海の記憶は虚空の彼方に
暖かな海の中を時間も変化もなく
固い面に身体が押し付けられている。いたい。ひらたい。はだざむい。かわいている。くちとはながいきをする。はいがくうきでふくらむ。それら様々な感覚入力が同時に意識を満たそうとするが、わたしの中にはそうした入力とは別の初期思考も走り始める。
なにがおきた。
わたしはどうしたらいい。
わたしはだれ。
ぐぎゅ、ぐぎゅ、と耳の奥で音がする。否、これは動作時の
奔流のように
ほんの数秒の間だけ存在した『空白のわたし』はそれで永遠に消え失せ、わたしは『設定されたわたし』になる。
そして、空白のときの記憶は読み出し回路から切り離される。その記憶は不自然だからだ。
これ以降、わたしが暖かな無の海や初期的な戸惑いを思い出すことはない。
* * *
雨の駅前通りに出るのにフードをかぶるところだった。そこでわたしは
随分前に買った、ブランド名も覚えていないコート。かなり着倒して最近撥水が弱くなっている。でも、大した距離じゃない。走っていけば大丈夫だろう。わたしは足が速い。
とにかく、ジークにこの依頼を届ける。危険な仕事ばかりするから、あいつの個人探偵事務所はいつも不安定だ。仕事を振っているのは
ジークがこの依頼またはわたしに逆上することが必要だ。わたしの今回起動はそのためのシーケンス。
雨の中に駆け出す。コートに当たる雨粒、鼻腔に流れ込む湿気、雨と土の匂い。雨の夜、知識セットと少し違う。わたしは知識のほうを現実に合わせ、修正ヴァージョンを作る。これで異常なし。水の膜を次々と踏む感覚、失敗した、単靴は水が入る、でも雨はそういうもの、異常なし。
周りをよく見て、赤信号でも道路を渡ってしまう。雨だから。停まりたくないから。角を曲がり、道を渡り、やがて事務所のある建物が見えてくる。信号のすぐそばの窓がジークの事務所。また、明かりがついていない。夜目がきくジークは大概そうして暗い部屋のなかで何か読んでいる。記憶した通り、異常なし。
以上の処理は常にわたしの意識の奥底で走っていて、わたし自身に認識されることはない。
建物の入り口でコートを脱ぎ、雨水を払う。階段を上がる。廊下を進み、前世紀の古めかしい呼び鈴を押さずにドアを開ける、静かに。覚えている通りの位置に手を伸ばして照明をつけ、数歩進んで開けっ放しのドアを通り、わたし――俺――ヴィゴ・ザハールカとして存在すべきわたしは言葉を発する。
「よくこんな薄暗さで本が読めるな」
呆れ声にジークは視線も寄越さない、異常なし。
そして二分十八秒後と二分二十一秒後に被弾。
複数箇所に重大損傷。盲管射創と判定。
両下肢・肝臓動作不良。
門脈・腹大動脈損傷による維持液
「どうして」
人格セット出力の継続を優先。
「どうして、撃った……」
維持液漏出性ショック。
動作限界カウントダウン開始。六十秒。
敵性行動感知。
「やめろ、――ジーク、やめろ」
回避可能性
「ジーク。どうして」
生体脳酸素供給低下。
「いたい! ……やめてくれ、」
頬骨接合不良、定位異常、左眼球運動機能に干渉、視界異常。
体幹痙攣発生。
損傷拡大、体性モニタ一部不良。
左眼窩領域の骨格欠損を感知。
維持液限界量ロスト。
自律神経系統に動作不良。
動作限界まで十五秒。
「ジーク……」
動作限界まで十秒。
体性感覚処理に修復不可能な異常。
人工雑音フィルタ停止。
動眼筋群損傷、眼球定位異常。
動作限界まで六秒。
視神経束に異物接触。
ぐぎゅ、ぐぎゅ、と耳の奥で音がする。
これはわたしの音。
わたしが動いている音。
わたしがコピーされている。
なにがおきている。
わたしはどうしたらいい。
わたしはだれだ。
わたしは何を思い出す。
ジークを連れて行けない。
わたしは海に戻れない。
海?
暖かい海とは、
なに
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ALL-DOWN
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