日々の中心はハンドスピナーを手にしている三時間になった。

 私にとって重要なことはその時間でなにを考えるかになり、いかにして曲瀬さんと言葉をかわすかということになった。開始から五日、私はまだ話しかけることができずにいる。

 しゃーっ、しゃーっ、ぶぃーん。

 ハンドスピナーを回す時の音だけが室内に響く。私は時に曲瀬さんが一度に起こす回転よりも多くのものをと躍起になってみたりして、ふん、ふん、と鼻を鳴らしながら指で弾いた。ハンドスピナーで私と勝負! 私の回転数についてこれるかなッ? みたいなナレーションを内心で入れたりもしたが曲瀬さんは気にもとめない。こんなことにそこまで集中できるなんてことあるのだろうかと思う。ノルマはないと言われているのに、私たちはなにをしているのだろう。

「いやいや」

 よくない。そういう考えは毒だし沼だ。やめよう。別のことを考えよう。

 頭を振ってハンドスピナーを回す。しゃーっ、しゃーっ、ぶぃーん。

「ねぇ、あんたさ」

「えっ、はいっ?」

 急に話しかけられて心臓が跳ねる。そして声も裏返った。タメ口っ! という驚きもあった。ありえない甲高さで返事をした私を横目で見ながら、曲瀬さんが続ける。

「なんでこれやろうと思ったの」

 初手から随分と直球であった。

「あー、それはー、ですねー」

 自然と敬語になる。そんなに歳が離れてる気もしないけど、いきなりタメ口は私のメンタルがきつかった。

 もごもごと口を開けたり閉じたりしていいよどむ。どう答えるべきなんだろうとしばし悩んで、まぁ隠すようなことでもないとそのままを口にする。

「新しいこと始めたら、何か変わるかと思って」

「ふーん、変わってんな」

 曲瀬さんはそれだけ言うと黙り込んだ。え、終わり? それだけ?

「え、えーと、曲瀬さんは、どう……なんですか?」

 恐る恐る聞き返すと、また横目で私を見てから端的に言った。

「金」

「……あー、なるほどお金」

 それじゃ私はたいそうな変人だろう。だってこれは一応仕事なのだ。短期目標は私もお金だが、この回転の長期目標として変化を標榜するのはなんだか間抜けくさい。全体的に適当感が漂う。

 馬鹿にされている感じではなかった。ただ単にちょっと気になった程度の世間話。気楽な会話という雰囲気。私ももうちょっと話してみてもいいのだろうか。

「あの」

「なに?」

「ご趣味は……」

 手札が最悪過ぎる。

「お見合いか」

 突っ込まれてしまった。会話下手か私は。いや会話下手なんだったな、そういえば。人と話すのも避けていたから忘れかけていた。

 話題話題と手札をめくり続けていると、曲瀬さんが呟くように言った。

「本」

「え?」

「だから、本」

 趣味でしょ、と言われて、答えてくれたのだと理解が追いつく。なんだかよくわからないけれど晴れやかな気持ちになって、私は声を上げた。

「あ、ああ! 初日も本読んでましたよね」

「そうだな」

 曲瀬さんは頷くと、再び沈黙した。

 それから何度か私は話題の提供を試みて、その度に曲瀬さんは短い返答を繰り返した。ほどほどに楽で、ほどほどに刺激的なやりとりが続いた。私が自分でも不思議なくらい饒舌だったのは、一つの部屋で二人だけ、加えて同じ作業をしているということの仲間意識があったからだと思う。振り返るとちょっと恥ずかしい。

 曲瀬さんとのやり取りを、どうしてか楽しいと思った。

 どうしようもなさとはまた違う、心地よい温度だった。真夏の熱気と冷房が混じり合ったのをハンドスピナーがかき回す。社会性と遠くにいていい。真っ当さから離れていていい。世界なんて見ないでもっともっと狭い場所で、もっともっと少ない人数で生きていられる安息があった。不出来な私に求めないでいてくれる。ただ、ハンドスピナーを回すということ以外には。

