大学では文学部にいたけれど、半年前に終わったばかりの卒論で何を書いていたのかもよく覚えていない。

 はっきり言って、私の大学生活は悲惨だった。ろくな友達もおらず、付き合った相手とは半年くらいですぐに別れた。ここでいう、ろくな友達がいない、というのは、ろくでもない友達はいたという意味だ。飲酒喫煙ゲーム三昧単位ギリギリ卒業ギリギリ。馬鹿だと思った。ずっと彼ら彼女らと一緒にいたわけではなかったし、成績に関してはある程度を確保し続けていたから、まだそんなふうに一歩引いた場所から考えることができた。アホだな、とも思った。でも、私にはなんだかそんなどうしようもなさが性に合っていて、時々日をまたいで遊んだりしていた。

 楽しいことがなかったわけじゃない。問題だったのは、自分に人付き合いの才とか社会性みたいなものが欠如しているのだと明確にわかってしまったことにある。去年一昨年と、周囲が就活であくせくする頃になっても何もしなかったのはそういうところが大きかった。間抜けと言われても仕方がない。けれど私にとっては死活問題であったし、自分の性質っていうものと正面から向き合おうなんてこれまで思ったこともなかったのだ。戸惑ったし途方にくれた。そして気づいてみれば夏が始まろうとしている。自分でもわけがわからなかった。

 自ら立て、前へ進め。その指標に私は従うことすらできなかった。なにがいけなかったのだろう、なにのせいなのだろう? こんなはずじゃなかったと、一人暮らしのしょぼくれた部屋で煙草の煙に巻かれながら泣いたこともある。煙が目に入ったのかと思ったけれど、ちょっと考えてみれば自分がびっくりするくらい悲しく感じているのだとわかった。自分がどんな感情でいるのかということにさえ私は向き合ってこなかったのかと、半分も残っている吸殻を灰皿に押し付けた。隣の部屋から聞こえて来るベースの音にムカついて枕を投げつけてやった。音は止まなかった。

 そんなわけで、私はぼんやり漫然と梅雨が終わるまでを過ごした。幸い私は一人っ子で実家にも余裕があった。親の脛にかぶりつきながら、周りと比べて私はなんだとわけがわからなくなる。誰のせいだ、親のせいか、それはさすがにおかしいか、と無為な思考ばかりが延々回る。回転し、止まらなかった。私が何をしていようと地球は自転し公転し空に瞬く星々は移ろって、私だけが何も変わらない。雨と湿気と低気圧に包まれながら、私は焦燥を募らせていった。

 織姫と彦星の逢瀬をはくちょうが見つめる頃、食材の買い出しに出たスーパーで笹に括り付けられた短冊を見て、私は働くことを決意した。幼い子供たちがこれだけを願ってなにかをしようというのに、私はいったいなにやってんだ? なにかを始めなければならない。始めればあるいはなにかが変わるかもしれない。

 そういう考え方に至るという点において、私はまだ前向きだった。反復横跳びか蟹かという具合に横歩きのアホさ加減ではあったけれど、私の行動如何が起点となって先を変えられる可能性を考慮できた。私はまだ完全に無気力ではなかったのだ。それがわかると、少し嬉しかった。

 とはいえ、それなりの時間を自分の怠慢で過ごしてきた私だ。まともに働こうなんて思うわけもなく、どうせ働くなら楽をしたいなんて考えが自然と浮かんでくる。おいおい、この期に及んでかよ、という声はごもっともだけど、習慣とか身に染み付いたものっていうのはなかなかすぐには剝がれ落ちない。可能な限り楽をして可能な限りのお金が欲しい。そう思う人は少なくないはずだと思うものの、働きもしてないうちから考えることにしては、いささか腐りすぎていると言えなくもない。

 ともかく、私はだらだらと求人雑誌をめくったりネットで調べたりして自分の要望に合うものがないかと探しまわった。それで、一週間ほどが経過した頃にそれを見つけたのだった。

“経験不要! 今話題のハンドスピナーを回すだけ! 週二日〜。時給二千円”

 自分の目を疑った。馬鹿なんじゃないかなと思った。そんな都合のいい話があってたまるかと考えた。

 翌日、私は面接に向かっていた。

 家から近かったのが悪いと思う。

「あーどうぞどうぞお座りください。お名前はえーと……円崎えんざきさん、ですね」

「あ、そうです……」

 ミスミ研究所、と書かれた建物に入って受付で名前を言うと、痩せた中年の男がやってきて応接室へと案内された。男は白衣を着ていて、胸元に垂れ下がった名札には羽田はねだと書かれていた。

