海の近くの駅

宇津喜 十一

海の近くの駅

 駅のホームのベンチに座っていた。

 細い木の板と金属を合わせて作られたベンチは冷たく、凍える体をより冷やした。時折海から吹く風が背中を打ち、私は身を縮こませながら、上着の襟を直した。右腕が疲れたので、隣に持っていた鞄を置いた。

 そして、電車が来るのをずっと待っていた。

 小さなホームである。屋根すらない。駅名の書かれた看板と、私が座る錆びた金属の土台の上に塗装の剥げた木の板が釘で打たれたベンチ。雨風に晒されてうす汚れた自販機がぼんやりと光を放っている。

 振り返れば柵の向こうに広大な海原が広がっている。ごつごつとした岩が連なる磯で、左の方に目線を動かすと、遠くに砂浜があるのが見えた。海は冬の曇り空の下ではどんよりとした濁った色をしていて、綺麗には見えない。岩に裂かれては渦巻く波の泡立つ様が、得体の知れない生き物のように思えた。

 海は駅から10mも離れていない所にある。天気が良ければ、さぞ写真に映えるビュースポットになっただろう。寂れた駅の風貌も、言い方を変えればレトロになる。白いペンキが剥げた小さな木造の駅舎や、今時珍しい切るタイプの紙の切符も、逆に若い人達には真新しく感じるだろう。

 線路は二つ。ホームの真ん中に階段があり、線路に降りて向かいのホームへ渡る造りになっている。向かいのホームの背面は小さな山になっていて、鬱蒼と木々が好き放題に伸びている。季節柄、茶色が多いが、針葉樹だろうか、枝葉に遮られ、森の奥までは見通せない。

 電車はまだ来ない。喉が渇いていた。

 隣に置いた鞄を開き、黒い水筒を取り出した。蓋を開けて、口に含もうとした時、それがもう空になっていることに気が付いた。

 どうにも手持ち無沙汰だ。私は水筒を鞄にしまって、財布を取り出した。

 誰もいないからと鞄をベンチに置いたまま、私は立ち上がり、自販機の前に向かった。汚れていて見えづらいが、殆どの商品が売り切れている。

「ちぇっ、しょうがねぇな。」

 悪態を吐きながら、売れ残った見たことのないメーカーの水を購入することにした。しかし、小銭を入れ、ボタンを押しても、何の反応もない。他の商品のボタンを押しても、変化がない。

 釣り銭を出そうとレバーを下げても、出て来ない。120という赤い表示が変わらず点いている。

 故障しているのだろう。こんな僻地では、管理も杜撰になる。連絡先が書かれた物もなく、怒りの前に疲れが出てしまい、私はその自販機をそのまま放置することにした。

 ベンチに戻ろうとした時、視界の端に奇妙な物が映った。

 何か白っぽい物だ。波打ち際で、浮かんだり沈んだりしている。岩に引っかかっているようだ。

 私は自販機から離れて、それがよく見えるよう、ホームの端に設置された白い金属製の柵から乗り出した。

 目を凝らして見ると、それの一部は人間の腕のように見えた。また、その腕に絡まっているのは、長い髪の毛のようだった。

 見なければ良かった。

 海岸線を辿った先には崖がある。もしかしたら、そこから落ちたのかも知れない。

 確か、自殺の名所と聞いたことがある。こないだも、心中事件があったと新聞に載っていた気がする。不倫をしていた男と愛人の女が身を投げたとか、女が無理矢理男を突き落とした後に自殺したとかなんとか。あまり覚えていないが、つまり、曰く付きの場所なのだ。

 警察に連絡しようと、ベンチに戻り、鞄の中から黒い携帯を取り出した。画面を見ると、圏外とある。

 駅舎の中に電話くらいあるだろうと、中に向かう。この駅は無人駅だ。勝手に駅員室に入ると、その狭い小部屋には無機質な机と椅子、それとよく分からないボタンのついた物があるだけで、電話は何処にも見当たらない。机の引き出しも開けてみたが、紙の束があるだけだった。

