下
不思議なことに、あれだけ避けていた読書がまたできるようになった。
部屋の隅のダンボールには、大学在学中に買うだけ買って積んでいた本たちが入っていた。かすかにかかった埃を払って表紙を見ると、こんなもの買ったっけ、と首をひねるようなものばかりだったが、もはや私にはなんでもよかった。
こんなことになって、それでもふとした拍子にちらつくのは曲瀬さんの顔だった。ここ二ヶ月近く、まともに顔を合わせて会話をする相手と言ったらあの人くらいだったせいだろう。覚えているはずの他の人間の顔は、ぼんやりと靄がかかって判然としない。両親の顔立ちも忘れかけていた。
曲瀬さん。あの人は、今なにをしているのだろうと、本を読む合間に考えた。時計を見ると、もしやめていなければハンドスピナーを回している頃だ。ハンドスピナーを回す仕事。こうして離れてみると胡散臭さしか感じられない言葉だった。私はいったいなにをやっていたのだろう?
印字された言葉の一音一音を目で追いながら映像を再生していく。疲れたら水を飲んでベランダで煙草を吸った。殺してくれとは思っても死ぬ気にもなれず、現状において世界と一番離れていられるこの部屋で時間を過ごすことを決めた。ほとんど惰性だったが、消えたい割に死にたくないのだからしょうがなかった。
思えばこれまでだって今とそう変わらなかった。友達の家に転がり込んで夜通しゲームをするのも、居酒屋で夜中まで飲むのも、夜に公園で缶蹴りをしたのだって、日々の生活の中で転がり込んでくるたくさんの屈託から目を背けるためのことだった。腐りゆく身体を抱えて茫漠とした時間の中で死を先延ばしにしているに過ぎなかったのだ。楽しかったしあれはあれでよかったのだろうけど、その行動の意味するところを今になって悟るのは、なんとも私らしかった。
ふとした拍子に過去にぶん殴られる。それまで黙っていたくせして、私たちが気を抜くと途端に追い縋ってきては足を掴んでがなり立てる。なにやってもそうだ。なにをしなくてもそうだ。これまでのすべてがこれからのすべてをうちのめそうと現在の陰から様子を伺っている。
そんなふうにして、私は九月の頭をやり過ごしていった。それはそれで、これまでになかった穏やかさだった。うんざりすることもなく、ただじっと時が過ぎるのを待った。解決する日が来るのかもわからないまま、待つ以外の術を私は知らなかったのだ。
曲瀬さんが私の元を訪ねてきたのは、気温がわずかに下がり始めた同月の半ばのことだった。
日が暮れてそろそろ夕飯でも食べようかと思っていたところに、インターホンが鳴った。なにかを注文した記憶はなかったが、念のためと出たら曲瀬さんの顔が映っていた。
私はなにも言わずに玄関のドアを開けた。その先では曲瀬さんが立っていて、手には近所のスーパーの袋が握られていた。
「……お久しぶりです」
「ああ」
意図はわからなかったが、追い返す理由も特になく、私はどうぞと言って彼女を部屋に招き入れた。袋を預かると中には缶のお酒が何本も入っていて、私は彼女の思惑をなんとなく理解した。
ローテーブルを前にして二人で座り込む。曲瀬さんはベッド脇の床に積んである本を一瞥すると、「調子は」と静かに言った。
「よくもないですけど、最悪でもないです」
ただ、外に出るのが怖くなりました。と私は続けた。
「そうか」
彼女はそう呟くように言うと、テーブルの上に並べた缶を一つ手にとって、「少し付き合ってくれ」と言った。
「少しなら」
私はそう言って、ハイボールの缶に手を伸ばす。ほぼ同時にプルタブを開けて、缶をぶつけることなく小さく掲げた。
乾杯。
「曲瀬さんは私を慰めに来たんですか」
空になった缶をにぎにぎしながら私は言った。べこべこと音が鳴り、酩酊してきた脳みそに響く。
ここまでずっと無言だった。「あんたはどれだけ耐えられる?」と曲瀬さんに試されているのではないかと疑いもしたが、馬鹿馬鹿しすぎて考えるのをやめた。どうせ酔ったら関係なくなるのだ。無駄な足掻きはしたくない。
「そう見えるか?」
言いながら、曲瀬さんは手持ちの煙草を指先で揺らした。煙が落ち着きのない軌道を描いて、室内に充満していく。「私がそんな器用なやつに見えるかよ」
「見えませんね」
私は正直に答えた。
「だから、お説教しに来たんだと思います。一人じゃ立てない私を引っ叩きに」
あれだけなんのアプローチもせずにいた人がここになって急に来る理由なんて、それくらいしか思いつかなかった。しびれを切らして、いい加減にしろよとでも言いにきたのだろうか。お説教なんていつ以来だろう。ちょっぴりワクワクしてしまう自分がいるのが本当に最低だった。クソが。
手慰みにしていた缶を脇に置いて新しいのを開けて口をつける。よく見ていながったが、今度はビールだった。美味しさとか、もうよくわからない。
曲瀬さんはじっと私を見つめてから、髪の結び目をいじりながら言った。くすんだ金色がかすかに揺れる。
「まぁ、そんなとこだ。あんなとこであんなこと一人でやってたんじゃ、どうにかなりそうでな」
「……最初は喋りもしなかったくせに」
