水樹編

 僕はずっと語りかけていた。

 若輩の身でありながら、いつしか彼の母足ろうとしていたのかもしれない。

 祐……。幼いころに母を亡くして以来、父子家庭で育った年の近い従弟だった。

 僕はまだ中学生だったけれど、初めて会った時の彼はまだ小学生だった。祐はもともと明るい方ではなかったけれど、大人しくて母親の後ろに隠れて僕を盗み見ているような子だった。

 何度か会話をするくらいだったけれど、言葉はハッキリしていたし僕のことを認識して話をしてくれる。しっかりと相手の目を見て話せる、そういう印象だった。

 僕は高校生になり、彼は中学生に上がる前くらいに母親は病床に伏した。まもなくこの世を去る。

 葬儀の日、久々に再開した祐は僕の目を捉えてはいなかった。

 肩は下がり、灰色になった瞳の奥は、とても生気が感じられる姿ではない。だから僕は、彼の腕を掴んでカラオケボックスに連れて行った。

 祐が知っている曲、知らない曲、気になった曲、勝手に僕が選んだ曲、全部歌ってやった。

 祐は声を出さずに泣いた。真っ赤になった目を何度もこすりながら、嗚咽も漏らさず静かに涙を流していた。泣きたいときは泣けばいい、苦しいなら苦しいと言えばいい。

 だが、そうと言えない人はたくさんいる。それは内側の問題だ。

 だからそうと言えない人に、言って楽になることもある、なんて言葉は響かないことが多いのもそのせいだ。

 それなら、僕が言えばいいだけの話。僕は歌うのが得意だし、誰かを慰めるのに自分の中に言葉が無いのなら、誰かの言葉を借りて伝えればいい。

 そんな歌詞を拾って、祐にぶつけるだけぶつけたのだ。どう受け取ってくれたかは、祐の表情を見れば間違ってはいなかったのだろうと思うことが出来た。


 同時期、高校でも似たようなことがあった。

 彼女はゆかりと名乗った。大人しくて、悲観的で、物事をネガティブに捉えやすい。

 それでも彼女の内に秘める一つの想いに僕はある時気が付いた。

 教室の机、最初は指先で何かをつついているのかと思った。実際には触れていないけれど、それはとてもリズミカルに動き、白くてしなやかな細い指は美しく血色の良い爪はきれいに整えられている。

 彼女はそう、ピアノを弾いていたのだ。ただそれは無意識で、窓の外をぼーっと見上げながら彼方に想いを馳せている。

 片手で本を読んでいる時も、もう片方の手は絶えずリズムを刻んでいる。

 ゆかりの頭の中には、たくさんのピアノのメロディが流れているに違いない。

 本を読みながらメロディを頭に流す、それはどんなに素晴らしい世界だろう。

「……君はひょっとして、ピアノが好き?」

「え? あ……っと、ピアノはもう……辞めたから」

 その答えだけで、色々と腑に落ちることがある。ピアノが大好きだということは肯定している。しかし、何らかの事情があって今は弾けない。もしくは弾くことを諦めている。

 どんな事情があるにせよ、僕はそんな彼女に興味を持った。

 ゆかりはどんな風にピアノを弾くのだろう、どんな曲を知っているだろう、その時の表情は?

 どんどん彼女の内側にある魅力に、気づくことが出来た。

 それはもう恋に近かった。祐と少し似ていると思ったけれど、ゆかりのことはもっと知りたい。

 その日から、僕はゆかりにアプローチするようになる。とはいっても、それは愛の囁きではない。もっと顔を上げて欲しいと思ったからだ。

 その端正で美しい顔立ちは、下を向くには陰が多すぎる。直球でピアノを弾いて欲しいといっても、はぐらかされることもしばしばだったが、その頃には……ゆかりがどうして悲観的なのか、ピアノを弾きたくないのではなく弾きたいけど弾けない……精神的な事情があるのではないかと感じていた。

 ゆかりと言葉を重ねる度に、時々落ちる陰。そして僕は知った。ゆかりの幼い日の傷を。親しくなればなるほど、相手の内面が見えてくるものだ。

 ゆかりも祐と同じ、内側に事情を抱えている人だったのだ。

 だから僕は、ゆかりにピアノを軽率にせがむことを辞める。その代わりに……未来を見て欲しかった。今は確かに弾けないかもしれない、苦しいかもしれない。

 その苦しさを僕も背負いたい。そしていつか、乗り越える日を一緒に迎えたい。ゆかりがかつてのように一心にピアノを楽しんでいる姿を、僕に見せて欲しいから。

 その信愛の証として、プレゼントを贈った。パワーストーンに願掛けをして、ゆかりの名前に魂が宿るように。

 もちろんこれも受け売りだ。僕の言葉はよく芝居じみているといわれるが、それは間違っていない。

 人生に脚色を、規範に彩りを。それが僕の内側にある原点だから。


 あれから祐は、少しずつ前を向いてくれるようになった。

 中学では、髪の長い綺麗な子がいると話してくれることがあったので、彼にも恋心のようなものが芽生えたような気がして、親鳥のように嬉しく感じたものだ。

 ……しかしそれは、表向きのこと。従弟とはいえ、毎日顔を合わせているわけではない。祐は母親がすでに他界していることを、クラスの子になじられているという噂を親づてに知った。