「ええと、ではまず自己紹介を……。私は本研究所で、円崎さんが応募された研究の主任研究員をしております羽田と申します。あ、これ名刺です……」

「あ、どうも……」

 差し出された名刺を受け取ると、言葉通りに“ミスミ研究所BE研究班主任研究員 羽田はねだ俊郎としろう”と書かれている。BEってなんだ、とは思ったが、ハンドスピナーを回すだけの私に関係があるとも思えなくて黙っていることにした。

 羽田さんは咳払いを一つしてから居住まいを正すと、「えー、それでは面接を始めたいと思います」となんともゆるい調子で言った。

 ハンドスピナーを回すのに面接がいるのかは疑問だが、するからには必要なのだろう。私にはわからないけれど。

 研究内容とかについても説明はあった。ただ、文系極まりなく知見にも乏しい私には果てしなくちんぷんかんぷんで、熱く語る羽田さんを前に意識を別のところに飛ばしていた。

「では後日結果をご報告しますので……」

 電話番号を記入して面接は終わった。羽田さんは次の面接があるので、と言って奥へと消えていった。色々と準備があるのだろう。私はおとなしく研究所を去ることにした。

 入り口のところで一人の女性とすれ違った。髪をくすんだ金色に染めて後頭部で束ね、私服で来てしまった私に対してスーツといういでたちだった。スーツで来るべきだったかもしれないと思って急に不安になるが、私のターンはもう終わってしまってしょうがなかった。

 後方で、「面接に伺ったのですが」と受付で話す声がした。そして小走りの足音を響かせながら、「あー、どうもどうも」と羽田さんがやってきて、奥へと消える。

 現状から逃げ出したい。ただその一心だった。

 照りつける太陽に汗が滲み、半袖のシャツをぱたつかせる。受かってるといいな、と思いながら、食べ損ねた昼食を蕎麦に決めた。


 翌日、羽田さんから電話があって、採用を告げられた。

『では、早速今週から……』

 どうせやることもないため異論はなかった。すでに出遅れまくっている私だったが、それでもスタートは早い方がいいと思った。ハンドスピナーを回す。話題とは言っても私は持っていなかったし興味もなかったけれど、こんな形で触れることになるとは思わなかった。回し方に作法とかあるのだろうか。あいにくとそういうのには疎いので、誰か有識者がいてくれると助かる。

 今度こそスーツで行くべきかとも思ったが、こんな夏日に、しかもハンドスピナーを回すだけの業務にスーツを着ようなんていうのは、滑稽でこそあれ適しているとは思えなかった。私は結局着慣れたズボンにシャツを着て家を出た。

 猛暑が続く。どこへ行っても熱に焼かれて、屋内以外に安息の場所なんてものはないんじゃないかと思える。重苦しくもったりとした空気が、息をするのさえ阻むようだった。

 その点、ミスミ研究所は冷房が効いていていい。ドアをくぐると冷風が顔に当たって心地が良かった。一息ついてから受付に声をかけて、仕事場へと案内してもらう。

 どうぞ、と言われて入った場所は長方形の空間で、中心部に会議で使うような机と椅子が並べてある。壁にはなにやらゴテゴテと色んな機械が張り巡らされていて、監視カメラのようなものもあった。どういう職場だよという感想が漏れでそうになるのを堪える。研究所というのだから研究をするのだろう。この機械たちはそのための設備。なにもおかしくはない。

 首を巡らせながらひとまず席に着く。指定された時間にはまだ少し早いけど、まさか私だけなんてことはないだろうなと不安が募る。だとすればさすがに寂しさがある。昨日すれ違った人とかが受かっていればいいんだけど。

 貧乏ゆすりをしながら待っていると、ドアが開いて受付の人が顔を出した。そして私を見てから、「どうぞ」と言って道を譲り去っていった。

「あっ」

 噂をすればである。入ってきたのは昨日の人だった。私が軽く会釈をすると相手も本当にわずかに頭を下げる。今日は私服のようで、七分丈のジーンズに白いニットの半袖を着ていた。その人は一つ間を空けて私の横に座った。

 そして沈黙が続く。話すことなんて何もなかった。私は落ち着かなくてあちこちに視線を動かす。例の人は鞄から取り出した本を読み始めていた。余裕を失いつつある私と違って涼しい顔をしている。羨ましいことこの上ない。

 そのまま待っていると羽田さんがやってきて、私たちの正面に立った。「えー、こんにちは。改めて、本研究の主任を務める羽田です。よろしくお願いします。えー、お二人にやっていただきたいことですが……」そして懐からなんの変哲もない黒いハンドスピナーを二つ取り出し、私たちの目の前にそれぞれ置いた。