「やかましいわ」
曲瀬さんはそう言ってから煙草を咥えた。ゆっくりと息を吸い、紫煙とともに吐き出していく。それから話をする準備なのか、缶を傾けて唇を濡らし、再び私のことを見る。
「ねぇ円崎。幸せってなんだろう」
それはいつかの問いかけだった。私たちはその時もこうやって、私の部屋でアルコールと煙に満たされていた。その問い直し。私は馬鹿正直に以前彼女が言っていた言葉を反芻する。
「脳みその働き……。頭蓋骨の中の、電気信号だとか、神経伝達物質だとかの……」
「私が言ったやつだな」
彼女は頷いた。「でも今回はそれじゃない」
「あんたがなにを苦にしたのかとずっと考えてた。それで思い至ったよ。円崎あんた、自分がやっていることが知りもしない赤の他人を傷つけてるんじゃないか、なんて思ったんだろ」
曲瀬さんはじりじりと燃える煙草の先端で、私を指した。図星もいいところだった。
私はその誰かを傷つけている可能性が、本来はもっとぼやけていたはずのものが、特定の形を持って出てくるのを恐れたのだった。海の向こうで起きたことにさえ自分がなんらかの形で関わっているかもしれないということが、ただ、怖かったのだ。
安心した、のだろうか。
いや、きっと酔っていたのだろう。私は自分の奥底から、泥のような言葉が溢れていくのを感じていた。
「誰かの幸福を、私が轢き潰してるんじゃないかって……」
「……ああ」
「わかんなくなっちゃったんです。自分がなにをしてるのか、どうすればいいのか……」
「ああ」
彼女は頷きながら、煙草を灰皿の上に置き、へっ、と鼻を鳴らした。
「ハンドスピナーなんか回してな……。きっと来年の今頃には影も形もないぞ、アレ」
「……まぁ、そうでしょうね」
私は同意して、来年の夏というやつを思い浮かべた。約一年後の私はなにをしているのだろう。世界はどんなふうに、回って、変わっていってしまうのだろう。
私は曲瀬さんが言い当てたことについて、この人は実験の中身に見当がついていたんだろうな、とぼんやり考えた。BE研究。そんなのにしたって、少し調べればすぐにわかることだったし、曲瀬さんのことだ。最初に説明を受けた段階でわかっていたに違いなかった。
煙の流れを見つめていると、かこん、という音を立てて曲瀬さんが缶を置いた。まだ中身が入っているらしく、液体の揺らぐ音がした。
私が口を閉じると、曲瀬さんは立てていた膝を胡座に変えて、それから前置きをするように咳払いをした。
「……先に言っておくが、私も人付き合いはうまくない。こんな性格だし口下手だ。他人に説教できるほど高尚でもなんでもない。ただ、あんたにはなにかしら影響を与えられると自惚れて、私はこれから個人的な考えを垂れ流す」
そして「すべての幸福は、」と曲瀬さんは切り出した。
「すべての幸福は、結果からの逆算に過ぎないと私は思ってる。偶々結果が良かった。そして偶々、原因帰属のできる過去のできごとが、結果を否定することのないものだっただけだ。自分の中で特定可能な因果関係が矛盾を起こした時点で幸福感なんて全部バァだ。この世の幸福人間は選択が正しかったか否かなんて論調で語るべきじゃないんだ。それは単に、何を結果として何を原因とするかという部分で自己矛盾を起こさない考え方を繰り返してきたってだけなんだから。頭がお花畑っていうけどな、それは別に全面的に間違ったことでもないんだよ。
幸福の度合いは線形を描かない。曲がりうねりあっちこっち飛び跳ねて、私たち自身ですら想像もつかないようなグラフを描く。だから、振り返りも予測も無意味なんだ。私たちに確かに存在するのは、現在でしかありえない。他の人間がどう思うかは知らない。けれど少なくとも、私はそう考えてる」
だから、あんたは大丈夫だ。
そう、彼女は言った。だから、他人の幸福がどうだなんてことは、心を砕くに値しないのだと。
私は水分を追加して、「なるほど」と呟いた。曲瀬さんは数秒間を置いてから、
「今日はもう喋ると決めてきた。それでだが、もう一つある」
「もう一つ?」
「くだらん問題だ。賞金は期待するなよ」
私が頷くと、彼女は天井の明かりに目を細めて話し始めた。
「一つ、質問をしよう。
例えば、とある家庭があったとする。主人公はその家庭の子供だ。その家では子供が生まれた直後から母親は浮気を繰り返して家にいない。父親は仕事人間で家にいない。祖父母のところに預けられて幼少期を過ごして、中学の時には両親が離婚した。母親に引き取られても結局何も変わらず子供はグレて色々やった。色々っていうのは色々だ。細かいところはどうでもいい。そんでまあ色々の中で怪我したり傷を負ったりして散々な目にあった。最低だな。で、世の中にはもっと最低で最悪なことはごまんとあるよな。
じゃあ聞くけど、その子供がそんなんになった原因はなんだ? なんのせいなんだ?」
「それは……」
言葉に詰まる。きっと短絡的に、これ、と言っていいものではないのだろう。たくさんのことが複雑に絡み合って、解けなくなった結果がその状態なのだとすると、私はどう答えればいい?