 しゃーっ、しゃーっ、ぶぃーん。

 晴耕雨読と言うけれど、私たちに限って言えば晴回雨回で天気なんて関係なかった。世間でどんな映画が流行ろうが私たちは相変わらずハンドスピナーを回している。一日三時間、一つの部屋に二人で籠って、延々と回し続けている。

 この手の上で小さな玩具を回転させる度に、漫然と停滞していた日々が、少しずつ回り始めたような気がした。



 実のところ、曲瀬さんはちょっとヤンキーっぽい。ヤンキーって言い方が今時正しいのかは、よくわからないけれど。

 髪色と口調はまぁいいとして、その切れ長の瞳を宿すきりっとした顔立ちがそのイメージを助長させた。近寄りがたい感じ、というか、話しかけちゃいけないかな、と思いそうになる。

 曲瀬さんは読書家で、少なくとも一日に一冊は本を読んでいるようだった。鞄から取り出したものの題名が毎回違う。

 もともと私は読むスピードが遅くて、文学部出のくせして卒業後はほとんど本を読んでいなかった。大学に入るまで、私にとって読書はそれなりに好きだと言えるもののはずだったのに、いつしか本を読むのに疲れるようになってしまって距離を置いたせいだった。色々なことが時間を超えて距離を超えて遠くからやってきては私をうちのめすのにうんざりしてしまったような気がする。自分の弱さだとか無力とかを感じるのに、私は早々に倦んでしまったのだ。

 だからというかなんというか、それを一人でじっと続けられる曲瀬さんのことは密かに尊敬している。私がいようがいまいが無関係に曲瀬さんは孤独でいることができる。それを保って、変わらずに継続していける。

 近寄りがたさはそういうところにも現れているように思う。だから、そんな曲瀬さんを独り占めできてしまっている状況は、妙な喜びを伴って私に響く。

「曲瀬さん」

「なに?」

「今日お昼なに食べました?」

「カルボナーラ」

「いいですね、美味しそう。手作りですか?」

「そう」

「私はかき揚げで天丼を作りました」

「へぇ、いいじゃん」

 そんな短文のキャッチボールを三時間、休憩を挟みながら繰り返すのが一週間ほど続いた。ふとした拍子に不安になって「迷惑じゃないですか」と聞くと、曲瀬さんは決まって「へっ」という感じに鼻で笑ってから「アホか」と言った。合間の沈黙は次第に居心地悪くなくなって、黙っていてもそれでいいような気がするようになった。

 曲瀬さんはあまり多くを語らない。私の質問には答えてくれるけど、私の方も突っ込んだ内容は極力避けている。それはほどよい距離感を維持するためで、私の怯えのせいもあった。

 回り出したものが再び止まってしまう恐怖。前に進んだはずのものが戻ってしまうのではないかという不安。そいつらが胸中で渦を巻いて、私の思考をかき乱していく。

 けれどまぁ、そういう悩みみたいなのを差し引いても現状には満足だった。仕事の始めと終わりには羽田さんが来て「えー、それでは、今日も宜しくお願いします」「えー、本日もお疲れ様でした」の定型文を言っては去っていく。研究所の方から要請されるものもなく、私たちは本当にハンドスピナーを回すだけ。

 一時間二千円が三時間で週六日。週で三万六千。私はこいつを貯めておこうと思った。これまで余裕ぶっこいて貯金なんてしてこなかったが、備えあれば憂いなしという言葉を今更ながら思い出したのだった。何があるかわからない。そんな時にポンと出せるだけの額は貯めておきたいと、ぼんやり考える。

 曲瀬さんとの付き合いの中で、びっくりしたことが一つある。それは、私が初めて曲瀬さんを自宅に招いた時のことだった。

 八月に入ると暑さなんてそうそう和らぐものでもない。昼間は蝉が絶叫し夜もなにかしら虫が鳴いている。

 アメリカで竜巻が起きて死者が出ただとか、どこそこで誰が亡くなっただとか、海の先に遠いところでこんな事件があったというニュースはひっきりなしに流れてきたが、私たちはというと、やはりそういったこととは無縁の生活を送っていた。

