反響音

宇津喜 十一

成長痛

 空の容器を叩いたような澄んだ音が鳴った。それで初めて、私の意識は私を認識したように思う。

 部屋を見渡すが、音の主は見当たらない。この部屋は立方体のような形をしていて、扉も窓もないから、音が鳴ったならその音の元はここの内にある筈だった。私は立ち上がった。そこで漸く自分が座っていた事に気付く。

 ふらつく体をゆらゆら揺らしながら立ち上がると、天井が近付いた。箱の中のようだと思った。立方体で、窓も扉もない。明かりらしい明かりもないが、不思議と視界に困る事はない。壁自体が発光しているようでもない。自身の影を見遣れば、光は丁度天井の中央辺りにある筈だった。私はなんだか、私にだけ光源が見えていないだけで、実はそこにあるような気がした。

 見えないならそれでもいい。別に見たいとも思わない。

 私はまた座った。座って壁を見ていた。白い壁。そこには汚水か何かをかけたような黒い跡があちこちにあった。綺麗に白が残っている部分の方が少ない。床も一面暗色で、私が座っている所だけ白かった。

 ここから出たらいけないのだな、と何故だか思った。ここから出たら、汚れてしまうから、と思った。

 私は膝を抱えた。頭も埋めて、目を閉じた。縮まって、縮まって、丸くなる。暗い方へ意識を向ける。するとまた、反響音。

 目を開けて、頭を上げた。首を捻る。何もない。逆の方向へ首を捻る。やはり何もない。

 音だけがある。

 音だけが。

 私は立って、膝を伸ばした。腕も伸ばす。体が軋むようだ。ずっと動かしていなかったエンジンをかけるみたいで、少し怖かった。呆気なく壊れてしまいそうで。音を立てて、使い物にならなくなりそうで。

 壁を、私は白だと思った。元は白なのだと。どうしてだろう、壁はこんなにも汚されているのに。どうして白だとわかったのだろう。 灰色だって構いやしないのに。真っ黒なら汚れも目立たないのに。

 きっと私は白だと知っていた。白である筈だと思い込んでいた。

 初めは輝く白だった筈だと。

 そう思うと酷く恋しくなって、枷は壊れ、水が溢れた。それは止めどなく流れ、見れば小さな水溜りが出来上がっていた。そして、私は沈んでいく。




 塩辛い水溜りを潜り抜けて、私はいつかの景色を再び見た。頭を撫でられて、手を取られて、並んで歩いて、私の名前を呼んでいる。あの人が私の名前を呼んでいる。閉じられた世界であの人は繰り返し私の名前を呼ぶ。私はそれに返事をしながらあの人の元へ走って行く。そんな私をあの人は目を細めて見ながら待っている。いつかの公園でのひと時。もう触れられない記憶の欠片。

 私は貴女に触れたかった、もっともっと。

 足りなかったの、欲張りだから。もっと欲しくなるの、貴女の体温が。見て欲しいの。笑って欲しいの。喜んで欲しいの。抱きしめて欲しいの。温めて欲しいの。

 寂しい。

 でも。

 貴女はだあれ。



 水溜りを潜り抜けて、目を開ければ小さな部屋。



 同じ物を探してた。遠くを見つめる貴女の目が何も映さなくなった時、私は川下へと降りて行った。全てが海から生まれて帰るなら、貴女もそこに行く筈だから。そして、新しい貴女が生まれる筈だから。何度だって。

 気付いてた。気付かないふりしてた。

 河原の石を踏みしめて、痛む足にも知らんぷりした。歩けてる、まだ足はくっ付いているから歩ける。まだ、動くから、動かして、辿り着こう。長い長い道程だって、貴女の体温を思えば大したことはないって思えるから。進もう。大丈夫だから。何があったって大丈夫だから。

 どこへ。行くの。

 辿り着いたら、もう一人じゃない。貴女がいる。誰かが、貴女が、いる。いる。絶対。

 誰かが戸を叩いたような気がした。

 この部屋に扉はないのに、戸を叩いている。こんこんと。また、こんこんと。響く。止んで、反響、また、粘って、こんこんと。確かに聞こえた。これは呼鈴代わりなんだ。だから、ほら、もう聞こえない。浮かんだから。




 白い部屋。足元のみずたまりは消えている。

 あしが、傷だらけで、ても、傷だらけで、ひどく痛むことにきづいた。知っている。傷をあらわないと、ばいきんが入ってたいへんなことになること。でも、ここに水はない。

 あしをうかすと、白い床に赤があらたに加わった。まるで、花がさいたようだ。赤い花。きれい。溢れるようにさいていく。どんどんと。滴るようにさいていく。そして、わたしはもどれなくなる。

