時をかける忠臣蔵

ドアが開かない

時をかける忠臣蔵

 浅野内匠頭は、吉良上野介からの積み重なる侮辱に耐えかねて、ついに江戸城内の松の廊下で彼に切りかかった。

 この事件はすぐに場内の人間の知るところとなり、浅野は即日切腹を言い渡された。しかしその一方で、その原因を作った張本人である吉良には何のお咎めもなかった。

この処分に不服だったのが、浅野を慕っていた赤穂浪士四十七士である。彼らは主君の無念を晴らすため、ある冬の日に吉良邸へ討ち入りを決行した。


 しかし、その討ち入りの企みは吉良に察知されていた。彼は自らの伝手を総動員して手駒をかき集め、討ち入りを迎え撃った。

 己の忠義を貫く赤穂浪士は、屋敷を奥へ奥へと突き進んで吉良を捜しつつも、予想を遥かに超える数の吉良の手勢によって、一人また一人と仲間を失っていった。

 そして、焼き小屋に隠れていた吉良を見つけるころには、赤穂浪士は大石内蔵助ただ一人となってしまった。

 地面へ無様に尻もちをついた吉良にめがけて、散っていった仲間の仇、そして何より我らが主君の無念を晴らすため、大石は刀を大上段に大きく振りかぶる。

 しかし、吉良は笑っていた。


お前もおれも、仲間が大勢死んだな。


 それがどうした、と訝しがる大石に、吉良はさらに、おかげでやりやすくなったよ、と続けた。そして大石が止めるまもなく、彼は自らの小指にかじりつくと、勢いをつけてそれを噛み切った。

 嫌な予感を覚えた大石が、構えた刀を振り下ろす。しかし、その刃が届くより早く、吉良はその指のかけらを炭焼き小屋の中へと放り投げた。

 それは小屋の床に描かれていた妖しげな模様の真ん中に乗った。模様は一瞬だけ、眠そうにぼんやりと赤く光った。


 次に大石が気が付くと、目の前には吉良も、炭焼き小屋もなかった。

 代わりに、目の前には吉良邸の門があり、散っていったはずの赤穂浪士たちがいた。彼らはみな、大石のことを緊張した面持ちで見つめている。

 大石はめまいを覚えた。なぜならば、つい数時間前に全く同じ光景を目にしていたからだ。

 傍らの一人に、あたかも確認をすると言った風を装って今の時間を問う。すると予想通り、討ち入りの実行時刻と同じ数字が返ってきた。

 ということは、我らは今から討ち入りをするのか。ならば、つい先程まで見ていた光景は夢か、幻か。それにしては、あらゆる感覚が真に迫っていたような。

 何が何だかわからないが、これからやることは変わらない。討ち入りを果たしていないなら、実行するまで。

 ひょっとすると、吉良邸内の勝手が先程と同じであれば、先ほどよりも上手くやれるかもしれない。

 大石はそう思い直すと、やはり先ほどと同じように鬨の声をあげ、勢いよく門内へとなだれ込んだ。

 吉良邸の前庭で、赤穂浪士たちは迎え撃つ吉良の手勢と激しく切り結ぶ。大石が目の前の男の首を跳ね飛ばし、身体を蹴って倒したとき、すぐ横にいた仲間が正面から槍を真っ直ぐに差し込まれた。


――視界のどこかで例の模様が怪しく真っ赤に光ったように感じた。


 そして気が付くと、大石は吉良邸の門の前に立っていた。赤穂浪士たちも、やはり目の前に立っている。

 妙なこともあるものだ、自分は夢中夢を見ていたのか。大石はそう思いかけ、四十七士の様子を見てギョッとした。

 彼らの顔には、先程のような硬い意思を感じさせるような緊張な面持ちは無かった。代わりに、全員の顔に困惑が浮かんでいた。

 ざわつく一同の話をまとめる、彼らはたった今吉良邸に乗り込んだはずなのに門の前に戻ってきてしまった、ということだった。

 さっきのおれと同じだ、大石はそう思った。

 大石の隣で殺された男に至っては、自身が死ぬときの痛みすらも覚えていた。思い出すのもおぞましいほどに不快な感触だと言う。

 何かがおかしい。この場にいる全員がそう感じていた。

 とはいえ、やることは一つである。

 大石は戸惑う四十七士を叱咤し、改めて鬨の声をあげた。

 そして彼らは再度吉良邸へ乗り込み、一斉に切りかかり――

 またしても、門の前へ戻ってきてしまった。

 これを、彼らは三回繰り返した。何度やっても、誰かが死んだ瞬間に門の前まで時間が巻き戻ってしまうのである。ここまで何度も同じことが起きているのだから、夢や幻で済まされないような何かが起きていることを、全員が心のなかに疑念としていだき始めていた。。