 お盆を前にしたその日は、泊まってもいいという前提でお酒を買っていた。注文しておいたピザをぱくつきながら、普段のようにささやかなやりとりをしてお酒を飲んでいた。

「ねぇ円崎。幸せってなんだろう」

「……は?」

 それまでの話題から一気に飛んだことに混乱し、その内容の重さに思考が停止する。幸福……なんだそれ。

「私にはちょっとわかんないですね……」

 そう言ってチューハイの缶を傾け、指に挟んだままの煙草を口に咥える。「なんですかそれ」

 すると曲瀬さんは手で銃の形を作ると、その人差し指をこめかみに向けて、

「幸せってのは、脳みその働きだよ。この頭蓋骨の中で起きてる電気信号と神経伝達物質の賜物。幸せは外にない。私たちの中にしかないんだよ」

 それから「へっ」と鼻を鳴らしてから「私たちの外側はだいたいクソだ」と吐き捨てた。

 酒を飲んだ曲瀬さんはよく喋った。なんなら私よりよく喋った。普段の沈黙を返上するかのように話題が尽きず、不思議なくらい舌が回っていた。

 そして寝る前になって落ち着いてくると、決まって「喋りすぎた」と顔を覆った。私はゴムを外して自由になった曲瀬さんの髪をこっそり弄びながら、この強い人への憧れを密かに募らせた。

 自らを孤独に見つめる時間を積み上げて、その上で考えだとか内面だとかを秘して語らずにいようと努められる強さが曲瀬さんにはあった。言葉の枠、思想の枠というものに脅かされながら、自らはその中に入らずにいようとすること……もちろん実際にどうかはわからない。言葉にならないことを私たちは認識できないし、認識されないものの存在を証明しようという試みは往々にして徒労に終わる。けれど私は、私という色眼鏡を通していることを承知の上で、そんな生き方を回していられる彼女に憧れてしまうのだ。

 強くありたい。叶うなら、この社会、世の中で立ち続けられる強度が、曲瀬さんのような強さが欲しいと思う。

「人による」

 曲瀬さんみたいになるにはどうすればいいかと問いかけると、例のごとく回転を生み出しながら彼女は言った。「私は本だったというだけだ」

「私はなんだと思います?」

 答えを求めたわけじゃなかった。なんとなく、曲瀬さんにはどう見えてるのかと気になったのだった。

「……知るか」

 彼女はそう素っ気なく言うと、「休憩する」と言って立ち上がった。私も立ち上がって彼女に続き、休憩スペースの自販機で炭酸を買う。曲瀬さんも同じものを買って一口飲むと、さっさと元来た道を戻っていった。

「え、早くないですか」

「休むだけならあっちでもできる」

 そう言って私を置いて行ってしまった。確かにおっしゃる通りだけども。親しくなってきてからちょっと冷たさが増した気がする。冷房と同じくらいに。

 まぁいいし別にすぐに行くからと、足を振りながら彼女の足跡を辿った。

 そんな折のことだった。

『羽田さん! 羽田さん! これ見てください!』

 その声に足を止めた。普段は静寂に満ちている研究所で、このレベルの音量を聞くのは珍しい。声の元は“計測室”というプレートのある部屋で、扉がわずかに開いていた。

 好奇心、というやつだった。なにをしているのかわからない状況を打破したいというほどのこともなく、ちょっと面白そうだから覗いてやろうという程度の軽い気持ち。

 だいたいそんな動機がもたらすものにロクなものがないはずなのに、それをあえて無視するとかいう暴挙に出ていたのだった。

「はい、はい、どうしましたか」

「どうもこうも、三日前の竜巻のやつですよ。アメリカの……」

 羽田さんの声に返された言葉に首をかしげる。竜巻の話はニュースで見て知っていた。死傷者が出たとかいう結構でかいやつだったはずだ。

 羽田さんは納得したように、

「ああ、あの……。解析結果が……」

「出ました。七月末……三十一日月曜日の振る舞いが関係している可能性が……」

 解析だの三十一日だのとわからないが降り積もっていく。三十一日、私たちはここに来ていた。羽田さんもいるわけだから、関係というのは私たちのことだろうか。……竜巻と私たちが関係していると、そう言っているのか。

