【SextionEX】
ゆかり編
私はピアノが好きだった。
クラシックももちろん好きだったけれど、誰かが創作したメロディの方が何よりも私をワクワクさせてくれた。
クラシックの様に理路整然とした美しさはピアノの練習には最適なのだけど、すでに完成されているものという感じがして、私の思考も入る隙間がない。
作られた美しいものをなぞらされているような、そんな感じがしていて、美味しいと評判の料理を食べたら美味しかったと腑に落ちる感じ。
それに関して言えば、相対的に創作曲は粗削りと言えるかもしれない。
ただ、悪く言いたいわけではなくて、未完成のものは思考の余地がある。
私のアイデアを足したらどうなるだろう、ここはこっちのメロディに変えてみたらどうなるだろうと胸を膨らませてくれる楽曲だった。
それが私のソルフェージュ。クラシックには感じられなかったワクワクという楽しさを、創作曲は教えてくれた。
もちろん、創作曲というのは作った人の世界が広がっている。いわば箱なの。その箱の中で、私は両手を広げて飛んでみる。指先に当たる葉っぱだったり、滑らかに流れる水だったり、少し弾力がある土だったり。
その世界で鳴っている音に触れてみると、本当に楽しい冒険をしているかのよう。
だから、指摘みたいな無粋なことはしないけれど、その箱を覗かせてくれてありがとうって気持ちで作曲してくれた人には必ず感想を言うようにしていた。
私の家にはアンティークピアノが一台あった。
漆塗りの光沢は普通の電子ピアノより上品さと高級感を醸し出している。
しかし、母も父もピアノを弾かない。弾いている所を見たことがない。どうして家には立派なピアノがあるのだろうと不思議に思ったことはあったが両親に聞くことは無かった。……好奇心を持つことは罪だから。
でも、ある日の放課後。好奇心に負けて、私はピアノの蓋を開けた。両親が仕事からまだ帰ってこないうちに、どうしても弾いてみたくなったのだ。
悪戯が見つからないかドキドキするように、窓から親が帰ってこないかを確認してから弾いてみた。
もちろん最初は弾くというより、トントンと鍵盤を弾く程度。
知ってる曲といえば、学校で習ったカエルのうたくらい。それでも、私の好奇心に応えてくれる鍵盤のたちが嬉しくて、私の周りではカエルたちが合唱してくれているように見えた。
その日から両親の目を盗んではピアノを触るようになった。
学校で習った曲、テレビで聴いた曲、ラジオから流れるクラシック。そのどれもが私の耳から入って脳を刺激した。
鍵盤ハーモニカで吹いていた感覚とは全然違う、生のピアノの音に私は虜になっていた。気が付けば私は、何度か聞いた曲であれば鍵盤で音を探りながら弾くということまで出来るようになっていた。
だから……。そこまで夢中になっていた私は両親が玄関を開けて帰ってきたことにも気が付くことは出来なかった。
唐突にピアノ部屋の扉が開けられて、飛び上がるほどに驚いて、自分でも焦ってると分かるほど謝罪を並べている。
「ご、ごめんなさい! 勝手に触って、ごめんなさい! もうやめるから!」
「……いや、いい。夕飯が出来たから、居間に降りてきなさい」
「……はい」
拍子抜けしてしまった。怒られるものとばかり思っていた。でも、父は何も言わなかった。
別の日には、母にも見つかってしまったけれど何も言われなかった。私がピアノを弾いていることになど、関心は無いように。
同時に、褒められることもなかった。学校では音楽室で簡単なピアノを弾いて見せると友達は羨望の眼差しで私を見てくれたし、先生もにこやかに褒めてくれた。
しかし、家で弾いても両親は何も言わず、何の興味を示さなかった。だから私は、もう隠れて弾くこともせず、両親がいるときでも素知らぬ顔でピアノを弾き続けた。
中学生に上がった頃。我が家にパソコンが届いた。
初めは興味を持っていなかったけれど、学校で友達に検索の仕方を教えてもらってからというもの世界中の曲を聴くことが出来た。そこで私が興味を引かれたのが、創作曲だ。
クラシックのような様式美は感じられなかった。しかしそれぞれが、形にとらわれない色彩を持っている。