 どうしようもなかったので、また電車を待つことにした。

 ベンチへ戻る時に、見たくないのにそれのある方を見てしまった。

 それはすっかり打ち上げられて、硬い岩の上に横たわっていた。髪が長い。白いワンピースを着た女性だった。

 不意に、それが動いた気がした。私は目を凝らした。動かない。見間違えか。と思ったら、それの頭が動いて私を見た。

 目があった途端、体が動かなくなる。

 それの腕がゆっくりもがくように動く。ぶくぶくと膨れて、あらぬ方向に曲がった腕はどうやら、前へ進もうとしているようだった。

 私は動けなかった。目が合っている。肌の表面がピリピリとして、体の芯がジーンと麻痺している。私を見ている。

 壊れた機械のようにそれは少しずつ近付いて来る。顔はずっとこちらに向けられている。

 空洞のような黒い目が私を捉えている。私を見ている。私だけを見ている。

 近付いて来る。それは五分にも一時間にも感じられた。岩肌を過ぎ、アスファルトに変わった辺りで、ホームとの高低差によって見えなくなった。それが見えなくなった途端、金縛りが解けたように私の体は自由を取り戻した。

 息を止めていたみたいだ。荒れた呼吸を繰り返す。一気にドロドロとした汗が吹き出した。逃げようとした。だが、山と海に囲まれた駅に逃げ場はない。

 少しでも離れようと、ホーム中央の階段を降りて、向かいのホームへ走る。山がざわざわとさざめく。

 縋り付くようにホームに辿り着くと、後ろを振り返った。いない、いや、柵に手があった。それは登ろうとしている。

 私はまた、息が止まった。目が合う。

 その時、風を切る音をはためかせて、黒い電車が目の前に滑り込んで来た。それは影を塗りたくったように真っ黒の見たことのない電車だった。

 扉が開いた途端、私は中へと駆け込んだ。中は木造で、ひんやりとしていた。

 きっちりと制服を着た男が、「切符を拝見致します。」と鋏を片手に持ちながら言った。

 私はポケットから取り出した切符を男に渡した。男はそれを見ると、首を振って、私に返して来た。

「残念ながら、お客様、こちらの切符はこの列車にはご利用出来ません。これは向かいのホームに停まる列車にのみご利用出来ます。」

「分かってる。でも、どうにかしてくれ。お金なら払う。早く出してくれ!あれが、あの女が来ちまう。」

 その時、背筋に悪寒が走った。ぞわぞわとしたそれを感じた途端、あれがすぐ後ろにいるのだと分かった。見ている。私をそれは見ている。振り返りたくない。だが、首がゆっくり後ろを向こうと動いている。

「切符を拝見します。」

 男が言った。

「ご利用出来ます。どうぞ、到着までお掛けになってお待ち下さい。」

 パチンと入鋏をすると、それは私の横を通り過ぎて行った。

 私はホームを見ている。そこには何もいない。

「お客様、向かいのホームでお待ち下さい。」

 男が言った。私は「ああ。」と生返事をして、電車を降りた。すぐに扉が閉まり、電車が酷い金切り声のような音を鳴らしながら億劫そうに走り出した。

 私は暫くそこで呆けていた。

 喉が渇いていた。

 右腕が重かった。

 ふらふらと、ホームに降りて、元のベンチに向かった。座って、鞄から水筒を取り出してから、そうだ空だったと思い出した。

 恐る恐る振り返ると、海岸には何もいなかった。ほっと息を吐くと、丁度ホームに電車が到着した。

 扉が開いて乗り込むと、先程の男と似たような男が「切符を拝見します。」と言った。

 私はぶくぶくと膨れて、骨の見えた腕で、切符を差し出した。

 男がパチンと鋏を入れた。

「到着まで、お掛けになってお待ち下さい。」

 男の言う通り、近くの席に座った。他に乗客は乗っていない。口の中が塩辛くて、水が飲みたかった。

 右手に、誰かを突き飛ばした時の重みが残っている。引っ張られた服は伸びて破けている。

 扉が閉まり、電車が動き出す。スピーカーからくぐもったアナウンスが流れた。

「当列車は地獄行きです。安全のため、ご乗車の方は座席にお座りになるか、手すり、つり革にお掴まり下さい。」

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