2-⑫
「ありがとうございました」
係の人のその声に促されるようにして、私たちは観覧車から降りた。さっきまで真っ赤だった夕日も沈み始めたようだ。時計を見ると夕食の時間まであと三十分足らず。そろそろタイムアップ、かな。
「帰ろっか」
「……そうだね」
「えっ?」
歩き始めようとした私の腕をグイッと引っ張ると、死神さんは私の身体を引き寄せた。
「な、何……?」
「黙ってて。舌を噛むよ」
「きゃっ!」
気がつくと私の身体は、死神さんに抱きかかえられるようにして、宙を飛んでいた。
「まっ、えっ……お、落ちる!」
「ちゃんと掴まってるんだよ」
「っ……!」
ギュッと目を瞑ったまま必死に死神さんの首に両手を回すと、私は落とされないようにしがみついた。
「そんなに締め付けたら苦しいよ」
「ご、ごめんなさい!」
死神さんの声に恐る恐る腕の力を緩めて目を開けると……私は死神さんに抱かれて夕焼け空を飛んでいた。
「凄い……綺麗……」
こんなにも綺麗な夕焼けを見たのは、生まれて初めてかもしれない。
心臓が痛いぐらいにドキドキしているのがわかる。でも、このドキドキはきっと空を初めて飛んだからで、別に他意があるわけじゃない。そう、たとえばまるでお姫様抱っこのような状況にドキドキしているとかそういうわけじゃあ……。
誰に言い訳をするでもなく一人ブツブツと言っていると、死神さんはあたりが一望できる大きな木の枝に降り立った。
「――機嫌は直った?」
「え……?」
「さっきは、ごめん」
「あ……。ううん、私の方こそ言いすぎたし」
「いや、僕が悪い。本当は仕事のつもりだったんだけど……。その、僕も今日は楽しくて。ついあんな子どもみたいなことを言ってしまった」
それは、どういう意味だろう……?
後ろを振り返るようにして死神さんを見上げる。顔なんてフードに覆われて見えないのに、夕日に照らされたせいでまるで頬が赤く染まっているかのように見えた。
「だから、その、別に僕とじゃなくても君はきっと楽しかったんだと思うと、少しだけ悔しかったというか……」
「死神さん?」
「なんでもない。ほら、早くしないと夕食に間に合わないよ。急ぐから掴まってて」
「なっ、きゃっ!」
ひょいっと木の枝から飛び降りると、死神さんはスピードを上げながら、病院へと向かって進み始めた。
せっかく死神さんの素の部分に触れられた気がしたのに、このまま帰ってしまうなんて……。私は何か話をしようと、必死に話題を探した。
「ね、ねえ死神さん!」
「なんだい?」
「そ、その……。そ、そうだ。空! 飛べたんだね!」
「え?」
私の言葉に、死神さんは不思議そうな声を上げる。
「こんなことできるなんて知らなかった! 凄いね!」
「君は、今まで僕がどうやって病室まで来ていると思ってたのさ」
「あっ……」
たしかに、そうだ。四階にある病室の窓からいつも入ってきているわけだから、空を飛べなきゃ来られるわけがない。そんな当たり前の事に気付かなかったなんて……。
思わず黙り込んでしまった私に「でも」と死神さんは続けた。
「実は空を飛ぶの、怖いんだ」
「嘘……」
死神さんの声のトーンがあまりにも真面目で、私は吹き出してしまう。
「笑うなよ」
拗ねたように言う死神さんは、まるで普通の人間のようで。おかしくなって私はもう一度笑った。
「ほら、笑ってないで。そろそろ着くよ」
その声に、視線を前に向けると見慣れた病院がすぐそこにあった。
病室に直接行くのかと思いきや、中に看護師さんがいたら困るから、と死神さんは屋上に着地した。
「ありがとう」
「どういたしまして。もう他に思い残すことは……いや、やり残したことはない?」
「ない! 今日はとっても楽しかった!」
最初は怖かったけれど、空を飛ぶのってとっても気持ちいい! こんなに楽しいのが怖いだなんて、死神さんって変わってる。
ん? でも、あれ?
「そういえば、さっき観覧車乗ってたじゃない。あれは大丈夫なの?」
高所恐怖症であれば、観覧車もダメなのでは?
ふと疑問に思ったことを尋ねてみると、頭を掻きながら死神さんは言った。
「ああいう何かの中に入ってる分には大丈夫なんだけど、自分自身が飛んでいるあの感覚にはどうも慣れなくて……」
「そういうものなの?」
なんだかよくわからないけれど、その苦手なことを私のためにしてくれた、ということが嬉しくて思わず頬が緩む。
そんな私に死神さんは「それじゃあ早く病室に戻るんだよ」なんてそっけなく言うと、夕焼け空の中へと消えていった。
死神さんの背中を見送り、私はこっそりとエレベーターを降りる。幸い、病室には誰もいなくて特に騒ぎにもなっていないようだったからなんとかバレずに戻ってくることができたようだ。
「ふう……」
いつも通りのパジャマに着替えると、私はベッドにもぐり込んだ。それと同時にドアをコンコンとノックする音が聞こえた。
「はーい」
「晩ご飯の時間よ」
「ありがとうございます」
身体を起こしてご飯を食べようとする私を、牧田さんがジッと見ているのに気づいた。
「あの……?」
「身体は大丈夫?」
「え……?」
「無茶するのもいいけど、何かあった時に困るのは
「ご、ごめんなさい」
どうやら、牧田さんにはしっかりとバレていたようだ。
懇々とお説教をされたあと、牧田さんは困ったように微笑みながら私に尋ねた。
「楽しかった?」
「楽しかった! あのね、私あんなに楽しい世界があっただなんて知らなかった!」
「そっかぁ。それは、もう牧田さん怒れないや。――それじゃあ、食べ終わったぐらいにまた来るね」
牧田さんは優しく、でもどこか悲しげに微笑むと病室を出ていった。
一人になった私は、夕日が沈みきって真っ暗になった外を見た。
さっきまであちら側にいたのがまるで嘘のように、病室の中からは風の匂いも空気の冷たさも、何も感じることができなかった。それでも、いつもみたいに空虚な気持ちになることはなかった。それはきっと、あの暗闇の向こうに、さっきまで私がいたあの楽しい世界があることを知ったから。
そんなふうに思えるようになったのは、死神さんのおかげだ。
「ありがとう」
届かないお礼の言葉を呟くと、私は冷め始めた夕食に手を伸ばした。
優しい死神は、君のための嘘をつく 望月くらげ/ビーズログ文庫 @bslog
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