これは……違う美しさなんだと私は思った。自由であり、繊細であり、何よりもそこには見たこともない世界が広がっていた。この世界は面白い、オーケストラのような様々な音色を使っているけれど、それをピアノだけで表現したら一体どんな音を聴かせてくれるだろう。
私はとにかくたくさんの創作曲を聴いた。そしてたくさんピアノアレンジをしていった。それは本当に楽しい毎日だった。
ピアノってこんな音も出せるんだ。ピアノってこんな表情をしていたんだ。この曲書いた人すごいな……。
気が付けば私は、自らも曲を書きたいと思うようになっていた。色んな世界の曲を聴いてきた。それはすごく楽しい時間だったし、作者の方に感謝した。
でも、もし自分の中にも世界があるのなら……。私という人間は、一体どんな箱を描けるんだろう……。
ドキドキした。ワクワクして、この胸の高鳴りは罪だと分かっていても抑えられなかった。
その日から私は自分の中にある音を探すようになる。指先が何かに触れるとメロディが聞こえてきた。本をめくる時も、ペンを握る時も、ドアを引く時、髪を梳く時、リボンを結ぶ時……私の指先が鍵盤で触る対象が弦のように。
それはもう、私にしか聞こえない魔法。世界は音で溢れていて、私が指先で弾くものは全てピアノの音色を奏でた。
相変わらず両親は私が弾くピアノに無関心だったけれど、もう気にならなかった。私はもう作曲するのに夢中だったから。
しばらくして、採譜の勉強もした。これまで即興で弾くだけだったので、一つの作品とするために採譜しなければと思ったのだ。
採譜も憶えてくると楽しかった。今まで感覚で弾いていた部分を、改めて演奏記号で表していくのは何もない紙の上に地図を描いていくようだった。
何度も弾いて、何度も書き直して……。もうすぐ、もうすぐ私の初めての作品が書きあがる。その矢先だった。
ふいに部屋のドアが開いて、父が入ってきたのだ。得もいわれぬ表情をしていた。きっとそれは、怒りだと思った。
「……こんなものがあるから!」
「え……やめて!」
何の躊躇もなく、ピアノの屋根を支える突上棒を外して側板に叩きつけた。さらに屋根を無理やり反対側まで跳ねのけてひしゃげる音がした。
「嘘、やめて! お父さんやめてよぉ! やだ! どうしちゃったの! ああ!」
父は私の声など聞かず、どこからか持って来ていた大きいハンマーを担いで、何度も何度もピアノを打ち付けた。
「ああああ! やめてぇ! やめてよ! わああん! あああぁぁあ!」
訳が分からなかった。涙が溢れてきた。それ以上に父の豹変が恐ろしかった。
響板が無残に打ち付けられて弦が飛び散っているのに、側板も脚柱も粉々になっているのに叩き続ける父の形相が恐ろしくてたまらなかった。
ああ、私は殺されるのだろうと思った。大好きだったピアノを目の前で粉々に壊されて、豹変した父の形相が恐ろしくて視覚を殺された。
次に木がひしゃげる音や、鍵盤が破壊されて金属片が弾かれる音で聴覚が殺された。固く目を瞑り、両手で耳を押さえて泣いた。
「ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい! ごめんなさい! わああああん」
ただただ謝った。何に対して謝っていいかも分からないのに、怖くて謝った。
声が掠れてきた頃、もう音は止まっていることに気が付く。視界には、跡形もなくなった無残なアンティークピアノの残骸があった。
大好きだったピアノ。それが目の前で粉々にされた。それは全てを、今日までのすべてを否定されたも同然だった。
しかし、母は介抱にやってこなかった。変わりに聞こえてきたのは救急車のサイレンの音。私に声を掛けてくれたのは救急隊員の方だった……。
この夜、父は豹変し母親に暴力を振るった。次に私の所まできてピアノを粉々に破壊。そして、家の目の前で大通りに飛び出して大型車にはねられて死亡した。
後日聞かされた話では、父は脳に腫瘍が出来て病気になってしまっていたらしい。頭がおかしくなって豹変したのだそう。
母は軽傷ではあったけど、どこかやつれていて私の話にも話半分で、心ここにあらずの状態だった。
「どうして……お父さんはあんな風になっちゃったの……」
「……あなたがピアノなんて弾かなければ良かったのよ」
「え……。じゃあ、お父さんがおかしくなったのは私のせいってこと!?」
「……」