 それが何によるものなのかは全く分からない。分かっているのは、吉良邸に討ち入る四十七士のうち誰か一人でも死ねば、討ち入りの直前まで時間が戻ること。そして、戻るまでのことは記憶に残っていること。


 変化が起きたのは、その次に実行した討ち入りのときであった。

 このとき、最初に死んだのは四十七士の中でも一番に若い者だった。

 彼が迂闊にも石段に躓いて地面に転がり、そのうつ伏せになった背中へ真上から刀を突きたてられて断末魔の叫びをあげたとき、赤穂浪士全員の頭に”また戻ってしまう”という想いがよぎった。

 ところが、そうはならなかった。時間は巻き戻らず、戦闘は続いた。

 そして、さほど時間が経たずに別の一人が切られたとき、そこで時間が巻き戻った。

 今のは何だったんだ。やはり戻ってきた門の前で、赤穂浪士たちが顔を見合わせる。

 驚きはまだ続く。

 先程一番先に切られた若衆が、仲間のざわつきを奇妙な顔で聞いていた。

 そして、言った。


 どうしたんですか?


 一同は呆気にとられた。何かあったどころの騒ぎではない、というのは言うまでもないはずだ。この男は、この奇妙な一連の騒動の中で初めて時間が巻き戻らなかった――ということの重大さを分かっていないのか。

 全員から驚きと非難の目で見られ、なおも彼は戸惑い続けた。

 本当になんのことかわからないのか、と大石が問う。彼は小刻みに何度も頷いた。

 それから大石がいくつか質問をした結果、一つの事実が判明した。

 彼は、時間が巻き戻る騒動のことを”知らなかった”。彼は、他の赤穂浪士と一緒に拠点を出発し、吉良邸の前についたばかり、そういう記憶を持っていたのだ。

 それに対して、彼の次に切られた人物は、これまでに何度も討ち入りを繰り返したことをはっきりとおぼえていた。

 時間の巻き戻しと同時に記憶を失うという事例が、この時初めて発生したのだった。


 それはさておき、やることは変わらない。

 彼らは改めて、討ち入りを実施した。やはり邸内の人間を切り殺し、今度は前回と違う赤穂浪士が切られ、そしてまた時間が戻った。

 そして今度は、例の若衆もこのことをしっかりと”忘れていなかった”。

 赤穂浪士たちの間にはいい加減に、何かすさまじい出来事が、単なる悪戯や勘違いでは済まされないような、妖術と呼ぶのがふさわしいようなことに巻き込まれていることが分かってきていた。

 それでも、彼らの中には主君の無念を晴らすという大きな思いが、岩のようにがっしりとそびえたっていた。それほどまでに、彼らの浅野に対する忠義は厚かった。

 したがって、彼らにできるのは時間が巻き戻らないことを祈りつつ、討ち入りを何度も繰り返すことだけだった。

 赤穂浪士はそれを忠実に実行した。

 執念に突き動かされるように吉良邸に押し入り、中の人間を切り殺し、誰かが切られ、そして時間が巻き戻った。

 時間が巻き戻った時、稀に誰かが記憶を失くすことがあった。一人の時もあれば、二人、多い時は五人というときもあった。

 さらに討ち入りを繰り返す中で、大石は奇妙なことに気がついた。記憶を失くす人間は毎回同じ人物だった。特に、例の若衆は絶対にその中に含まれていた。

 大石の中に、ある発想が生まれた。さらに討ち入りと巻き戻しを重ねる中でそれはすくすくと育ち、やがて大石はそれが真実としか思えなくなった。

 我慢できなくなった大石は、門の前でそれを仲間へと打ち明けた。

 彼らは半信半疑でそれを聞いていた。

 大石の話は、普段であればまともに信じられないような、酔漢の与太話ですらもう少し真実味のあることを言えるだろうと思えるような、そういったものであった。

 しかし、彼らは他に考えも思いつかなかった。

 そして、大石の考えを共有した上でさらに三回の討ち入りを繰り返してから、赤穂浪士たちはどうやらそれが真実らしいと結論づけた。

 大石の考えは二つだった。

 まず、赤穂浪士の中で”殺されるべき順番”というものが存在すること。それにしたがって殺されるうちは何も起きないが、その順番から外れて誰かが死んだ瞬間に時間の巻き戻しが発生する。