 狭い学校でのことだ。クラスで広まれば学年に広まり、幾ばくも無く学校全体に知れ渡るだろう。子供社会は、小さな綻びが傷口だとも知らず広げることを無邪気に行う。その罪は、幼さゆえに……。

 そんな中学校生活を、どんな思いで彼は過ごしていたのだろう。

 髪の長い彼女が、唯一の心の支えになってくれればいいのだが……。もちろんお父さんも居たが、仕事という枷は祐との時間を奪っていたに違いない。

 僕の前では明るい表情を見せてくれる半面、学校ではどんな状況だったのかは想像の域を出ない。

 僕は大学に入り、ゆかりとキャンパスは離れてしまったけれど友好的な関係は続けていた。同じくして祐も高校に入り、新しい生活をスタートさせた。

 中学から高校へ、この時にはそれぞれに学校を選ぶ為、同じ中学の子が一人もいないということも珍しくない。過去は過去にして、祐自身も再出発して欲しい。そう思っていた。


 しかし、そんな矢先だった。高校に進学して1年が経とうとしていた頃。

 祐の様子が気になって遊びに行ったんだ。そこで聞かされた祐の話に、僕は愕然とした。

「……あの子は、自殺しちゃったんだ」

「え……」

「高いビルから身を投げて……即死だったらしい。最後に会ったのは、最近なんだけどね。路地で彼女が気持ち悪そうにしゃがんでいたから声を掛けたんだけど、拒絶されちゃって」

「拒絶? 君たちは同じ中学で面識があったんだろう?」

「うん。卒業してから別の学校だったし、突然だったからすぐには思い出せなかったみたい。あ、でも思い出して追いかけてきてくれたんだけどね。ごめんねって言って、それから……消えちゃった」

「消えた?」

「僕もちょっと思い出せないんだ。そのまま、彼女は亡くなってしまったから」

 祐はすごく気落ちしていた。その子のことが好きだっただろうことは表情を見てすぐに分かる。再会して、何かが始まったのかもしれない。しかしそれも、死という壁が二人を分かつ。もう、どうしようもない。

 新しい恋を見つけて欲しいとも言えず、また強引にカラオケボックスに連れて行ったところで、きっと効果は薄い。

 彼はもう二度も、近しい人の死に触れてしまったのだ。自暴自棄に陥ってしまっても、無理はない。今の僕には祐を励ます術を持っていなかった。


 そして、悪いことというのは立て続けに起こるものだ。

 あれから前よりも短いスパンで、祐に会いに行くようにはしていた。まだ失意の中にいる彼は、高校生活も満足に出来ていないように思う。

 お互いに進級し、何一つ解決できないまま起こったもう一つの悲劇。

 それは……祐のお父さんに、ガンが見つかった。持ってあと3年、それも入院して治療をしながらで、という制限付きだ。

 治療をしなければ、その半分だという……。

 僕は頭を抱えた。どこまでも神様は祐に微笑んではくれない。

 再び祐の目は、灰色になっていた。僕は医者を志してはいない、聖職者だ。だから治療のことはよく分からないし、一般的にガンと言われればそれは死亡宣告と何ら変わりないと思ってしまう。

 治療をしても3年が限界、何もしなかったら1年半……きっと苦痛を伴うのだろう。生き方や、正しい道を教えなければならないのに、今の僕の中にその言葉は無い……。

 僕も舞台のストーリーや、小説の中で余命宣告や薄幸の主人公の話をいくつも見て聞いてきた。それが今、現実に直面している。

 これは空想じゃない、彼の物語だ……。だから、終末医療、ホスピス、緩和ケア……それらの言葉くらいは聞いたことがある。

 多くの終末期患者がいて、その多くが闘病出来るわけじゃない。

 苦痛を強いて助かるかもわからない延命治療に光を見出せない患者だっている。そんなとき、余命幾ばくかの大切な時間を薬で痛みを消し、最後のその瞬間まで家族や大切な人と一緒に過ごしたい……。

 そう思う人も少なからずいるのだ。苦痛に耐える入院生活などではなく、自宅で痛み無く家族と過ごすことを選択する人もいる……。


 僕は調べた。まず、緩和ケアの定義はWHOが定めている。

 1990年では「治癒を目指した治療が有効でなくなった患者に対するケア」としていたが、2002年には修正され「生命を脅かす疾患による問題に直面している患者と、その家族に対するケア」とした。

 もう少し噛み砕いてみると、終末期や早期に関わらず、身体的な苦痛だけでなく精神的なもの、社会的なもの、スピリチュアルなものまでの緩和を目的とし、患者のQOLを尊重し、その人が最期まで人生を生き生きと、出来るだけ活動的に生きる為に支えるのである。

 それは死を早めたり、引き延ばすことを意図せず当人の生命を尊重して死を自然の過程として認めるのだ。これにより、患者が死亡した後も死別ケアが親族の為にも行われ僕たちは自然と死を受け入れ、また元の生活に戻っていく。