「嘘……! じゃあ何で最初から怒らなかったのよ! いつも否定的なことばっかり言ってるくせに! ピアノを触った時に怒れば良かったじゃない! なんで!? なんで何も言わなかったのよ! 私ピアノ好きになっちゃったんだよ!? もう……わあぁぁあん! ああぁあぁぁ!」
父が死んで、私はピアノを辞めた。というより、弾けなくなった。
どこかのピアノ教室に通ってるわけではなかったので全て独学だったけれど、学校のピアノを触ると、あの日の父の姿が蘇り手が動かなくなってしまったのだ。
もう私の指先からは、木のひしゃげた音しか聞こえない。
そこに手を置くと、あの怖い父が振り上げた鉄のハンマーが私の腕に振り下ろされるんじゃないかという恐怖が襲って吐き気を催してしまってずっとピアノの前にも居られなかった。
それから母子家庭になってしまったけれど、父親の保険料やもともと蓄えがあったのか高校までは地元の学校に通わせてもらえた。
残念ながら、母親との関係の修復は出来なかったけれど……。
高校で水樹と出会い、彼女の豪快な性格にも触れて精神的には持ち直すことが出来た。
大学進学を機に、家を出て一人暮らしを始めた。もうピアノが無い生活にも慣れてきている。触らぬ神に祟りなし。要は近づかなければいいだけのことだ。
水樹と同じ大学を受けて、キャンパスは違うけれど高校とはまた違う距離感で彼女とは付き合っている。
そして、奏恵と出会い、水樹が失踪し……私は国語教師になった。
着任した先は、中高一貫校という生徒数の多い学校だった。
私は高等学校教諭一種免許状なので高等部の授業を受け持つことになる。なぜか大抜擢されて初年度から担任を受け持つことに……。
一年目は目まぐるしく過ぎて言ったけれど、二年目に入った頃だろうか。放課後にピアノの音を廊下でふと聴いてしまった。
学校だから当然音楽室はある。ピアノが聞こえてきても不思議じゃない。しかし、この一年間で分かったことがいくつかあった。
この学校には吹奏楽部や合唱部などの音楽系の部活は存在しないこと。そして音楽の先生はみな男の先生しかおらず、放課後にしっとりピアノを弾きに行くという乙な方々ではないということ。
つまり、生徒の中で誰かが弾いているのだ。その音色は、どこか懐かしさを感じる。まだ触るのは怖かったが、そのピアノの音色だけは嫌悪感を感じることは無かった。だから自然と、音楽室の前まで足を運ぶようになる。
またピアノ……弾きたいな……。
そうして、何日かは廊下で盗み聞きするような感じになってしまったけれど、ひょっとしたら今ならもう、あの怖さも気持ち悪さもなくなってるかもしれない。
そう思って、金曜日の放課後、私はピアノを数年振りに触ってみようと思い立つ。
その日はいつも聞こえてるピアノは聴こえてこなかった。
音楽室の扉を開けると、蓋の開いていないグランドピアノが一台。私の帰りを待っていてくれたかのようにそこにあった。
1歩ずつ近づきながら、心臓の音が大きくなっているように感じる。それは高鳴りなのか、動悸なのか分からないけれど、胸に手を当てて落ち着かせようとする。
椅子を引いて、座ってみる。深呼吸一つ、蓋を開けて白と黒のコントラストを視界に広げた。
「……ふぅ。大丈夫」
恐る恐る人差し指を白鍵に近づけてみる。一つ、弾いたその瞬間。
「ッ!」
あの嫌な木のひしゃげる音が私の耳をつんざいた。反射的に手を放す。やっぱり……ダメなの……。でも、もう一度だけ……。
「あッ! うっ……」
毎日あんなにも綺麗な音を聴かせてくれたのに、私の指先が触れただけで拒絶されたかのように悲鳴を上げる鍵盤。
フラッシュバックする豹変した父の姿。私は吐き出しそうになる感覚を片手で口を押さえて留めた。泣きたくなった。
やっぱりまだ、私はピアノを弾くことが出来ない。今は亡き父の呪縛から解放されることはない……。
すると、唐突に音楽室の扉が開かれた。
それは咄嗟に、かつての日を一瞬で想起させた。私は咄嗟に立ち上がり、あの日の様に謝罪を並べる。
「ご、ごめんなさい! 勝手に触るつもりはなかったの! だから……うっ」
貧血の様に身体がフラッとしてよろめいてしまう。抱きとめてくれたのは、藍染めしたかのような深く青みがかった綺麗な黒髪の女の子だった。
「だ、大丈夫ですか! 先生……? 泣いて、るの……?」