 薄ぼんやりとしたこの部屋に、この花はあざやかすぎる。いたみはいい。でも、あかはだめだ。しるしになってしまう。しみになったら、たいへんだって。きれいにするのが、たいへんだって。いってた。だれが。だれだろう。もうわすれた。ああ、まだ、まだ、さかないでいて。まだ、ゆられていたいから。

 また、音が鳴った。澄んだ反響音。




 それで、私の意識は私をもう一度自覚した。

 足元の白い部分は赤く染まっている。どこにも白は残っていない。この部屋から白は無くなった。

 赤と汚れだけ。きっと、この赤だって汚れと変わりはしない。

 私は、なんだか未練がなくなって、ここを出てみようと思えた。そして、何にでも成れる気がした。老いた日を置き去りに、ここを捨てて。きっとどこにでもいける。

 だが、四方見渡しても、あるのは壁だけだ。扉も窓もなく、八つの角と十二本の線だけが変化だ。私は一歩踏み出した。ぴしゃんと、粘った水音がした。撥ねた滴が散る。そこを始めとして、黒ずんだ判子を押す。歩いた事を証明する朱印。ぺたぺたと、ひんやりした音がついてくる。一緒に行こう、乞われるまで。ぺたぺた。ぺたぺた。ぺたぺた。ぴた。壁には扉も窓もない。けれど、扉も窓もないからと言って、開かないとは限らない。外に出られるなら、どんな形でも構わない。




 西へ行こう。西へ行って、東に辿り着こう。いつか、海を目指した時のように歩いて行こう。足音とは逸れたけれど、一人じゃないから構わない。貴女がいる。砂利が足裏に刺さる。構わない。汗が流れて、服が張り付く。構わない。いつまでもいつまでも同じ道が続く。構わない。貴女がいるから、一人じゃないから構わない、構わないんだ。

 手を繋いで、歩いている。西へと向かっている。

「ねぇ、いつ着くの。」

「もういなくならないよね。」

「これからはずっと一緒だよね。」

「もうあんなの嫌だからね。」

「ねぇ、こちらを見て。」

「お願い。」

 私は立ち止まった。

 貴女は過ぎて行く。私から離れて行く。いつ手を放したのだろう。いや、きっと、最初から繋いでいなかった。繋がっていられなかった。私なんかじゃ、どうしようもなかった。




 また、部屋の中にいる。部屋の中央に私は立っている。足元には赤い花と砂利。

 とても静かだ。

 ひんやりとしている。


 貴女が台の上に横たわっている。口が開いていて、少しだらしなかった。ここはひんやりとしている。そして、とても静かだ。見覚えのある簡素で清潔そうな部屋。誰かが喋っているのに、その音が聞こえない。脳が音として認識してないみたいだ。

 静か過ぎて、眠くなった。

 椅子に座って、貴女を見ていた目を閉じた。暗い。貴女も同じものを見ているだろう。目を開いていると、貴女と同じものを見られない。どこか遠くを見ていた人だから。私は身長が足りなくて、同じ高さで見る事が敵わなかった。どこからか花の匂いがする。きっと白い花だろう。名前も形も知らない、けどその匂いは白い。




 口付けよう。失くしたものに。捨てたものに。この閉じられた殻の中から逃げ出して、また、探し出して、拾い上げて、そしてきっとまた失う。

 その度に探しに行こう。




 赤い花を踏みつけた。白い花を散らした。水溜りを飛び越えた。壁を擦り抜けた。そして、どこまでも、どこまでも。

 ああ、でも、もう、気付いている。本当の事。世界の仕組み。

 失くしたものは戻らないこと。

 同じものは一つもないこと。

 あなたともうあえないこと。


 時間は巻き戻せない。


 赤い花が咲いた。


 手を伸ばした。天井には届きそうで届かない。灰色の壁はさらに黒くなっている。それは酷く生臭い。吐き気がする。私は耳を澄ました。澄まして、音を待った。けれど、音は鳴らない。唯静寂だけがある。醒めない事実に私は初めて泣いた。

 ずっと白い部屋にいたかった。あなたと一緒にいたかった。全てもう失ってしまって、私が手に入れたのは汚れた部屋と赤い花。ああ、吐き気がする。

 ねえ、きっともう、私は何も食べられないわ、おかあさん。


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