 では、ホスピスとの違いはどこにあるのだろうか。これは歴史の歩みにより広義的に捉えられてしまいがちだが、少し前はターミナルケア、という言葉も存在していたようだ。

 緩和ケアは終末期に行われるという誤解が多いが、病気の進行度に関係なくその人の苦痛を和らげることに焦点を当てて行われる為、早期からのケアはされている。

 また「緩和ケア病棟」が存在する為、専用の病棟でのケアと捉えがちだが、それも含まれるし、外来・自宅訪問診療も提供されている。

 一方でホスピスケアは、治癒が望めなくなった時期から終末期に掛けて行われる。そしてこちらのケアは、全人的なケア(その人の身体的・精神的・社会的側面などを総合的に捉えて行われる)である。

 米国ではホスピスというと、在宅ホスピスを指すことが多いらしい。

 つまるところ、この比較は概念的に言葉で比較しやすくしたが、実際には重なる部分があったり統一されていない部分もあるため、あくまで定義的に説明されている。

 必ずしも病棟に入るわけではないし、目的がどちらにあるか誤解が無いようにすれば無理に区別する必要も無いだろう。

 当然、専門病棟に入れば専門的な設備による緩和(ホスピス)ケアになるだろうし、在宅であれば基本的な緩和ケア、在宅ホスピスという呼び方になるだけの話だ。専門的な部分に関してや、具体的にどんなケアがされるかは割愛する。

 僕は祐の気持ちを尊重したかった。母を亡くし、初恋の彼女を亡くし、今はもう最後の肉親さえ亡くそうとしている。

 そんな彼の心には、どんな言葉が届くというのか……。


「……もう、父さんも頑張り過ぎだったんだよ。あんまり苦しくなければいいな」

「ああ……そうだな。祐、緩和ケア……って聞いたことがあるか?」

「緩和ケア?」

「ガン宣告の早期から受けられるんだ。入院をして投薬を続けても、辛い闘病生活になる。それなら、薬を飲むことに変わりはないが自宅で最期まで普通の生活が送れるようにする方法があるんだ」

「……最期まで、苦しまずに生活出来るの?」

「もちろん、僕は医者ではないからそうだと断ずることは出来ない。ただ、一緒に病院まで話を聞きに付き添うことは出来る。僕はもう、祐に――」

「姉さん、ありがとう……。いつもウチのことを気に掛けてくれて。僕は一人っ子だけど、姉さんのことは本当の姉さんだと思ってるよ」

「僕もだ。祐のことを、蔑ろになんて絶対にしない」

「それじゃあ、早速父さんに話してくるよ」

「あ、祐! お父さんの最期まで……一緒に頑張ろう。今度は僕も傍にいるからな」

「……うん。分かった」

 僕は初めて、自分の言葉を繋いだ。何か伝えなきゃと思ったんだ。祐も、そして僕も前を向くためには……。


 それからまた一つ、歳を重ねた。

 祐のお父さんは、薬で痛みを和らげる代償にだんだんと体力の衰えは目に見えて分かるようになってきた気がする。近づいている……そう思った。保険のことや、仕事の引継ぎとかで退社するタイミングを相談しているようだった。

 祐はそんな父の様子を見て、健気に、気丈に振舞っている。最近たまに呟くんだ。高校には、あの子より綺麗な髪をした人はいないと。

 そして灰色の目を空に向けて、溜息一つ。祐は、彼女の面影を今も抱いて生きている。

 祐にとって、あの子の代わりなど存在しないのだろう。それほど、唐突な別れが辛かったに違いない。

 もうあまり時間は残されていないだろう。何かお父さんにも思い出を作ってもらいたい。だから僕は、舞台を作ることにした。脚本の構想はすでにあった。……等身大の僕たち。

 約束をメタファーにして、二人の幼馴染が夢見て、傷つき、成長していく物語。そのモデルは……そう、僕とゆかりだ。

 この物語のように、いつかゆかりがピアノを弾いてくれるということを願掛けしてある。出来ることなら、ゆかりにも見てもらいたい。

 大学3年になれば、教育実習期間がある。これはいい機会だ。会場やキャストの問題は、もしかしたら解決出来るかもしれない。

 演劇部があったら、直談判も辞さないつもりだ。準備期間は短いが、作り上げるにはこのタイミングしかない。

 僕は早速、教育実習に入るまでに脚本を書き上げた。着任先の高校には幸いにして演劇部が存在していた。これは追い風だ。

 すぐに演劇部の顧問の先生と話をして熱意と気合だけで了解をもらうことが出来た。もちろん建前は、課題の成果物を残すという大義名分の為としている。

 教育実習期間は4週間。1か月でキャストを決め、稽古を重ねて、最後に公演をしなければならない。その公演には、祐とお父さん、そしてゆかりを招待しよう。

 演劇部の役者たちはとても良い子たちばかりだった。男女比は4:6でやや女性の方が多い。僕が書いた脚本にも共感してくれて、すぐにキャストオーディションを開催する運びとなる。