「ごめん、なさい……。少しふらっとしてしまって……大丈夫よ」
「良かった。ピアノの音が聞こえて、つい私以外でも弾く人がいたんだ! って嬉しくなって来たんです」
その子は色白でインドア派の大人しい子のような風貌だけれど、言葉は快活で耳に心地よいピアノのような透き通る声をしていた。
ひょっとしたら、この子が最近ピアノを弾いていたのかしら。
「……あれ、ブレスレット?」
抱きとめられて視線が床に向くと、ピンクシルバーのシンプルなブレスレットが落ちていた。私を抱きとめるときに落としてしまったのかもしれない。
「おおっとー! すいません、内緒にしてください! アクセサリー禁止なの分かってるんですけど、お気に入りなので!」
「……ええ、分かったわ。放課後の音楽室でだけは、目を瞑ってあげる」
「やったー! 先生すきー」
ブレスレットを拾って腕につけた彼女は、親愛の証というようにハグをしてきた。奏恵に少し似てるかも……。
それから私たちは自己紹介をして、彼女は中等部2年生の石川詩織さんだということが分かった。彼女もアクセサリーが大好きで、今はブレスレットが
マイブームとのこと。
となると、当然私のつけてるブレスレットにも興味があるようだった。
「先生のピンクのブレスレットも可愛いですよね。チャームが付いてて」
「ああ……。これは親友との約束なの。私が辛い時期に傍に居てくれて、私に新しい生き方と、いつか叶えたい目標をくれた。お互いのイニシャルが付いた、お揃いのブレスレットなんだ」
「素敵……。その友達も、どこかの先生なんですか?」
「……居なくなってしまったわ。大学の卒業を目前にしてね」
「え……」
詩織さんは面食らっていた。それもそうね。大学の卒業が決まっているのに退学する人なんてどれだけいるかしら。
でも……。
「でも、もう一人私を支えてくれる人も出来たし、そこまで悲観していないの。彼女の家にも行ったんだけど、ブレスレットは残ってなかった。つまりまだ、約束は忘れていないということ。いつか、戻ってくるということ。だからそれまで、待っていようかなって」
そう自分に言い聞かせつつ詩織さんに微笑むと、彼女はポーッとしたように私を見つめ破顔した。
高校に入ってからのことだった。同じクラスになった水樹はその頃から今も変わらぬ豪快さを持っていた。
それと同時に、多様性を持ちつつも己も持っているという、私にとっては珍しい人だった。そんな彼女と知り合って、お互いを知っていくうえで私のトラウマは当然彼女の知るところになる。
当時の私はスレていたから、初め彼女が言っていることが理解できなかった。
「僕は君が作る曲で歌をうたいたい。もちろん、今はまだ過去のことがあるから難しいかもしれない。でもいつか、君がピアノに触れられるようになったら、その時は考えてみて欲しい。君の演奏を必要としてる人がここいるということを。なぜなら君は、こんなにもピアノを愛しているじゃないか」
あれからピアノに触れていない私にとって、もうピアノとは無縁の人生を送っていくつもりだった。一度も私のピアノを聴いたことがない人が、どうして私のことを……。でも、もし本当にまたピアノが弾けたなら……。
それはつまり、過去のトラウマの克服。父の呪縛からの解放を意味する。何の目標も無かった私にとってそれは、新しい目標であり、新たな生き方を示してくれたのと同じだった。
「僕は本気だよ。その証に、これは君へのプレゼントだ。もう一度ピアノを弾いてくれるまで、僕は待ってる。君に生きていて欲しいから。ピアノを弾く姿をまた見せて欲しい」
そう言って渡されたピンクシルバーのブレスレット。Yのチャームが付いた約束の証。
その日から私たちは一緒に行動することが多くなった。水樹はずっと、待っていてくれた。
無理に私をピアノに触れさせようとはせず、コンクールや舞台、様々な芸事に誘ってくれた。その親友の気遣いがとても嬉しくて私もいつか、ピアノが触れることを夢見るようになっていったのだった。
その水樹は今、私の前から消えてしまった。でも、今度は私が水樹を待つ番なの。そうして、過去のトラウマと向き合っている。
再会するその時までには、きっと……。
「そうだったんですね……。聞けば聞くほど素敵だなぁ。じゃあ、やっぱりまだピアノには……?」