 次に、時間の巻き戻しが起きた時、その順番にのっとって死んでいた者は記憶を失うこと。そうでない者は(順番から外れて死んだ者も含めて)、その回の討ち入りの記憶が残る。

 当然、全く信じられないことではある。

 信じたくもない。

 なにしろ、時間の巻き戻しを起こさずに討ち入りを果たすためには、赤穂浪士が正しい順番で死んでいく必要があるのだ。しかも、それが赤穂浪士全員に波及している、つまり全員死ぬまで時間が巻き戻り続ける可能性もあった。

 大石には、これが吉良の仕業であると確信する理由があった。

 もう遠い昔の話に思えるが、最初の討ち入りで吉良を追い詰めた時、彼は確かに何か妖しげなことを行っていたのだ。あのとき吉良が指を噛みちぎって小屋の中の紋様へ投げた時に、第一回の巻き戻しが発生した。この一連の怪事件の原因としては、最も怪しいのがそれだった。

 大石の頭に、恐ろしい想像が浮かんだ。

 もしかして、最初の討ち入りで死んだ順番を遵守しなければいけないのかもしれない。

 迂闊にも大石が漏らしたそのつぶやきは赤穂浪士の間を瞬時に駆け巡り、彼らを絶望のどん底へと突き落とした。

 彼らは全部で四十七名。正しい順序を総当たりで探すには、全部で10の59乗以上のパターンを試す必要があった。

 間違ったパターンを引けば、彼らには自分が死んだときの感触が残る。それはこの世に存在するどんなものよりもおぞましいものだ。皮膚と肉の神経がまとめて切断される痛み、内臓に白刃がずるりと入り込む異物感と冷感、そして魂が肉体から引き剥がされる喪失感。

 これを、本来なら人生でたった一度しか感じないようなものを感じる体験を、死ぬ度に繰り返すのだ。もちろん、運良く自分以外の死によって時間の巻き戻しが起きればこれを感じずに済むし、自分が大石の言う“順序”に則って死んだら記憶を失うことだってできる。

 しかし、大勢の刺客が手ぐすねを引いて待ち構える吉良邸に自ら乗り込んでは殺し合うということを何十回と繰り返す中で、一度も自らの死を迎えないというのは不可能な話であった。四十七士を率いる大石はおそらくその中で最も剣の腕が立つ男であったが、彼ですらもここまでに少なくとも三回は斬り殺されていた。

 自死だけではない。殺しの感触ですらも、彼らの精神を蝕む大きな要素だった。それが刀を持つものの宿命と生業であるとはいえ、人を切るということが心になんの影響ももたらさないはずがなかった。それを何度も行うのだから、彼らの手には人を切った感触が、もはや生来の感覚のように染み付いていた。

 それをこれから、気の遠くなるほどに繰り返す。それも、一度のミスも許されず、決まった順番で死を迎えるようにしながら。

 すべてを成し遂げるまでに気が狂ってしまうことのほうが、遥かに可能性としては高いだろう。

 では、討ち入りを諦めるのか。

 それはありえない選択肢だった。それどころか、こんな事態に陥っているにも関わらず、そもそも四十七士の頭にその選択肢は存在しなかった。

 それは浅野への忠誠心に由来するものではあったが、今やすっかり形の違うものであった。幾度となく繰り返される殺しと死の体験が積み重なった結果、当初彼らが持っていたはずの仁義だとか忠義だとか、そういったものからくる吉良に対する敵意は醜い変貌を遂げていたのだ。

 言ってしまえば、彼らを動かすのは吉良に対する恨みだった。地獄より辛い思いをする羽目になった(おそらく)下手人であるはずの吉良に対する復讐心。自らの生死をぐちゃぐちゃにもてあそばれたこと、主君への忠義を良い様に利用されたことへの怒り。

 しかし、このまま討ち入りを繰り返すのでは、ただ生死を再度ひとめぐりするだけである。正解となるパターンを引き当てるというのが流石に現実的ではないことくらい、疲れ切った四十七士にも分かっていた。