 主役である、みきとゆり。その他にも大事な役割を担う登場人物

たちを選ぶ為にも、僕が直接審査委員長になってアサインしていった。

 他の登場人物と、僕の分身であるみきのキャストはすぐに決まった。演劇部の部長は一際異彩を放っていて、自信に満ち満ちた言動は上品さもあり、彼女にしか託せないと思ってしまったほどだ。

 しかし、ゆかりの分身であるゆり役がどうしてもハマる人がいなかった。個が悪いわけではない、味も出せる、存在感もある子は何人かいた。けれど、ゆかりを重ねてみると、どうにもしっくりこない。

 僕は一度、ゆり役だけ保留にして講堂を出た。

 この物語はダブル主演でなくてはならない。しかし、みき役の存在感は申し分ないが、それを殺さずに陰にならない人。

 そして、ゆかりのように一つの強い想いを持っているような人……。

 そんな人が都合よくいるのだろうか。妥協はしたくない……が、お芝居未経験の子でも光るものがあればあるいは……。

 物思いに耽っていると、気づかぬうちに授業教室を離れあまり使われていない空き教室の方へ来ていた。喧噪から逃れ思考するには静けさが必要だ。だから、突然誰もいないはずの教室から声がした時ハッとする。


『……違うッ!!』

 静寂を鋭利な刃物で横凪ぎに引いたかのように通る声。悲痛で、必死な情緒ある言葉。

『あたし……すっごく後悔した。だから変わったの。虐められてた子が自殺しちゃって、どうして何もしてあげなかったんだろうって。……そう、あんたにそっくりな子だった! あたしは見てるだけで何もしなかった。だから、そんな弱い自分とは決別したの!』

 震える声で、それでも必死で何かを掴もうと己と闘った芯の強さが、教室の壁越しでも聞き取ることが出来た。この声は……。

 教室のドアを開けようとしたが逡巡し、まだ開ける時じゃないと自制する。

『嘘じゃない! だから放っておけないの!』

 憚らない慟哭。涙声も、嗚咽も、喉を焼くような熱い吐息も、すべてが美しい。彼女の呼吸一つ一つが、僕の心を鷲掴みにする。

『あたし、何で声をかけなかったんだろうって何度も思った。でも怖くて、勇気がなくて、あたしまで虐められちゃうんじゃないかって思ったの……』

 虐め……? 彼女も内側に傷を負っている……? 傷は一度ひび割れたらもう、戻ることは無い。しかし、この子の慟哭は何かが違う。ひょっとしたら、乗り越えた人……なのか……?

『あたしね、何度も止めに入ろうと思ったんだよ。でも先生も見て見ぬふりだし、男の子も怖いし、女の子たちにはかかわるなって言われてたの。でも、あたし言えば良かったんだよね……。もうそんなこと止めようって。あなたと目が合ったとき、いつも助けてって言われているの、分かってたのに……目を背けちゃってごめんね……』

 悔悟、懺悔、取り返しのつかない罪……。そんな傷を負ってもなお、彼女は何か大切なことを伝えようとしている。

 もう二度と取り返せないと思っていた過ちが、今この瞬間だけは届くと信じているかのように……。

『本当よ! 友達になりたかった、一緒に遊びたかった。でも、もう遅いんだよね。ごめん、ごめんね……』

 へたり込むような衣擦れの音。あとはもう、嗚咽しか聞こえなかった。僕の心はもう決まっていた。

 この教室の主は、ゆかりと同じ、内側に傷をもつ人。声も、存在感も、情緒も申し分なし。

 僕は勢いよく教室のドアを開けて、ゆりの顔はどんなに美しいかを確かめに入った。

 教室の真ん中には、冬空の凍えそうな外気から身を守る子猫の様に自分の肩を抱いた女の子が独り。

 話相手は居ないようだったが、声は彼女のものしか聞こえていなかった。おそらく、お芝居の練習? もしくは僕には見えない誰かと話していた? まあいい。今は早く彼女の顔が見たい。

「…イイ! 舞台の一幕を見ているようだったよ! 君の涙は本物だ!」

 泣き腫らした赤い目を大きく開いて半身、警戒するように僕を見上げる子猫。明るくて艶のある肩まで下ろされたまっすぐな髪。涙で濡れた頬に掛かる横髪は、梳いてあげたくなるような愛おしさがある。

 美しい、髪を短くしたらゆかりにも似ているだろうか。

「せ、先輩……?」

「ああ、すまない。僕は教育実習で来ている身でね。もう少し年上だ。期間が限られているから、どれだけ近づけるかが勝負なんだ。おお! これは演劇部の入部届! やはりこれは運命ということだな!」