「ええ。まだ弾けそうになかったわ。でも、水樹が帰ってくるまで私は待ってようと思うから。それまでゆっくりトライしてみるつもり」
詩織さんには、私のトラウマのことを話した。小さい頃に父親に目の前でピアノを破壊されたこと。その時の恐怖が未だに消えずにピアノを弾こうとすると悪心が走ってしまうこと。両親とはうまくいってなかったこと。
詩織さんはまだ中学生なのにとても大人びていて、先生と生徒という間柄なのに親しい友人のように話を聞いてくれた。
私たちを結び付けたのはピアノと、ブレスレット。放課後のささやかな時間で私たちは親しくなった。
そんな日々が続いたかと思うと、放課後の音楽室にはもう一人。
新たな仲間が増えていた。結城翔くん。彼はとてもやる気が無くて、ただぼーっと毎日を過ごしているような子だった。というのは詩織さん談。
いつからだったか、ふらっと音楽室に現れてから詩織さんのピアノを聴いていくのだという。自発的に会話はしないのだけど、じっと聴いているらしい。
詩織さんは初め、翔くんのことはあまり好きじゃないと言っていたのよね。
まぁ詩織さんのように前向きで大人びた人からすると、翔くんはまだまだ青く見えるのも合点がいく。
そんな二人がいつからか、音楽室で会話をするようになっていた。
どういう風の吹き回しかなと思って後日、放課後の空き教室で詩織さんに聞いてみたの。
「ああ、結城君ですか? 嫌いでしたよ。だってすぐ諦めるんですよ? でも……悪い人じゃないっていうのは分かってました。話してみると、意外と哲学的なこと言ったりして。自分でも意味が分かってないのに。最近、結城君よく音楽室に聞きに来るんですよ。ただ、なんとなくって言ってました。だから私もそんなに気にしてなかったんですけど、なんか……安心したっていうか」
「安心?」
「物事に意味を見出せない人って、自発的に何かをしようとはしないじゃないですか。そんな彼が、たとえ吸い寄せられるようにでも毎日ピアノを聴きに来るっていうのは、何か彼の中で芽生えてるものがあるんじゃないかなって思ったんです」
「……それは、彼が成長したってことじゃないかな」
「はい。私もそう思って、少し歩み寄ってみたんです。結城君は昨日の夕飯なに食べたとか、やってみたいスポーツはないのかとか、音楽には興味あるのーとか。そしたら笑っちゃうんです。オレは別にやる気がないだけで、不良じゃない。なんだってそつなく興味はあるし、やってみたいことだってある。だって! 周りからはぜーんぜんそんな風に見えなかったんですから!」
そう言って、詩織さんはコロコロと笑った。私もつられて頬は綻ぶ。
「そんな結城君が、ちょっぴり可愛く見えてきちゃったんですよねー」
「あら、それは詩織さんも一つ、成長したってことかな?」
「え? あー。そう、なのかなぁ……。ふふ」
年頃の男女の甘酸っぱい恋の始り。クラスという大勢の中ではなく、音楽室で二人きり。何も始まらない方が不思議なくらい。
それから私たちの逢瀬はお昼休みにシフトして、放課後は二人の時間にしてあげた。
この中高一貫校は給食という制度ではなく、学生食堂が完備されている。中等部の生徒たちは大体お弁当を持ってくる子が多かったが、中等部の子も高等部の子も食堂を利用することが出来る。
詩織さんもお弁当を持って来ていたけれど、毎日のように一緒に食堂で食事をする仲になっていた。
「お家ではよく、美笑にピアノを聴かせてあげることがあるんですが、あんまりそれと変わらないです。結城君が近くで聴いてくれてるので、やっぱり私は誰かにピアノを聴いてほしいんだなって思うんですよ」
「ちょっぴり羨ましいな。私が小さい頃は、家にピアノがあったのに両親は弾かなかった。私が弾いても誰も聞いてくれる人がいなかったからね。詩織さんが弾いてる曲はあんまりクラシックはないよね?」
「はい。お家では練習するときにいつも弾いてるので、学校では練習っていうより伸び伸び弾きたいなーって。創作曲が多いです」
「そうよね。私もクラシックはよく聞いてたけど、創作曲の方が好きだったわ。詩織さんが最近作った……何だっけ、あれも好き」