悩んでいると、彼女は苦笑して「そんなに複雑に考えなくていい」と言って、想像の遥か向こう側からボールを投げつけてきた。
「単純だ。ビッグバンのせいだ」
「はっ……?」
アルコールの沁みた頭がぐるぐるした。唖然とする私を放置して、曲瀬さんは言う。
「ビッグバンが起きて宇宙が生まれた。私たちは結局、それを起点にした時間軸の延長上に存在する“なにか”でしかない。人間社会のルールがなにをどう罰するかはまた別の話として、すべてはそこだ。そこなんだよ、円崎」
物事の因果関係の話を……、しているらしかった。
すべて、宇宙が始まったせい。なにもかも、どんな幸も不幸も、すべてがその爆発のせいだという。
確かに、そんなふうに言えなくもないだろう。ビッグバンが起こるのと起こらないのとではすべての結果が違うのだろう。仮にちょっとタイミングがずれたり規模が違っていたりしたら、私たちはいなかったかもしれないし地球も月もなかったかもしれない。そう捉えることはできる。でもそれを、現実に適応するっていうのか。
その考えが随分な暴論であるというのは私でも理解できる。何を言ってるんだこいつはと頭の片隅の冷静な部分が囁いている。本当になにを言ってるんだ、この人は。
「……竜巻は?」
「ビッグバンだ」
「人が死ぬのは?」
「ビッグバンだ」
「私が生きてるのは?」
「ビッグバンだな」
彼女の返答はよどみなく滑らかだ。あまりにもスムーズに言うものだから適当なこと言ってんじゃないかとつい思ってしまう。ぐらぐらする脳みそが必死に「本当にそうか?」と疑問符を連射して、なんかおかしいだろ、と喚いている。
うんうん唸りながら短くなった煙草を灰皿に擦り付けて、けれど、と、不意に思う。
この人がこんなことを言っているのは、私がどうかしていたからじゃないのか。
自分でもわけがわからないまま、くだらないことで悩んでる私を引き上げに来たんじゃないのか、曲瀬さんは。
普段は地球の裏側で誰が死のうが構いもしないくせに、ちょっとでも自分が関わってる可能性が浮上したら冷や汗かいて許してくださいと懇願してる、この浅ましい私を。
曲瀬さんは孤独でいられる人だ。なのに、私なんかのために自分の内面を一部だって明かそうとしてくれるのは、どうしてなのだろう。
曲瀬さんはぽつぽつと言葉をこぼす。私も曲瀬さんも、完全に酔っ払って、もうおおよそのことはどうでもよくなっていたのだと思う。
だって、曲瀬さんに言わせてみれば、私がハンドスピナーを回そうがどこで竜巻が起きようが人が傷ついて死んでいこうが、すべては原因と結果をどこに置くかだし、すべてはビッグバンのせいなのだ。
「どうせ辛い。どうせ苦しい時は苦しいんだよ。何度だってやってらんねぇって匙もなにも投げたくなる。これまでも、これからもだ。私たちは私たちの幸福を予測できない。どんな風に生きてたって、知らず知らずのうちに遠くの誰かを痛めつけてしまう可能性はあるだろうが……」
私はうんうん頷いて曲瀬さんを見た。彼女も私の目を見て、視線が絡む。
結局、この手の届かない場所のことはどうしようもなく、諦めるしかないのだ。よかれと思ったって合理性を根拠にしたって、私たちには先の先の広がりを予測できない。始点と定めた場所と時間から遠ざかれば遠ざかるほど、あっちに跳ねてこっちに跳ねて、転がって落ちて舞い上がって、うんざりするくらいたくさんの影響を受けて結末は羽ばたいていってしまう。終わりは更新され続けて、私たちが果てるまで尽きることはなく。
この手を離れた時点で操作性は失われている。だからこんな言葉が吐瀉物のようにぶちまけられるのだ。
こんなはずじゃなかった。こんなことになるとは思わなかった、と。
「どんな努力も無意味だと思っているさ。でも求めてしまうもんだろ。理想とか、憧れとかがある限りは。どんだけ自己矛盾したって、それはそれなんだよ。そんなふうにな、人が形作るグラフは見た目に美しくないかもしれない。でも別にいいんだ。私たちのしょうもない価値判断も努力だって、そんな泥臭いもんが綺麗な線形になってしまったら、私たちはどこに行けばいいんだ」