「えー、ここに市販されている一般的なハンドスピナーを用意しました。円崎さんと曲瀬まがせさんのお二方には、今から三時間ほどこちらを回していただきます。ですが、ずっと回している必要はありません。回転数に関するノルマも特にはありません。水分の摂取や会話、離席などもしていただいて結構です。ただ、就業時間内に本研究所内部から出ることは禁止とさせていただきます。自動販売機などのある休憩スペースなどもありますので、ご自由に活用ください。……えー、なにか質問などございましたら」

 仕事内容についてどうこうはない。それでも聞きたいことがあって、私は控えめに手を挙げた。「円崎さん、ええ、どうぞ」

「あの、この仕事をするのって、私たち二人だけでなんでしょうか」

「そうですね。お恥ずかしながら、応募された方がお二人しかおらず……」

 いやぁ、と羽田さんは苦笑するが、それはそうだろう。こんな怪しげなことに進んで首をつっこもうなんて人は少数派であるはずで、自分がその少数派であることに少し凹む。大丈夫か、この仕事。

「他になければ、そういうことですので、よろしくお願いします。では私はこれで……」

 羽田さんが退出する。私はテーブルに置かれたハンドスピナーを手にとって、軸の部分を親指と人差し指で挟んで回してみる。勢いよくやると、しゃーっ、という音がして、しばらくの間回り続けた。どうやらこれだけでいいらしい。一回転にかかる労力は微々たるものだ。

 もう一人……曲瀬さんも冷めた表情で回し始めた。どれくらいの間回していればいいんだろうと考える。ノルマも何もないと言っていたから、嫌になったら休憩でも挟めばいいかな。

 まぁ、気楽にやってみよう。


 三十分で飽きた。うんざりしたと言ってもいい。

 別に時間を浪費しているわけじゃないだろう。なぜならこれによって、私は一時間に二千円を受け取ることができるのだから。だけど、どうだろう。このなんとも言えない徒労感、虚無感、もっと他に時間の使い道があるだろうというないものねだり。私の胸中は複雑だった。曲瀬さんが無心に回転させ続けるのを尻目に、申し訳ないと思いつつも部屋を後にした。

 休憩スペースと羽田さんは言った。三十分で休憩なんてお笑い種だが、これには気分転換できるものが必要だった。自販機で炭酸を買い、一口飲むと程よい刺激と清涼感が喉を通り過ぎる。ハンドスピナーを回すにあたって、手持ち無沙汰にはならないものの、思考の方が退屈だとわめいてしょうがなかった。なにかぼんやりと考え続けられる話題が必要だと思い、インターネットに頼る。

 悲しいかな、私には自分自身でその手の話を生み出し展開できるほどの教養も素養もなかった。けれど今の時代、そういうトピックを見つけ出すのはSNSのおすすめ欄を浚うだけで事足りる。私みたいな中身のないやつにはちょうどいい。

 目にとまったのは、性格診断とかいうやつだった。自分の性格を分類するとかなんとか。なるほど、この三時間を自分と向き合う時間として繰り返すのはそう悪くないことな気もする。これまでやってこなかったことをやってみるには最適な猶予だ。

 私はスマホをしまうと、ペットボトルを手に部屋へと戻った。曲瀬さんは私をちらっと見たが、すぐに視線を戻した。まだ回している。

 これになんの意味があるのか? なんて考え始めたらキリがないだろう。理由は一つだけでいい。報酬のため、だ。

 ハンドスピナーを回す。地球は自転し公転する。世界も回っている。だいたいのことは回っているのだと思う。たぶん。

 私は私で頭を回してみようと思う。軸が錆び付いていないといいのだけど。


 適度に休憩を挟みつつひとまず乗り切った。問題の退屈もうじうじ考えを巡らせてみることでどうにかできることがわかった。私がどういうやつかとかいうのは際限がなくてムカつくけれど、それだけに時間を潰すには十分だった。

 曲瀬さんは一言も喋ることなく、一時間ごとに席を立って休憩に行った。会話の端緒すら掴めそうもない。こんな状況だから、話でもできれば気が紛れるのだけど。明日は話しかけてみてもいいかもしれない。

「えー、お疲れ様でした。本日はこれで終了です。特にやっていただく必要のあることもありません。帰っていただいて結構ですので……」

 羽田さんはそれだけ言うとドアを開けっ放しにして戻っていった。曲瀬さんはそそくさと荷物をまとめて先に出て行く。最後の最後でこちらを振り返ると、最初と同様の幅で会釈をしてそのまま行ってしまった。

 一人取り残されて、居座る理由もないと私も外に出る。夕方の風は生温さを増して肌をべたつかせた。

 自分の意思で回し始めたことがある。現状を変えたいと踏み出したことがある。

 なにかしら変わっていけばいい。大なり小なり、少なくとも今よりはマシになるように。

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