「エトワールフィラントですね。ああ、ゆかり先生みたいな美人でピアノが弾ける音楽の先生が欲しかったなー。ゆかり先生どうして音楽の先生じゃないんですか!? っとと、すいませんこれは言いっこなしですね。あの曲、結城君も好きって言ってくれました。はは、嬉しいー」
食後は二人の甘酸っぱい恋模様をミッディ・ティーブレイクにして……。
だんだん翔くんが前向きになってきたこと。以前みたいにすぐネガティブなことを言わなくなったこと。少しずつ音楽室での会話が楽しくなってきたこと。
それを嬉々として話す詩織さんは、もう恋する乙女だった。
「……先生。私もう、気づいちゃったんです。どんどん変わっていく結城君が、どんどん好きになってるって……。好きになっていくのが止まらないんです。明日も結城君に会いたい。音楽室で二人きりでピアノを聴かせてあげたい。私のピアノを聴いてほしい。もっと結城君と話がしたい……。私、おかしいですか?」
「ううん、全然おかしくないよ。それが人を好きになるってことだからね。でも一つだけ忠告をしておくと、恋は盲目って言葉もあるの。結城君がキラキラ見えるのはしょうがないんだけど、周りが見えなくならないようにね。まぁ詩織さんは大人だから大丈夫だと思うけど、結城君も男の子だからね。おイタはしちゃダメだぞ?」
「おイタ……? 大丈夫ですよ、ピアノを弾くだけで痛いことは何もありませんから!」
「そ、そうね……。先生が悪かったわ。でも、何か困ったこととか分からないことがあったら遠慮しないで、すぐ先生に相談してね」
「はい! 頼りにしてます!」
それから一月くらい経った頃。相変わらず二人の仲は順調で、微笑ましいくらいだった。
そんなある日、詩織さんから呼び出されて放課後に空き教室で相談したいことがあるからと言われたのだ。二人きりで話したいらしい。
恋の悩みとは少し違うような雰囲気だったので、私は恐る恐る空き教室の扉を開けた。
「あ……先生。来てくれてありがとうございます」
「いいよ。どうしたの? 悩み事?」
「えっと……。先生にはまだ、話したことがなかったかもしれないんですが、お母さんが、先日倒れて……」
突然顔を覆ってしまう詩織さん。とりあえず落ち着かせるために、椅子に座らせて肩の震えが収まるのを待った。
「……すいません、ありがとうございます。お母さんは、もともと心臓が弱くて持病を持ってるんだって聞いたことがありました。だから、運動しすぎないようにとか心労を掛けないようにとか色々気にしながら生活をしていました。でも、この前倒れたとき、お医者の先生が、もうお母さんの心臓は持たないかもしれないって……」
「そう……。今は、入院してるの?」
「はい……。もうお母さんが助かる道は、臓器移植……誰かの心臓を移植しないと無理なんだそうです。お父さんがお医者の先生と話しているのを盗み聞いただけなので、私には臓器移植のことなんて全然わからなくて、お父さんも考えこんじゃって教えてくれないんです。先生は、何か知りませんか?」
「私も、医者ではないから専門的なことは分からないけれど……。一般的には、臓器提供って難病とかで移植するしか手立てが無い人が受けられる医療行為なのね。だからといって、誰でも臓器を誰かに渡せるわけではないの。確か、ドナー登録っていうのが必要だったはずよ」
「ドナー登録……?」
「ええ。もし自分が死んでしまった場合、まだ健康な臓器があったら誰かに移植していいですよっていう意思表示カードみたいなのがあるの。もちろん色々な検査を受けて初めて提供先が決まるのだけど、やっぱり死んだあとに身体にメスを入れるっていうイメージが強いせいかドナー登録してる人はまだまだ少ないっていう話よ」
「じゃあ、お母さんが臓器提供を希望して……移植をいつ受けられるかは分からないってことですよね……」
「うん……。今この瞬間も移植を待ち続けている人はたくさんいると思う。その順番もあるし、色々な制約があった気がする。……ちょっと不確かなことは言えないから、ちゃんと調べてから伝えるね。ちなみに、お母さんの病気って……?」
「拡張型心筋症、といって……もってあと、一年だそうです……」
それから私は臓器提供について調べた。