 かといって討ち入りを取りやめる気はさらさら無い。

 はて、どうしたものか――


 ここで、一人の浪士が声をあげた。

 誰かが死んで時間が巻き戻るなら、誰も死ななければ良い。一人の死者も出ないうちに吉良を捕らえて呪術を解かせれば良い。


 それを聞いた浪士たちは思わず息を漏らし、ウンウンと頷いた。

 なるほど、たしかにそれはそうだ。理屈は間違ってはいない。

 問題は、そんなことが可能なのかどうかである。我らよりも数の多い手勢に対して、一人の死者も出さずに首領を捕まえられるものだろうか。ここまで何度も討ち入りをしておきながら毎回時間が巻き戻るのは、その度に誰かが死んでいるからだ。

 しかし、それがこの場で考えられる最も現実的な方策であるのも確かだった。

 つまり、実行する他に道はなかった。

 こうして何度目か分からない討ち入りが実施された。ただし、今度の目的は人殺しではない。生存である。


 そして、懸念は杞憂に終わった。

 なにしろ、赤穂浪士は吉良邸に数えきれないほどに何度も押し入っているのだ。屋敷の構造、敵の数、強さ、配置。これらを、赤穂浪士の全員が文字通り死んで覚えていた。

 そして、これまでの討ち入りはすべて屋敷の中の人間をすべて切り殺してでも吉良を見つけ出す、そんな心構えで行われたものだった。だからこそ迎撃に出てきた吉良の手勢へ真正面から戦闘を挑んでいたのだし、自ら戦いを仕掛けていたのだから返り討ちにされて死ぬ確率が高くなるのも当然だった。

 しかし、今回初めて“生き残る”ということを最優先にした結果、炭焼き小屋の前にあっさりと全員が無事に終結できてしまった。


 炭焼き小屋から引きずり出されてもなお、吉良の顔には嫌らしい笑いが残っていた。


 ここでおれを殺したって、また”戻る”だけだぞ。時間が戻るたびにそれを数えていたが、もう百回は越えているはずだ。そろそろ諦めたらどうだ。


 その言葉を聞いた大石は、自分たちの立てた仮説が真実であったこと、そして例の死ぬ順番に関する規約には吉良も含まれていることを察した。

 おそらく、四十七士が全員死んだ後で吉良が死ぬ必要があるのだろう。

 と、一人の浪士が吉良の胸倉をつかんで引き寄せた。

 彼は不敵に笑った。


 そうか。それなら、殺さなければいいわけだな。殺すことにはもう慣れた。殺さないことくらい朝飯前だ。


 周りの浪士が吉良を縛って担ぎ上げたとき、吉良はこれから自分の身に待つ運命にようやく気付いた。慌てて吉良は妖術の解法を提案するが、もはや誰も聞く耳は持たなかった。

 そんなことよりも、溜まりに溜まった恨みを晴らすことのほうが重要であるに決まっていたのだ。


 それからわずか半日後。

 浅野内匠頭の邸内にて、大部屋の真ん中に一つの肉塊が転がり、その周囲を男たちが取り囲む光景があった。

 言うまでもなくその肉塊とは吉良であり、周りにいるのは赤穂浪士たちである。

 彼らは捕らえた吉良を拷問にかけていた。生爪を剥ぎ、歯を削り落とし、指を折り、その他諸々の口にするのもおぞましいような方法で、彼らは吉良に対する恨みを晴らそうとした。

 要するに、吉良が死んだら時が戻るならば、彼が死なない限りは何も起きないのだ。

 このことを利用して、赤穂浪士は吉良を死ぬ寸前ギリギリのところまで痛めつけることにしていた。考えつく限りのありとあらゆる手管を尽くし、積もり積もったものをすべて吉良に復讐してやるつもりだった。

 しかしながら、彼らは当初の目的である主君の無念を果たし終えたとは言えないだろう。なぜならば、吉良は生きているからだ。

 彼らはそれでも良かった。彼らが自らに受けた凄惨な仕打ち、浅野が生前に彼から受けた辱め、その報いを彼に生々しく味あわせている。まずは自分たちの恨みを。仇を討つのは、その後でも遅くない。そう思っていた。

 しかし、そんな過酷な運命に吉良が耐えられるはずもなかった。

 赤穂浪士の丹念で思いのこもった拷問によって、たった今、彼はあっけなく息を引き取った。

 そして、彼自身が発動した術の通りに時が巻き戻った。


 今、赤穂浪士たちは吉良邸の門の前に立っている。

 もはや何度目かもわからない光景だったが、彼らは絶望していなかった。むしろ、鬼すらもひるむほどにおどろおどろしく、野蛮で獰猛に笑っていた。

 もう一度、吉良を酷い目にあわせられるのだ。

 野獣のような鬨の声をあげ、彼らは討ち入りを開始した。


(時をかける忠臣蔵 おわり)

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