 彼女はまだ演劇部ではないということか……。しかし、興味があるなら話は早い。早速演劇部の子たちに所に連れて行こう。

「ひと月しかないが、どうしても作りたい舞台があるんだ。その舞台に……君が欲しい。僕に残された時間はもう、あまり無いんだ。どうか、引き受けて欲しい」

 ポッと顔を蒸気させて、目の赤みは頬にまで広がった。

 戸惑う彼女に僕は多少強引にでも引き受けてもらいたかった。君にしか出来ない役だから。

「え、でも、あたしまだ演劇部じゃ……」

「大丈夫! そこはなんとかするさ! よし、早速提出しに行こう!」

「えぇ!? えー! まだあなたの名前も聞いてないのにー! おっと!」

「ああ、自己紹介がまだだったね。僕の名前は――」

 こうして、僕の舞台に必要なキャスト達が揃った。ここでの奏恵との出会いは運命的だったのを覚えている。

 奏恵はお芝居未経験ながら、持ち前の明るさと人当たりの良さで演劇部の子たちに受け入れられヒロインという立ち位置にもみんなが協力してくれた。

 本番まで毎日稽古を重ねて、どんどん上手になっていく奏恵を見ているのはすごく楽しかった。


 本番を1週間後に控えた週末、稽古の帰りに奏恵を誘って話をした。奏恵とも良い関係が築けてきたと思ったので、あの日のことを聞いておこうと思ったのだ。

「……実は私、クラスメイトを見殺しにしてしまったんです」

「見殺し……?」

「高校に入って同じクラスだった子で、2年になるまでずっといじめを受けていました。それで、いつも彼女と目が合う時助けてって言われているような気がしていたんですけど、あたしはその勇気が無くて……幸枝が自殺するまで、何も出来ませんでした。長い髪がとても綺麗な、女の子でした」

 長い髪の子なんて、いくらでもいる。幸枝という名前だって……。だが、自殺してしまったと言われて思わず聞かずにはいられなかった。

「幸枝……。ひょっとして、祐が言っていた幸枝のことか!?」

「え? 水樹さん、幸枝のこと知ってるんですか!?」

「あ、いや……。僕は直接、幸枝さんとは会ったことはないんだが……」

 祐から聞かされた話や、祐が褒めていた彼女の特徴、そして自殺してしまったこと。それらを丁寧に、奏恵に話した。

「そう、だったんですね……。あたしも祐という子には会ったことは無いんですが、なんとなく分かる気がします。噂ですけど、あの子が長い髪を引っ張られても短くしなかったのは、昔誰かに褒められて嬉しかったからだと誰かが言っていたんです。おそらく、その祐って男の子だったんですよ」

「ああ……。祐の初恋の相手だったんだ。祐は僕の従弟でね、早くに母親を亡くしてずっと目を掛けていたんだんだ。不思議なものだな、幸枝さんを通して僕たちは繋がっていた」


 しかしこの時、僕は気が付いていた。幸枝さんの死が、二人の人生を大きく変えたのは間違いない。ただ、奏恵は罪を受け入れて乗り越えたが……祐は今もまだ乗り越えられていない……。

 二人が出会うことはなかったけれど、大きく道を違えてしまった。奏恵がどのようにして立ち直ることが出来たのか、それを聞くのは無粋だろう。濁りのない綺麗な色の目を見ればそれがその証明なのだから。

 祐の目は、まだ色を失っている。

 僕が出来ることは、必ず舞台を成功させることだ。もう一度、祐に前を向いてほしい。

 世界は彩りのあるものだと思い出して欲しい。乗り越えた奏恵の姿を見て、何かを感じ取って欲しかった。


 それから時間は急速に進み、本番当日を迎えた。

 学校の講堂を満員にすることも出来たし、招待席には祐と祐のお父さん、ゆかり、僕の両親の姿があった。

 舞台は大成功。最後にイレギュラーがあったが、それは主役の彼女がうまくカバーしてくれた。物語が何か説明できない力によって動かされるのを、僕は良しとしている。それが悪意で無ければ、問題ない。

 少しでも、祐と、彼のお父さんが前を向いてくれるきっかけになったのなら本当の意味で僕の舞台は成功といえるだろう。

 奏恵も一生懸命お芝居をしてくれた。難しい役どころではあったけれど、最後のイレギュラーは奏恵の想いの表れだと思っている。

 そうして物語は命が吹き込まれて、僕の小さい頭の中の世界では生まれなかった奇跡が起こる。計算された奇跡は、もはや予定調和でしかない。だから僕は最後、声を失ったはずのゆりが声を出してみきに感謝を伝えたとき、心が震えた。

 二人の息遣いしか聞こえなかった静寂の講堂に、朝陽が差し込むかのような奏恵の声が響いたとき、いつかゆかりがピアノを弾いてくれる未来を夢想した。

 この物語を、ゆかりがどう解釈してくれたかは彼女の胸の中に留めて置いてくれればいい。僕はいつまでも待っているつもりだ。



 そして僕は教育実習期間を終え、大学へと戻る。

 祐のお父さんは、何もしなければ一年半と言われていたけれど、僕の舞台で少し気力を取り戻してくれたのだろうか。

 顔つきは以前よりも穏やかになっていた。ただ、在宅ケアの先生の訪問頻度は多くなっている。穏やかではあるけれど、体力の衰えは著しいと……。

 何回かの相談の後、会社を退職することになった。体力仕事ではなかったとはいえ、ここまで続けてきたことは素直にすごいと思った。

 それからあまり時間を経ずして僕は大学4年に進級し、祐は高校を卒業した。

 お父さんの退職金や、がん保険の診断給付金、緩和療養給付金など様々な方面から保障があり、しばらくはお金のことは気にしなくてもいいらしい。

 祐自身もお父さんの傍に居てあげたいらしく、バイトなどはせず極力家に居たいと希望している。一時期は調子が良く、親子で出掛けることも出来ていたので何の根拠もなくまだ大丈夫……などと思っていた。