一般的な知識と相違なく、まだまだドナーは少なく、同時に移植を待ち続けている人はたくさんいることが分かった。それも心臓という場所はとても症例が少なく、人間の一番大事な部分といっても過言ではない場所を提供する人はなかなかいないのが現状のようだった。
しかし、よくよく調べてみると近年、臓器移植法は改正され様々な変更があった。2010年に改正臓器移植法が施行された。大きく3つ上げると、今まで臓器提供は本人の書面での意思が必須であるなどの厳しい制限があったが、本人の意志が不明な場合は、家族の承諾で臓器の提供が可能となっている。
そして、民法上の理由で遺言可能年齢が15歳以上だった為、臓器提供は15歳以上しか出来なかったが15歳未満の脳死臓器提供も可能になったこと。
さらに、これに合わせて親族に優先的に提供したい意志を書面で表示出来る「親族優先提供」も可能になっていた。
これにより、親から子へ。子から親への臓器提供が可能になったが、体重は3倍以内であったり、自殺による提供を防ぐために自殺した人からの提供は行われなかったりと細かい条件は追加されている。
これらのこと詩織さんに伝えた。その話を聞く詩織さんの目は、異様なほど真剣だった。
「……先生、色々調べてくれてありがとうございます。お母さんが助かる道は、少しでも広いことが分かってとても嬉しかったです。私は、お母さんを助けたい……。私のピアノを一番褒めてくれるのはお母さんだから。大好きなお母さんには生きていて欲しいですから」
そういった詩織さんの目は、とても優しかった。
でも同時に私は、とんでもないことを教えてしまったのではないかと後悔する。詩織さんはもしかしたら、本気で自分の心臓を差し出す覚悟があるのかもしれない……。
「し、詩織さん。……危ないことは考えちゃダメだからね」
「はは、大丈夫ですよ。自殺したってことになったら優先提供も行われない。先生がそう教えてくれたじゃないですか」
「そう……」
嘘、だと思った。詩織さんは本気で……。もし可能なら、自分の心臓をお母さんに上げられないかを考えているに違いないだろうと……。
その日から私は気が気ではなかった。でも、私が教えてしまったことは、詩織さんに何かを決意をさせてしまったはず。
それが悪い方向へいかないようにと願うばかりだった。それから二つの季節が過ぎ、だんだんと詩織さんが自殺をしないで生きていてくれることが信じられるようになってきた頃、詩織さんのお母さんは補助人工心臓の埋め込み手術がされたと教えてくれた。
これはもちろん、移植を待つための準備が整ったということだ。
生活に色々な制限が付くが、身体に10㎏もの機械を抱えて生活することになるが、日常生活を同じように送ることが出来る。
詩織さんは嬉しそうだった。移植を待つのは辛いことだけど、でもそれを待つ時間が出来たことが嬉しいと。
何よりも同じ屋根の下で生活できることを何よりも喜んでいた。
だから……。もうそんなことは無いだろうと思っていた。
その私の楽観は、詩織さんの決意を覚悟に変えていることに、気づくことは出来なかった……。
今にして思えば、詩織さんは1年をかけて着々と準備をしていたに違いない。血液検査などを隠れて受けたり、いつのまにかドナー登録をしていたり、自分が15歳を迎えるのを待っていたのだ。
だから、あれから一年が経とうとしていた頃。私はまた、あの空き教室に呼ばれたとき、詩織さんの口から言われるまで気づかなかった。
いや、気づきたくなった……。
「ゆかり先生! 今日まで仲良くしてくれて、本当にありがと! そんな、美人で優しくて思慮深い大好きなゆかり先生に、一生のお願いがあります」
「一生の? ふふ、どうしたの? 改まって、詩織さんのお願なら何でも――」
「私がもしもの時は……。誰にも言わないでくださいね」
「え……? 何の話……?」
詩織さんの言葉をすぐに理解できなかった。
でも、まっすぐに私の目を見て離さない気迫は、すでに声のトーンから察していた。
その時が――来たのだ。
「私は、お母さんを助けたい。怖くなんてないですよ? またお母さんの中に、戻るだけですから……」
嘘……。唇が震えている、指先の震えを止めようと胸の前で手が組まれている。
「美笑のことも大丈夫。翔くんが守ってくれる、そう約束してくれたから」
嘘……。これから二人は幸せになりたかったはず、だから下の名前で呼ぶようになったんだよね。
