偽装人形の眠り

鍋島小骨

ねじれた依頼は雨の夜に

 分身ドッペルゲンガーを見ることは死の予兆であると古くから言われてきた。恐らく因果は逆転している。そもそも死期の近かった者が自らの姿を見たと言い残してまもなく死ぬ、などという話がまずあり、『死ぬ前に見た』が転じて『見ると死ぬ』になったのではないか。

 ところで、人間は鏡の中に鏡像じぶんを見ると死ぬだろうか? もちろん死ぬ。全ての人間は、個体としては、必ず死ぬからだ。

 与太話はともかく、分身ドッペルゲンガーが存在することによって何が困るか、考えてみよう。本物の意志に反して勝手に誰かと結婚したり、強盗をはたらいたり、借金をしたりされたら、それは困るだろう。


 だが、本物がどこにもいなくなれば、分身が本物になる。




  *  *  *




 信号の光が青から黄色に変わると、その薄黄色でぼんやりと室内が照らされた。雨だ。窓は外の信号と同じ高さにある。窓硝子がらすは上から下へランダムに動く美しい模様を作りながら街の光を透過する。


「よくこんな薄暗さで本が読めるな」


 呆れ声を乗せて足音が近づいてくる。そうなることは知っていた。玄関の照明がついた音、ドアノブが静かに回される音、廊下を歩く軽い足音、階段を登ってくる足音、建物入り口でコートを脱いで雨滴を払った音、そこまで雨の道を走ってきたことも、僕には全部聴こえている。


「もう夜遅いぞ」


「お前が言うか? 二十三時が遅いって? 日が暮れてから起きるくせに」


「一般的に遅いと言ってる。何か持ってきたな」


「地獄耳。依頼だよ、ほら」


 彼が差し出した封筒には写真数葉と調査書のようなものが入っていた。

 失踪者はマルグリット・ザンデルリング、二十七才。高校卒業後は実家に住み、六年前に失踪。警察は家出人として受け付けはしたが、事件性については懐疑的。その後手掛かりなし。このたび母親が捜索を依頼。なお、これまで数社に依頼するもマルグリットを発見できず。その他資料。


けたのか」


「少しは楽な仕事もした方がいいだろ。人探しなら俺が手伝ったっていいんだし」


「あんたがねえ。まあこの人なら探すまでもないよ。


 は、と彼は言いながら向かいのソファに座り、「知ってる奴か?」と聞いた。


 知っている。故郷を離れこの大都会に出てきて、幾つかの職を渡り歩いたことも。たとえば、裏通りのバーの雑用係、メール配達員、等々。


「なんだ、知り合いなら教えろよ」


「教えてもいいよ。代わりに僕にも教えて」


 なんだよ、と彼は笑う。見慣れた顔と、見慣れた髪型、見慣れた仕草と喋り方。よく似ている。

 でも、なんだよな。

 僕は写真をテーブルに置きながら言う。


「ヴィゴ・ザハールカの姿をした君は誰だ?」


 彼は僕を見て、そして、「何言ってんだ?」と困ったように笑う。

 よくできているところもあるから、燃えるように腹が立つ。




  *  *  *




 ヴィゴは僕の毛布だ。

 ふざけてると思われるかもしれないが、これは文字通りの意味で、ヴィゴは世界で唯一、不眠症の僕を寝かしつけることができる。

 社会的には軍人上がりの捜査官で、子持ちのバツイチで、男で、恐らくめちゃくちゃな趣味をした変な奴だ。

 今、目の前で死んでいこうとしている『ヴィゴの姿をした何か』は僕の知るヴィゴではない。あらゆる意味で。

 は今、僕の目の前で、両脚と腹の銃創から血を流し、どうして、とうめいている。


「どうしてって」


 僕は銃を内ポケットにしまいながら、無感動に答えた。


「君はヴィゴじゃないし、情報は君の意志とは関係ないやり方でも取れるし、取ったらさっさと行かないといけないから。大体、僕がブチ切れるのはそっちもだろう」


 どうして撃った、とは僕に訴える。

 君が擬態したからだよ。君を寄越した奴が悪い。

 とりあえず、目の前で停止ダウンプロセスに入り始めているに情報を吐かせなければならない。酸素供給量低下による不可逆的・破壊的な完全停止オールダウンを防ぐため頭部の血流を維持しながら切断して液性維持環境に移し各領域をモニタ――なんていうまどろっこしい真似はしない。

 僕は、ソファの上に倒れ込んでまだ何か言おうとしているの血まみれの身体にまたがり、眼の周りを指で押して骨格の感触を確かめる。そうしながら、ベルトにさげていたナイフをさやから抜く。


「やめろ、――ジーク、やめろ」


 僕の手にしたナイフ、僕の動作や声から読み取れる害意、そうしたものからは僕に刺されると判断し、感情的な反応を返す。恐怖。苦痛。哀願。表情で、声で、身体の震えで、僕に『傷付けてはいけない』と思わせようとする。だがそれは僕にとって何の意味もない、空虚な出力だ。


「ジーク。どうして」


 僕はヴィゴにこんな哀れっぽい声を出させたことはない。それをシミュレートして出力されるのがひどく気持ち悪い。作り主を絶対に吊るす。

 きょうこつの上縁に刃先を立てた。赤黒い液体が盛り上がってきて流れ出す。押さえたてのひらの下で顔が歪み唇が動いて、いたい、やめてくれ、と声が漏れ出してくる。顔を押さえる僕の手を掴む、ヴィゴそっくりの大きな両手。とろけるように分厚いナイフの刃先は骨格の表面を探り、すぐにその継ぎ目を捉えた。

 一切の躊躇なく、的確に力を入れて刺し込む。

 ゴキッと肉の下で音が鳴り、が叫ぶ。顔の骨格が形を変えている。

 接合部で割れた骨に皮と肉が引っ張られ、ゴムマスクが取れるみたいに上下のまぶたと眼球の位置がずれて、がれた組織からは赤黒い維持液が流れ出す。

 僕の掌の下、乱れる吐息。撃たれて動かせないはずの身体がびくびくと跳ね、暴れる。


「静かに」


 僕は頬骨のパーツを浮かせて温かいその隙間に指を突っ込み、がんの周りを手早く切り開きながら言った。


「どうせ痛み回路ヴァーチャルペインは積んでないだろ。痛みや恐怖反応の演算で擬態してるだけだ。僕には効かないよ」


 暴れる身体と動く頭を押さえつけながら、じょう顎骨がくこつ前頭骨ぜんとうこつの継ぎ目もさっきと同じようにしてナイフで外し、更に接合部を探して前頭骨の眼窩上縁を構成するパーツを外していく。眼の周りの皮膚も肉ごとぐるりと切り、浮いた隙間にナイフを差し込んで梃子てこの原理で持ち上げ、眼窩前面の構造を引き千切るように丸ごと剥がした。ぶち、ぶち、と組織が剥離する感触が伝わり、温かい肉と脂肪、温かい液体で手がぬるぬるする。

 外装を取り払われた眼窩には、つるりとした眼球がおさまっているのが見えた。黄色っぽい脂肪の残りと赤い維持液にまみれながら、その側面に付着した幾つかの人工筋肉によって震えて動こうとする眼球。虹彩こうさいは焦げ茶色。

 失神しないな、と思う。バグったのかも知れない。


「ジーク……」


 まだそう聞き取れる何らかの発声を試みている。

 僕はあらわになった眼球を素手で掴んで引きずり出す。



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