 大学4年になり、ゆかりを通じて奏恵が同じ大学に進学してきたことを知った。二人は似た者同士だ、すぐに仲良くなっていた。

 3人で出掛けることもあれば、二人は同じキャンパスなので僕よりも交流機会は多いだろう。その二人の姿は微笑ましくもあった。

 そんな大学生活もあと1年。奏恵が来たことでさらに楽しくなるだろうと思っていた。


 僕たちは、卒業旅行という名目で夏休みに北海道へ旅行の計画を立てた。

 3人とも高校の修学旅行は沖縄に行っていたので満場一致で北海道に決めたのだ。道中は王道で良い。行ってみたい場所はたくさんあったが、旅行本を片手にみんなでここに行きたい、あの場所も見ておきたいと詰め込んだ。スケジュールも、バスの時間も、ホテルの予約も順調に進んだ。あとは夏休みを迎えるのみ。最高の思い出を作ろう、みんなで。

 夏季休暇に入る前に、祐の所に向かった。

 在宅ケアの先生たちも丁度帰っていくのを見かけた。定期訪問なら、また来週にでも様子を見に来るだろう。

「あ、姉さん……。台風が過ぎてから一気に暑くなったね。今日も暑いなぁ」

「そうだな! 室内にいても熱中症には気を付けるんだぞ。水分補給も小まめにな。お父さんの具合はどうだ?」

「……うん。今日はまだ起きてないよ。先生たちも寝かせてあげてってさ。最近の暑さで少し夏バテ気味みたい。来週また診に来てくれるよ。そうそう、この前は初めて一緒にプールに行ったんだけど、歩行用コースで流れに沿って歩くだけなのに僕もそれだけで疲れちゃった」

「ははっ! プールか、最近は全然泳いでなかったな。今度ゆかりたちを誘ってみるか……。そうだ、祐! 実はな――」

 僕はこの夏の旅行のことを祐に話した。少し興奮気味に話す自分を俯瞰してみると、どうやら大分楽しみにしていることが分かる。あの二人と行く旅行なんだ、楽しくない訳が無い。

「何か欲しいものがあればお土産を買ってこよう。祐は何がいい?」

「いいよ姉さん。大事なのは思い出を作ること、そうでしょう?」

「なんだ遠慮しなくても良いんだぞ? まぁそうだな。それじゃあ、3人の思い出話を土産にするよ。行く場所は札幌と小樽と……」

 いつもより饒舌だった。こんなにも旅行が楽しみなのは初めてかもしれない。修学旅行はコースも決められていたし、先生たちの引率があるからやはり完全に自由とはいかない。

 そこへ行くと3人で決めて、3人で行きたい場所にいき、3人だけで自由に動くことが出来る。こんな楽しみなことは無いだろう。

 その日は祐の家で一緒に夕飯を食べて、外が暗くなってから家を出た。

「じゃあ、僕はこれで帰るよ。戸締りはしっかりな」

「あ、姉さん……。ありがとね」

「ん? どうした、改まって。家族なんだ、気にするな。それより、土産話楽しみにしててくれよ? あ、そうそう。突然カニが届いたら、その犯人は僕だ。冷凍庫に入れておいてくれ。帰ったら3人で食べよう」

「……了解。分かった」

「おやすみ、祐」

「家族、だからね……」

「ん?」

「父さんも、きっと楽しみにしてるよ。旅行、楽しんできてね。あ、僕はズワイガニがいいな。でもお父さんは毛ガニが良いっていうかも」

「お、欲張りじゃないか! よし、ズワイか毛ガニかタラバか。はたまた花咲か……楽しみに待っててくれ」

「うん……本当にありがとう、姉さん。おやすみ……」



 旅行当日。僕たちは最高の卒業旅行の為、朝の便で北海道へ出発した。

 奏恵を見ると、つい祐のことを重ねてしまう。前も思ったことだが、幸枝さんの死を乗り越えられた奏恵は、今もこうして笑顔でゆかりと戯れている。

 そこに何があったのかは結局のところ聞いていない。

 祐にも前を向いてほしくて、生きて欲しくて舞台を作った。失意の底から人を引っ張り上げるのは簡単じゃない。でもいつか祐も、奏恵のように笑ってくれる日が来て欲しい。

 ああ、そうか。そういうことか……。僕は一人で、祐を救おうと躍起になっていた。

 迷惑を掛けると思い、自分一人でなんとかしなければならないと思っていた。でも違うんだ。僕には二人も最高の友人がいるじゃないか。

 特に奏恵、君は何度も言うように過去を乗り越えた。幸枝さんを通して僕たちは繋がっていたのだから、祐と一度会ってもらうのはどうだろう。

 確かに面識はないが、奏恵は祐を見て元気づけてくれるかもしれない。

 そして祐は、奏恵の姿を見てもっと明るくなってくれるかもしれない。

 ゆかりも悲観的な内面を克服してくれた。奏恵を目にかけてくれるところを見ると面倒見が良いのが分かる。

 この旅行が終わったら、二人に話してみよう……。

 そう心に決めて、まずはこの旅行を最高のものにして最高のお土産話をもって帰ろう。そして飛行機の中で会話に華を咲かせている二人に僕も参加するのだった。

 3人で決めた道中は本当に楽しかった。

 小樽で欲しかったガラス細工も買えたし、初めてジンギスカンも食べた。独特の香りがすると聞いていたけれど僕はそれほど気にならなかった。

 1日目の宿泊先はペンションだ。ペンションのオーナー夫婦は優しくて、夜ご飯を食べた後色々な話を聞かせてくれた。夏なのに森の中の涼しさは天然のクーラーのように気持ちよく過ごせた。