 それによって出た死傷者と私たちが? 冗談だろ。

 そんなわけない、と叫びだしそうになる。断片的な言葉たちの継接ぎが、私の中で歪な意味を持って蠕動する。

 ハンドスピナーを回していた。

 たったそれだけのことが、どうやって人を殺せるっていうんだ。

「どちらの……」

「円崎さんです」

 それを聞いた段階で私は逃げ出すように扉の前から走り去った。まさかそんなわけ。そんなの私の知ったことじゃないし。私は雇われてこんなことをしていただけで私は悪くない。そんなの、知らない。

 頭がぐるぐるする。三十一日、その日のことの結果が三日前に届いたのだとして……私はこれまでに何度アレを回してきた? 一日三時間週六日で四週……約七十二時間。その中でどれだけ回転させた? その一つ一つがなにかしらに影響しているとしたら? 私は……

 私は、どれだけを無自覚に傷つけてきた?

 体当たりをするように部屋に駆け込んだ。「なんだ」と曲瀬さんが目を見開いている。それから「おい、どうした急に」と言って立ち上がるのに構わず、私は自分の椅子に腰を下ろした。

「曲瀬さん」

「……なんだ」

 早まった鼓動を深呼吸で落ち着けてから、私は口を開いて、

「いえ、やっぱりなんでも……」

 躊躇った。さっきの話だと原因は私なのだ。それに曲瀬さんを巻き込む必要は、どこにもないはず。

 ……本当にそうか?

 曲瀬さんだって私と一緒のはずだ。なにかしらあるはずだ。だとすれば、このことは伝えておくべきなんじゃないか。

 ……いや、知らなければあるいはそれでもいいのかもしれない。だって私たちは悪くない。私たちは直接の原因じゃない。だから、

「いやぁあははは、虫がいてつい慌てちゃって」

「はぁ?」

 曲瀬さんが怪訝そうな顔で私を見る。本当かよ、と顔に出ていた。

「ほんとですよほんと! なんかでかかった!」

「あ、そ……」

 へらへらと必死に誤魔化すと、曲瀬さんは興味をなくしたように呟いて他所を向いた。なんとかなったと胸をなでおろす。

 ……もしも。

 もしもこのことを伝えたら、曲瀬さんはここをやめるだろうか。それで私もやめたら、この回転を媒介せずに、私たちは交流していられるだろうか。それぞれに戻っていく日常の中に、お互いの姿はあるのだろうか。

 私はこの状態を維持していけるか。この、回っている感覚を、前進している感覚を、自分一人で維持できる?

 不安になる。あの羽田さんたちの会話が事実だとして、私はそれをどう受け止めればいいのだろう。自分の行動が引き起こした事象から、遠く離れて無視していられるのだろうか。

 すっかり考え込んでしまって、そのあとはうまく話もできなかった。自分がやったこと、やっていることの一つ一つが何かに影響してしまうなんて考えたら……それはきっと全方位を刃の切っ先に覆われているようなものだ。身動き一つ取れなくなってしまいそうだった。

