【Epilogue】

-エピローグ-

「……僕は生き方ではなく、死に方を教えてしまった罪に耐えかねて君の前

から姿を消し、鈍色になったブレスレットを外した。ゆかりを裏切って

しまったからね……」

 水樹の表情に影が落ちる。前髪に隠した瞳はそれでもゆかりの背を見つめた。

 長い長い独白の中で再び背で対峙するゆかりは、未だ水樹を見ようとはしない。始りは水樹の失踪だったかもしれない、しかしゆかりも罪を犯してしまった。

 互いにすれ違い、互いに距離を置いた。それは二人の間に軋轢が生まれたわけではない、齟齬があっただけなのだ。

 その距離を埋めようにも、二人はすでにすれ違ったまま……。

 約束のブレスレットはそれぞれの罪に許しを請うように外されている。

 この邂逅を望んだのは、一体誰だったのか。運命を弄ぶのは常に女神の微笑みである。些細なきっかけが水樹をここへ呼び寄せた。

 いや、互いに再会を夢見ていたのは事実。その背中を何かが押しさえすれば良かったのだ。

「僕は祐が苦しみながら生きた3年……それと同じ時間を失意の底で過ごした。ずっと考えていた。本当にこのままで良いのだろうか。死は、僕たちに何を教えてくれたのか。ここで顔を伏せたまま、彼らのことを胸に留めておくことは、やがて忘れるのを待つだけで、時間が解決してくれるだろうという甘えになってしまうのではないかと……」

 忘れてはならない、罪の重さを。

 しかしそれは、時間が癒してくれるという欺瞞からくるものだった。それは何も死から学べていない。かつて誰かが言っていた。

 壊れてしまったものはもう二度と元には戻らない。割れた花瓶を強力なものでつなぎ合わせたとしても、ヒビは隠すことが出来ない。

 それは脆く、すぐに綻びとなって壊れてしまう。彼が生きた日々、彼女たちが懸命に過ごした日々を無かったことになど出来はしないのだから。

 焦燥、水樹はその罪と欺瞞の天秤の中でもがき苦しみ続けた。それが贖罪であるかのように、自らを責めた。しかしその日々は、ある日終わりを迎える。

「……きっかけは、母が通院する総合病院での付き添いだった。前日に交通事故で緊急搬送されてきた中学生の女の子がいたという看護師たちの話し声が聞こえてきたんだ。名前は、石川詩織さん……。今朝方、亡くなったという、話し声がね……」

「え……。水樹は詩織さんを知っていたの?」

 ゆかりは驚いて、水樹に振り向いた。

「いいや、その時はまだ知らなかった。注意深く聞いていたわけではないが、やはり学校の生徒が死亡事故とあっては学校の先生も来るものだ。そこに、君の名前が含まれていたんだよ。ゆかり」

「私の……?」

「僕はゆかりがちゃんと先生になっていたことに安堵するのと同時に、ひょっとしてゆかりの教え子がそのようなことになってしまったのかと心配になったんだ。もともと、小児科の長谷部先生とは面識があってね。病院の終わりに先生を通じて、そのことを聞いてみたんだよ。本当はプライバシーだから話せないことも多かったかもしれないのに、情に厚い先生だったからな。そして……ゆかりと懇意にしていたこと、ゆかりがとてもショックを受けていたこと、色々教えてくれた」

 ゆかりは胸元で手を握り、俯く。

 思案する先には、詩織と美笑が眠る墓石がある。供えられた線香は、もう3分の2が灰と化していた。

「そこからは、ゆっくりと紐解いていくみたいにゆかりまで繋がったよ。中高一貫の大きな学校に着任になったこと。もうすでに担任のクラスがあること。毎日生徒たちと奮闘していたこと……」

 水樹は思い出すように少しの笑みを添えて語った。

「長谷部先生はカウンセリングの資格も持っていてね。僕は諭されてしまった。僕よりも多くの死を目の当たりにしてきたんだ。それも、幼い子たちのね――」


『医者は死と隣り合わせの仕事だが、教師は死と向き合うこともあるだろう。だが、身近な死を経験した者はそう多くはない。生き方と死に方、両方あって初めて人生となる。確かに罪という十字架を背負うのは人間の業の一つだ。しかし、いつかそれが〝心志〟となった時、人は罪を受け入れられると思うよ』

『心志……?』

『その言葉の意味を、探してみてはどうだろうか。もう一度前を向いて。君はもう一度、大切な人に会わなきゃいけないんじゃないかな。それが君の――』


「それから僕は引きこもっていた生活を脱し、塾講師になったよ。僕の

心志を、探す為に……」

 水樹は奏恵を見、微笑んでからゆかりの隣に立った。その足取りに怯えや戸惑いといったものは一切ない。

 かつての矜持たる胸を張った水樹の姿そのものであった。

「奏恵、ありがとう。君が居なかったら僕は、祐の逞しさも、奏恵の健気さも気づくことは出来なかった。死を乗り越えた奏恵の姿を僕はずっと、羨ましく思っていたよ」

「い、いえ……あたしなんか、全然……」

「優也くん、翔くん、突然やってきて色々な話を聞かされて面食らったかもしれない。すまなかった……。ゆかりに罪を背負わせてしまった元凶は僕にある。どうか、許して欲しい」

「いや、水樹さん……でしたっけ。頭を上げてください。俺たちはみんな縁先生のことを恨んでなんかいませんし、むしろここまで追い詰めてしまっていたことを申し訳なく思ってます。詩織も、美笑も、みんな縁先生のことが大好きでした」