 二日目は札幌だ。札幌ではグルメツアーの予定である。

 定番なのはラーメンだけれど、出身が札幌の先生の話を聞いたところ、北海道へ行ったら海鮮だ! と言っていたので、海の幸を食べ歩きした。

 市場は朝早くから開いていて、聞くところによると7時からもう開いていたらしい。威勢のいい声が響く中、僕は約束のカニを吟味した。祐が驚く顔を想像しながら決める。

 何が届くかはお楽しみだ。お昼にも海鮮丼を食べて、お腹を膨らませた。あの先生の言っていたことは間違いなかったな。

 札幌の名所を回っていると函館行きのバスの時間が迫っていることに気づき、慌てながら向かった。

 バスにもギリギリ間に合い、ロープウェイに乗って展望台へと向かう。

 函館の三大夜景を見たとき、祐も連れてきてあげたいと思った。日本にはまだまだ僕たちの知らない美しい景色がある。

 夜だけでなく、自然や、空や、田舎の田園風景も、彩りがあって鮮やかなはず……。祐の灰色の瞳は、もっと多くの美しいものに触れなければ色を取り戻すことは出来ないのかもしれない。

 分かったよ……。美しいものを見て、美しいものに触れて、美しくあろう。まずは一つ、この煌びやかな夜景を、今度は祐と見に来よう。

 この旅行は僕にとっても必要なものだった。そう胸に刻んで、展望台を降りた。

 最終日も函館でグルメツアーをしてから、新幹線に乗って地元まで戻ってくる。あっという間に過ぎた卒業旅行だった。明日には早速、祐にお土産話を持っていこう。

 カニはきっともう届いているはずだ。



「……ん?」

 違和感は、すぐに訪れた。締め切られた窓、カーテン、換気扇。なのに、ドアの鍵は開いている不自然。

 僕が借りていた鍵で開錠したはずなのに、手ごたえがない。

 逆に回してしまったのかと改めてみると、ロックが掛かったのだ。

 おかしい……。出掛けている? 鍵を掛けるのを忘れてしまったのか?

 ……違う。僕はドアを開けて靴を脱ぎ、廊下を歩く。

 いつも見ていたリビング、食器の片づけられたキッチン、誰もいない洋間。2階へ上がり、祐の私室へノックをして入った。

「祐……?」

 いない。買い物に行っているのだろうか?

 いや、まだ朝の9時過ぎだ。寝ていないのだすると、こんなに早い時間から外出するとは思えない。

 お父さんの部屋へ向かうと、少し扉が開いていた。ああ、お父さんと話していてそのまま一緒に寝てしまったのか。やれやれ……。

「祐、おは……よ……」

 ベッドには誰も居なかった。ほら、病院なんかで良く見るじゃないか。退院していった人のベッドは綺麗にベッドメイクされて、綺麗なシーツが朝陽に照らされて白いカーテンが窓からのすき間風に揺れているなんて光景……。

 お風呂にでも入っている? いや、誰の気配も無かった。

 たまたまトイレに行っている? いや、水の流れる音なんて聞こえなかった。

 ……水樹、もう気づかないふりをするのはやめろ。さっきから視界の端に映っているそれを、君はもう何か理解しているだろう……。

「祐! どうしたんだ! 祐ッ!」

 駆け寄って、祐の身体を起こす。力の入らない腕、閉じられた目、軽い身体……。嘘、だろ……。なぜ……。

「どう……して……。っ……ぁあ……」

 床に転がる無機質な瓶に、白い固形の錠剤……。

 祐、ダメじゃないか……薬をそんなにたくさん飲んじゃ……。

 カレンダーに記された、×のマーク……。それが、昨日から付いていない……。誰もいない綺麗になったベッド、姿の見えない叔父さん。

 転がる瓶、目を開かない祐……。

「嘘……だったのか……」

 僕は理解した。旅行に出掛ける前、在宅ケアのスタッフたちが丁度帰るところを見かけた。いつも来てる人と、知らない人がいた。

 その日、叔父さんは僕が夜にこの家を出るまで目を覚まさなかった。祐はそれを夏バテだと言っていた。そして来週また診に来てくれると言っていた……。いつものように、定期検診のように……。

 それらが全て嘘で、もう叔父さんは目を覚まさないかもしれないと言われていたなら……。叔父さんはあれからすぐに亡くなったんだ。

 叔父さんが最期の時は、一緒に看取ると決めていたのに……。最期……。最期……?