 普段よりゆるやかにハンドスピナーを回す。こんなものが本当に流行っているのかも、狭い世界観ではわかりようもない。

 時折曲瀬さんの視線を感じたが、私はそれに気づかないふりをした。


 そこから三日は耐えることができた。

 けれど四日目になって、驚くほどあっさりと、私は動けなくなった。

 羽田さんに電話して、体調を崩したので休むという旨を伝えた。羽田さんはいつもの調子で、

『あー、はい。わかりました。どうぞご自愛ください……』

 あまりにも変化がないものだから、スマホを枕元に投げて笑ってしまう。あの竜巻云々の話はなんだったんだ。エイプリルフールは四ヶ月以上前だぞ。

 身体がどうこうというのではなさそうだった。頭が重くてかなわなかった。

 間の三日もずっと考えっぱなしで、自分でアホかと何度も思った。曲瀬さんはそんな私を気遣ってるんだかなんなんだか、すっかり黙って声をかけることもなかった。それはそうだ。最初の一回以降、彼女との会話は私が起点だった。そう考えると、曲瀬さんには何度も鼻で笑われたのに、迷惑だったんじゃないか、彼女の方は私のことなんてどうでもいいんじゃないかという妄想が巡る。日本でハンドスピナーを回してアメリカで竜巻が起こるなら、そういう可能性だって馬鹿にできないじゃないか。なにがどういう過程を経てどういう結果へと繋がるのかなんて予測できるわけがないのだから。

 なにも見たくなかった。なにも知りたくないと思った。電気代も気にせずエアコンをつけたままベッドの上で蹲る。スマホを床に落として、枕に顔を埋めた。

 こんな自分が嫌になる。あんまりにも雑魚だ。これまでぼんやりと生きてきたことのツケがこれだっていうのか。

「……本当に?」

 これが?

 この程度で、済むのか?

 枕に向かって叫び散らす。あー、だとか、うー、だとかに感嘆符を大量につける。しばらく続けていたら、いつも夜にギター鳴らしてくる方の部屋から壁ドンされて「うるせぇ!」と枕を投げつけた。

「人の気も知らないで……」

 こっちはハンドスピナーごときでこの有様なんだぞ。

 そう叫びかけて、尻すぼみになる。……あれ? と思った。

 ハンドスピナーごときであんなことになるなら、これは?

 この、壁の振動は、どうなるんだ。

 息を飲んで硬直する。その時思い浮かんだ言葉は、これに尽きる。

 誰か、いっそ私を殺してくれよ。


 まったくもって、その時の私はどうかしていた。というよりは、実感できずにいた自分の脆弱性が一気に噴出して、私というやつはそれに溺れて酸欠になっていたのだ。なあなあで日々を送ってきたツケと言ったらそれが一番だろう。初めてのことだった。もとよりぐらついていたトランプタワーにうっかり腕をぶつけたような感覚があった。どう対処すればいいのかもわからずに混乱するばかりで、私はしばらくの間部屋に篭り続けた。

 考えずに来たことというのは、一度思考し始めると、指標も途方もなく疲れ果てるまで歩くしかない荒野のようだった。ろくな装備も地図もなく、あてどなく彷徨うだけ。いつか疲れ果ててぶっ倒れるまで、止めることはできなかった。

 災害や事件のニュースに、これまででは考えられないほど敏感になった。報道されるどれもこれもに私が関わっているんじゃないかという妄想が、ずっと回って止まらない。私が世界を壊している……粘つく脳の皮膜の中で、私はそう信じ込んだ。根拠もなにもありはしなかった。過程を一切理解せずに、現実になった結果と妄想の原因を無理やり結びつけては、私のせいだと酸素を求めて喘いでいた。

 見たくないという思いと見なければという思いがせめぎあって、ひたすらに憂鬱な時間が続いた。そして結局竜巻の被害に関する記事を調べて、そこに載っていたニュースの切り抜きを見た私はせり上がる気持ち悪さを飲み下せずにトイレに駆け込んで嘔吐した。「ぶっ、ぅえ」という声が自分のものだと認識するのに数秒かかり、不快な饐えた臭いが一面に広がった。だらしなく垂れた唾液を拭って便器の中身を見つめ、私はそこで、もう無理なのだと理解した。

 こんなはずじゃなかった。

 そんな言葉が、自然と口から漏れていた。

 二〇一七年の夏。私はハンドスピナーを回していた。一時間、二千円で。

 そしてその夏は、ハンドスピナーを回さなくなって終わりを告げた。

 ひぐらしが鳴き始めた頃、私はバイトをやめた。

 電話先の羽田さんの間延びした声が、早まっていく夕暮れの茜に空虚に響く。どんな言葉を返しているのかもわからないまま、電話を切って、腕を垂らした。

 あれから、曲瀬さんとは会っていない。

 回転は止まったのだと、私はベッドに身体を投げた。

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