「ええ。僕らは美笑ちゃんを救うことが出来ず、自らの十字架に押し潰されそうでした。でも、今日までずっと苦しんできたゆかり先生を責める人はここにはいません。それでも僕らは前を向いて生きていかなきゃいけないって思ってます。だから……」

 優也は一度、言葉を飲み込んで。自分の手首をつかんだ。

「もう一度、外してしまった二人のブレスレットを付けてくれませんか。僕はあのブレスレットを付けていた時のゆかり先生に憧れていましたから」

「……ああ。そうだな。僕たちは罪にまみれてしまった。だが、罪を十字架にして終わらせないためにあの約束は反故にしたくない。……ゆかり、彼女たちの想いを無駄にしてはいけないと思うんだ。僕たちは生きよう。彼女たちが生きていたことを、忘れてはいけない。伝えていくんだ。それは僕たちにしか出来ないことなんだ。今はまだ、その方法は思いついていないけれど、きっと……」

「……本当に、良いの? みんなは私を……許してくれるの?」

 ここにいる誰もが、詩織との約束で死の真相を語らなかったことを責めてはいない。ましてや恨んでなどいない。

 だが、許しを請われて赦せる人間はここにはいない。

 今にも泣きだしそうなゆかりに、どんな言葉を掛ければいいか思案する4人……。

 気が付けば線香は全て灰と化している。誘われるように揺らぐ煙は、石畳のその先へ辿り着き、もう一人の人物へと届いた。


「……もう、悔いるのは辞めましょう。ゆかり先生、あなたはもう十分苦しんだ。詩織も美笑もゆかり先生に感謝していますよ。私には……分かります」

「石川……さん」

 もしも、ゆかりの罪を許せる人間がいるとすればただ一人……。

 詩織と、美笑の母を置いて他にはいまい。今は亡き詩織の鼓動は、彼女の胸の中にある。その彼女が微笑む先には、ゆかりの泣き顔があった。

「皆さん、私の子たちの為に悩んでくれてありがとう。好きでいてくれてありがとう。母親としてこんなに嬉しいことはありません。もしも願えるなら、あの子たちが生きていた証を形として残してくれませんか……? どんな形でも構いません。そうすることで、誰かがせめて、笑ってくれたなら……。あの子たちの笑顔が浮かばれるはずですから……」

 笑うというのは嘲りでも、誹りでも、貶しでもない。

 彼女たちが生きた、残してくれた物語を紐解いたとき、そこには哀しみではなく慈愛に満ちた笑顔であってほしい。

 それが母の願う想いなのだ。可愛い我が子のことを、ここにいる誰もが愛していた。

 そしてここにいる5人にしか語ることは出来ないだろう。

 彼女たちが生きた物語を――。

「……お母さん、僕は彼女たちの物語を舞台にして上演したいと思ってます。舞台の上では、彼女たちは生きているんです。その生きた証を、舞台の上で伝えていきます」

 水樹は決意の眼差しを湛え、自らのすべきことが明確になったことへの返事とした。

「その舞台の主人公は、石川詩織……そして、結城美笑にしてくれませんか。美笑は俺の妹でもあります。脚本は俺も手伝います。あの二人を一番近くで見ていたのは俺ですから」

 翔の言葉には微塵も迷いは無い。かつての後ろめたさや引け目など、とうに克服しているのだ。

 彼にしか語れない言葉、彼が見てきた表情。それはきっと、結城翔の見た物語。

「先輩、水樹さん。その舞台の演者はあたしにやらせてください。昔やった舞台が、ゆかり先輩の失望とか絶望だったって今なら分かるんです。美笑の気持ちとか、詩織さんの気持ちをピアノにして、あたしも二人に寄り添いたい。あたしは美笑の、二人目のお姉ちゃんだから……」

 かつて水樹とゆかりをモデルにした舞台で、失声した彼女の役を経験している奏恵。ゆかりの気持ちは痛いほど分かっているのは奏恵なのだ。

 その舞台で奏恵が輝かない訳が無い。奏恵なりの想いの残し方、形ある想いの残し方は舞台の上だと悟ったのだった。

「僕は……。僕の見てきた世界はとても狭いかもしれないけれど、小説にして書いてみようと思います。文字にして丁寧に丁寧に身体に沁み込むように、物語として形に残します。僕たちは罪に気づきました。彼女たちが命を賭して教えてくれたことを忘れないように。ゆかり先生、その時はブレスレットを付けて一緒に話を書きましょう」

 優也は詩織と直接の接点はない。しかし一番遠いからこそ、俯瞰できる想いにも気づけるというものだ。

 その時、ブレスレットをしていた頃のゆかりが居れば、詩織のこともきっと補完できるだろう。

「ゆかり……。僕の舞台にも、物語にも君の曲が必要なんだ。それは、君にしか書けない曲さ。改めて言わせてほしい、あのブレスレットをもう一度付けて欲しい。僕はずっとゆかりを待っているから」

「私に……書けるかな……。あの子たちが喜んでくれる曲……」

「書けるさ! 詩織さんも、それを望んでいるはず。何気ない日常の優しさも、見落としてしまった小さな過ちも、気づけなかった手の平にあった幸せも……。この物語に触れてくれた人が、せめて笑ってくれたなら……。それはきっと、僕たちが生きた証にもなるさ。もしかしたら、涙するかもしれない。憤るかもしれない。見限るかもしれない。でも、それでいい。僕たちはみな、罪を犯してしまったのだから」

「ええ……。でも大事なのは……忘れないこと。ずっと誰かのことを

想いやる時間を大切にしましょう。その時の表情いろは、きっとしあわせなものになるはずだから。……そうですよね、お母さん……」

「……はい……」

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せめて、笑ってくれたなら。 吉田優蘭(ユーラ) @yuura6284

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