「ぁ……。ぼ、僕は……」

 僕は初めて、自分の言葉で祐を励ましたつもりだった。でも違う、それは……。叔父さんの最期まで、最期までは……。

 祐は、その時ゴールを、決めていたのだ。叔父さんが最期の時が、全ての終わり。そこまで頑張れば、もう頑張らなくていいよね、と……。

「ぁ……あぁ……。僕はなんて、ことを……」

 祐に生きていて欲しくて、生き方を、前の向き方を教えたつもりでいてその実……。僕は祐に、死に方を教えてしまっていたんだ……なんて、ことをしてしまったんだ……。

 正しい道を教え、未来を見せ、生き方を教えなければならい聖職者を志していながら僕は、祐の未来を閉ざし、殺したのだ……!

「わ……ぁ……。ああぁあぁぁああぁぁあああああ!!!」

 祐は、幸枝さんの死から3年を生きた。そして父親がガンで病床に伏すことで、自分の最期を悟ったのだ。

 もうそれからの日々は灰色で、どんなに励まそうと祐の世界は灰色でしかなかったんだ……。

 母親を亡くし、初恋の人を亡くし、父親を亡くし……彼は3度も死に目に逢ってしまった。なのに、なんて……安らかな顔をしているんだ。

 祐は最期に、何と言っていた……?


『じゃあ、僕はこれで帰るよ。戸締りはしっかりな』

『あ、姉さん……。ありがとね』

『ん? どうした、改まって。家族なんだ、気にするな…』

『……了解。分かった』

『おやすみ、祐』

『家族、だからね……』

『ん?』

『父さんも、きっと楽しみにしてるよ。旅行、楽しんできてね…』

『お、欲張りじゃないか! よし、ズワイか…』

『うん……本当にありがとう、姉さん。おやすみ……』


 「ありがとう、姉さん……」こんな僕に感謝して、自ら命を絶ったのか

……。

 苦しみから解放されたかのような、美しい彩りを取り戻したかのような安らかな表情で眠っている祐。これで、良かったのだろうか……?

 祐は向こうの世界で両親と会い、幸枝さんに再会できたのだろうか……?

 そんな都合のいいように考えるのはよせ。尊厳死は本人の意志であって、残されたものの言い訳にしてはいけない。

 僕は僕の罪を、受け止めなければならない。

 無自覚にも死に方を教えてしまうような人間に、聖職者を志す資格はない……!

 こんな自分はもう、ゆかりと合わせる顔も無し。

 これまでの僕は前向きに生き方を諭していたからこそ、ゆかりとの約束を結べた。しかし今はもうかつての僕ではなく、ゆかりのことを裏切ってしまったも同然なんだ。

 そんな人だとは思わなかったと罵られても仕方がない……。

「……母さん。急にごめん。大学を辞めて、そちらへ帰るよ。……ああ、もちろん理由は帰ってから話すから。ただその前に、しなきゃいけないことがあるからもう少し待ってて欲しい。全部終わったら、ちゃんと全部話すよ……」

 一度電話を切って、部屋を見渡す。殆どのものは片づけられていて、掃除でもしたのかと思うくらいだ。いつのも見慣れた部屋だった。

 お皿も洗ってあったし、洗濯物も残っていなくて、ゴミも全て出してある。

 冷蔵庫だけは電源がついていて、開けてみると冷凍庫には僕が送ったものが入れられている。

 祐は、叔父さんが亡くなり在宅ケアの人たちと弔い、僕から荷物が届くのを待って冷凍庫にいれた。最後の最期まで、律儀に生きていたんだな……。

「……救急です。家に着いたら、弟が倒れていて。おそらく一日は経っていると思います。……はい。住所は………」

 温もりの失せた祐の身体を抱いて救急車を待った。温もりが無いのはもう、魂すらもここには留まっていないのかもしれない。

 聞こえない鼓動はもう、心すらここには置いていかなかったのかもしれない。

 残された肉体という檻は、祐にはもう必要ない物なのだから。


 ほどなくして救急車がやってきた。一緒に救急車に乗って病院まで行ったが、まもなく祐の死亡が確認された……。

 祐の診断を待っている時に、携帯が鳴った。ゆかりからだった。

「……ごめんよ、ゆかり。君を裏切ってしまって……」

 そうして携帯の電源を切った。携帯を両手で包みながら、約束のブレスレットを額に当てて泣いた。

 祐の家のことは、もちろん両親は知っている。僕が頻繁に通っていることも、叔父さんがもう長くは無いことも……。葬儀の段取りとかは父さんがしてくれた。静かに家族葬が行われる運びとなる。


 空が高く、セミが教える暑い夏の出来事だった。

 暦の上では残暑だけれど、ひぐらしが夏の余韻を知らせてくれた。

 葬儀が終わり、大学の退学届けを貰いにキャンパスへ行き、先生と少し話をし、後日郵送することになった。

 借りていたアパートの退居手続きも済ませ、僕は実家へと帰った。

 一般的には夏休みが終わる頃。大学生にとっては夏休みが折り返しになる頃には、ここで生活していた全ての整理が終わっていた。


 見上げた空は、遠く灰色に変わっていた……。

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