「ゆかり先生は、優しいから。私の意図にも気づいてると思うけど、ゆかり先生にしか、お願い出来ないから……」
嘘……。詩織さんは本当に……。涙が溢れてきた。
さよならと言われていないのに、これが今生の別れだと、気づいてしまった……。
「……ごめんなさい。詩織さん、私を……許して……」
震える肩を抱きしめて、私は詩織さんに謝罪した。まだ15年しか生きていない彼女に、こんなにも悲壮な決意をさせて、生き方ではなく死に方を教えてしまった……。
そんなこともちろん口にしていない。でも、それは全てを物語っていた。
「……今日まで、の……こと……。全部……忘れて、ください……一生の、お願い……です……」
詩織さんの震える声が、涙声に変わる時。詩織さんの手が私の背中に回された。
もう、詩織さんはお母さんのもとへ帰ることを、決めている……。
「忘れない……忘れられないよ……。一生……
「……ありがとう……」
季節は、ゴールデンウィークを目前に控えていた。
その告白通り、数日後……詩織さんは交通事故で亡くなった。その後は、翔くんの話の通り、色々な裁判が行われたが詩織さんが自殺であるという証拠は出てこなかった。
詩織さんのお父さんは疲れ自暴自棄になり、流れるままに離婚届を提出。美笑ちゃんの親権は稼ぎのあるお父さんに移ろうとしていたが、お母さんが反対し調停へ。
しかし、補助人工心臓を付けながらの生活、詩織さんの死、裁判の疲労から容態が急変し緊急入院した。調停委員により、親権はお父さんのもとへ渡ることが決定された。
それから程なくして、詩織さんがドナー登録していたこともあり様々な検査を経て、親族優先提供が施される運びとなった。
こうして、詩織さんの心臓はお母さんに還ることが出来たのだ。
あなたの想いは、ちゃんとお母さんに届いたよ……。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
「……話は聞かせてもらったよ」
墓地の石畳を踏みしめる、一人の足音。途方に暮れていた4人には、それが誰のものなのかを察することは出来なかった。しかし、その声音は郷愁と共にどこか安堵を運ぶ。
最初に気が付いたのは、ゆかり。そして奏恵だった。二人はこの矜持たる物言いをする人物を一人だけ知っている。
しかし、そんなはずはないと疑念を抱きながらも期待の方が大きかったであろう。
ゆかりの告白によって寂寥感漂う4人の心は、この声の主の威風堂々たる佇まいに何かを期待せずにはいられなかった。
「嘘……」
「水樹、さん……?」
ゆかりは振り向かず立ち上がり、背中で水樹と対峙する。
奏恵は駆け寄りたい気持ちをぐっと堪え、なぜ彼女がここにいるのかを思案していた。
あの日から5年の時が経ち、いつかやってくるだろう水樹の帰還を心待ちにしていた二人。
髪を切り、衣替えをし、20回季節が巡っても二人があの頃と変わらないものを抱えているのは、見た目だけではない機微に表れていた。
水樹も同じように髪を切り、新しい服を買い、20の季節を越しながらずっと今日という日を夢見ていた。
見た目は変わらずとも、水樹の方は少し憂いを帯びた表情をしている。
かつて奏恵が高校で教育実習生として相対した頃や、それよりも以前から付き合いの長い高校生でゆかりと出会った、あの頃の水樹にあった自信に満ち満ちた表情とは少し違う。
それは一重に、大人になったのかもしれない。この5年の内に、水樹の表情は心なしか穏やかになった。その胸の内は、水樹が自らの口で語るほかに察する術はない。
「……どうして……」
戸惑いと、期待と、嬉しさと、様々なものが綯い交ぜになったゆかりの表情が全てを物語っていた。
振り返り、奏恵の前に出て静かに問う親友の眼差しに水樹はしっかり頷き返した。
「……すまなかった。ゆかり、奏恵。そして初めて会うだろう君たち。少し僕に、語る時間をくれるだろうか」
全ての物語は綯い交ぜになる。
絡み合い、撚り合い、一つの信実となる。
それは紐解かれることが無い、絹糸の様。美しくも、頑ななまでに一途な、救いようがない物語を、どうかあなたに……。
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