術者たちの努力の果てに、実在の人間と見分けがつかないほどそっくりな偽者が産み出せるようになった。法律で禁止された
そもそも、昔からそうした需要はあった。
例えば国家元首や大富豪が身の安全やプライヴァシーを守るために隠れ蓑として自分の
また、金に糸目をつけないタイプの狂人は、自分の執着する人間の生きたほんものを作り、飼うなり壊すなり好きに扱う欲望を持った。
あるいは詐欺や何かの犯罪を目論む者が、特定人物の代わりに全く見分けのつかない偽者を欲しがった。
夜の裏町も同様で、『あの女優そっくりのSM嬢』『どんなに痛め付けてもいい奴隷』『食べられる恋人』などの路線で会員制の非合法店舗を開けば必ず金になるということに気付かないはずがなかった。
そして、失踪願望を持つ個人が自分の偽者を欲しがるようにもなった。
以上の各現象は、違法ヒト型AIが極めて高価だった時代から、かなり頑張れば一般の個人にも手が届くくらい値段が下がっていくに従って順番に起きた。
そうした違法ヒト型AIは、俗にこう呼ばれる――
さて、
精巧な人造骨格や生体脳もさることながら、本人の生体情報と、行動情報だ。
遺伝情報を盗まれれば疾患リスクや出生時の生物学的性など様々な重要因子が暴かれる。行動情報を盗まれれば何を買い何を食べ生活圏はどこかが分かるなど、セキュリティリスクが高い。本人のふりをさせて資産を動かすことも可能になってしまう。人殺しのアリバイだって作れる。
だから、本人に無許可でそれらの情報を収集することも、収集したデータを生体脳に書き込んだり
だが、それが何の障壁になったというのか? 実際には生体情報は勢いよく盗まれ続け、悪用されている。禁止されて表社会では出回らないモノだからこそ、裏では高値で売れる。
やがて、
中でも『
* * *
「やあジーク、協力ありがとう。首尾よくいったよ」
「何より。ヴィゴは?」
「元気に押収してる。入るといい、
ありがとう、と答えて建物に向かう。内部見取り図はここに来るまでの間に受信し頭に入っている。
急いで歩きながら、ヴィゴが無事だったことに何よりほっとしていた。そうだとは思っていたけどね。化け物みたいな戦闘能力があるから。
拘束された
向こうは事前に僕の外見をチェック済みだろうが、それはこちらも同じだ。獲物の姿は頭に叩き込んである。
拘束された中年女は中肉中背、緩く波打つブロンドに褐色の眼。
対する僕は彼女よりずいぶん長身で、ヴィゴいわく『ストロベリーブロンド』のベリーショート、眼の色はブルー。
何も言わず目の前まで進むと、ごくりと唾を飲み込んだあとキトリは言った。
「マルグリット」
「寝ぼけたことを言うな。あの子は死んだ」
僕はキトリを見下す。キトリの眼の中に、僕の影が映り込んでいる。
そうだ、マルグリット・ザンデルリングは死んだ。
わたしたちは耐えられなかった。金と暴力と
わたしたちが逃げ出したのは六年も前のことだ。
改良実験のために作り出したマルグリットたちは、キトリの虐待用でもあったからだ。キトリが吊るし、鞭打ち、手足を
逃げ出してから思う。
わたしたちのうちの誰かがオリジナルだったのだろうか?
それすらも知らされてはいなかった。オリジナルはどこか安全な場所に大切に隠され、わたしたちのようにショーとして自殺させられたり自分の脚を料理して食べさせられたりはしていないのかもしれなかった。
「わたしたちは死んだ。あんたに殺され続けた。わたしたちはもうどこにもいない。あんたが探しているってことは、あんたは
「違う。マルグリット、おまえは」
「僕はマルグリットじゃない。
知ってるか、
「これまで二十七人捕まえた。どれも
「そう」
「おまえがオリジナルだよ、私には分かる、髪を切っても、身体を切り開かなくても」
「違うね」
僕は
僕はにせもので、
僕はジークリット・シュレーディンガーだ。
そう告げると、キトリは何か妙に愕然としたような表情になった。
もういい、と手振りで告げると、取り囲んでいた捜査官たちがキトリを連行する。
その間にもキトリは、何度も振り返る。執着した人間の顔で。醜い感情を晒して。
おまえがオリジナルだよ、どんなに別人に擬態しても、おまえがマルグリットだ、と
そうして、
僕はそれを眺めながら、早くヴィゴにくっつきたい、とぼんやり思う。
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