人間なんだぞ、こっちは。曲瀬さんは怒ったようにそう言って、「考えてることと理想が矛盾してんだ。最悪だ。クソだ」ぐびり、と缶を傾けた。
曲瀬さんの血が巡りその頬は紅潮して、クールな瞳もヤンキーっぽい色の髪も全部が溶けあって見える。なるほどこれが曲瀬さんなのだと彼女の総体を知った気になった勢いのままに、かねてより思っていたことを伝えようと意気込んで、下ごしらえにお酒を注入した。ぐびぐび。「私はですねぇっ」かこーん。
「私は、曲瀬さんのそういうとこ、ちょうかっこいいと思ってますよ」
「……前頭葉腐ってんのか」
褒めたのに酷い言い様であった。けど慌てたように新しく煙草を取り出す仕草に、私は照れを見出している。
あまり私を舐めるな。ぶっちゃけ二ヶ月ほどあなたのことばっか見てたんだから。他に見るものも見たいものもなかったというのはあるにしても。
それはたぶん、仲間意識だとか、親愛の情だとか、憧れだとか、そういうふうに表現してもいいものなのだろう。優しくて強くてかっこよくて、私にないものを持っている人、曲瀬さん。
惹かれているのだ、どうしようもなく。“好き”という言葉の広大なスペクトラムのどこに点をうつべきなのかは、わからないけれど。それでも、こんなに優しくされたらどうあれ好きになってしまう可能性は無限大なので、私はきっと悪くない。ということにしておく。
好奇心で盗み聞きなんてしなければ、曲瀬さんは今隣にいなかった。
一緒にお酒を飲まなければ、彼女の意外な一面を知ることもなかった。
話しかけられなかったら、親しくなることもなかったかもしれない。
ハンドスピナーを回さなければ、互いを知ることもなかったはずだ。
曲瀬さんの髪が黒かったら。私が就活をして成功していたら。私が煙草を吸わなかったら。私が生まれなければ。曲瀬さんが存在しなければ。分子の動きが、少しだって違っていたら。
“今ここ”という一つの結果の原因を、私はどこに帰属させようか。
「ビッグバン万歳! ビッグバン万歳!」
うぇはははと笑いながら急に叫び出した私を、曲瀬さんがぎょっとして見つめている。「さぁ曲瀬さんも一緒に!」
ビッグバン万歳! ビッグバン万歳!
壁ドンされたが構わなかった。申し訳ないとは思うがそれもビッグバンの果てなのだ。どうか寛大な心でもって宇宙の摂理を許してやって欲しいと思う。今度菓子折りでも持って謝罪に行こう。
ビッグバンが起きて私は曲瀬さんを好きになるし、どこぞで蝶が羽ばたけば海の向こうで竜巻が起こるし、ハンドスピナーを回したって竜巻が起こるのだ。世界はカオスに満ち満ちて、私たちもまたその一部だ。ハンドスピナーの回転で世界を破壊できる可能性だってきっとあるだろう。無限回の試行の中で、いつかはそんな馬鹿げたことへとつながるかもしれない。もちろん、そんなのは思考の上での戯れにすぎないのだけれど。
どうせ痛みがあるのなら、曲瀬さんのようにそいつらと付き合っていきたい。完全に諦めて放り出すでもなく、無意味な盲信とも離れた場所で、泥濘に足を突っ込みながら歯を食いしばって耐えるのがいい。
しょせん、人間が抵抗できるのなんてそのくらいしかないのだから、私は私の脳みそでぶん殴っていけばいいのだ。外がどうだろうが頭の中がハッピーならそれは幸せというものだろう。幸福は、私の中にこそある。
「ねぇ曲瀬さん、これって幸せですかね?」
それはそれとして、曲瀬さんの意見は気になるところだった。擦り寄って問いかけると、すっかり呆れた表情の彼女は深くため息を吐いた。「……さぁな」
「あんた次第だろ」
曲瀬さんが朗らかに笑う。
ありがとうございます、と私は言った。
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