第2話「ブレイク」
祖父の古書店を継ぐことになった時、頭に浮かんだのはやはりというべきか、祖父のことだったと思う。
おれの祖父はなかなかの波乱万丈な人生を送ってきたと自慢する偏屈者で、しかしその波乱万丈がどんな波乱万丈なのか語りたがらない面倒な男であった。
死後に古書店を継ぐことになって、真っ先に浮かんだのはそのしわくちゃながら背中をピンと張った祖父の姿だった。
いろいろなことで行き詰っていて、逃げ場を探していたおれにベトナム行きの旅行チラシを持たせて、にんまりと笑っていた祖父がいる。
それがどういうわけか、おれがベトナムから帰国すると物言わぬ死体となっていて、葬式も済んでいて墓にもう納まっていた祖父がいた。
狭いところが苦手だと常々言っていたから、きっとこんな狭いところで文句言ってるだろうなと、両手を合わせながら思った夏の日の情景がある。
なんでそんなことを思い出してしまったのだろうかと、おれは脱力感に苛まれながら溜息を吐いた。
胸板のあたりで不満そうに「なにさ。幸せが逃げるよ」と言う声が聞こえたが、今もなおおれに構っているほどのもの好きな幸せならば、溜息一つくらい見逃してくれるに違いないだろう。
そう思いながら声の主の頭を撫でてやりつつ、おれはティッシュ箱の隣に置いてあった祖父の遺品の懐中時計を手繰り寄せて時間を確認する。
年始の休日期間だからいいものの、いつもの平日なら店を開けていないといけない時間だった。
二人揃って酒を飲んで風呂に入り、布団を敷いてさらにもう一杯と缶ビールを開けたところまでは記憶があるが、何杯飲んで何発出したのかすら覚えていない有様だ。
三十を手前に蒸留酒から足を洗い、クソザコアルコール度数のビールに乗り換えたが、どれだけ度数が低くとも酔う時は酔うし、記憶が飛ぶときは飛ぶのだということを知ったのはごく最近のことだった。
大学の頃は蒸留酒をよく飲んでいて、同級生やサークル仲間をつぶしていた覚えがあるのだが、年齢というのはすえ恐ろしい。
少なくとも卒業からまだ一〇年も経っていないはずなのだが、髭はよく生えるし腰は痛むし、涙脆くなるし疲れも取れない、筋肉痛だって予定日を過ぎてやってくる痴呆老人が如くである。
そして肝心なのは、年を取ったというのに、おれは老人たる術を心得ているわけではないということだ。
「……さむいな」
布団からだらしなく出した足を引っ込めながら、おれはうんざりつつ言った。
煙草が無性に吸いたくなったのだが、布団を出るためにはこの寒さという敵を追っ払う必要があるのである。
でなければ、いったい何時間熱病にうなされたように絡み合ったかわからぬ全裸体で、無防備のまま東北の寒さに身をさらすはめになる。
しかしこの古本屋兼住居の暖房設備は、店頭に設置されている石油ストーブを除けばこの寝室兼リビングの一角に鎮座している薪ストーブしかないのである。
エアコンはこの寒さを前にしては暖かさを提供するに至らず、火柱あがる油にちびちびと悪戯に水を垂らすような有様になるので、暖房設備には計上していない。
いったいいつからここに鎮座しているのかも分からぬ薪ストーブからは、煙突用の管が伸びていて、黒光りする姿は蒸気を吹き出しながら動き出しても違和感はない。
その悪のスチームパンクマシンの中央にある覗き窓に火の灯は今や無きに等しく、あるのはすべてに意味をなくして燃え尽きた灰と、意味を見失いかけて火種燻る炭だけであった。
「まあ、一月だからね。僕は嫌いじゃないよ。二階堂(にかいどう)、薪、継ぎ足してくれる?」
気だるげでハスキーな声が胸板のあたりでするので、視線を下ろしてみると、そこにはニンフの如き魅力的な男がいるのである。
なんの間違いではない。女ではなく男である。
たしかに明石(あかし)という男は裸になってもどこか女体的な魅力を持つ華奢さだが、男である。
酒を飲んだための一夜の間違いでもない。
間違いであったとしたら、それはラ・ロシュフコーの言葉を唱えて正当化しうる。
〝情熱はいずれもわれわれに過ちを犯させるが、恋は中でも最も滑稽な過ちを犯させる〟422。
「んー……こうしてりゃまだマシだろ」
「むっ、おい、こらっ」
布団と毛布でぐるっと身体を包みつつ、つるつるとした心地よい抱き心地の相方を抱きしめれば、寒さも少しばかりマシにはなる。
ぎゅっと包み込むように腕を回して、細い腰を腕に巻き付け、揉み心地のよい臀部をゆっくりと堪能すれば、腕の中の明石の抵抗も収まっていく。
一方で、両の手全体で明石の体を堪能しているおれは瞬く間に自己主張をはじめ、それに気が付いた明石はむすっと唇を尖らせる。
「ねえ、なにこれ」
「なにと言われても……おれの愛?」
「なにさ。随分と欲に忠実な愛だね」
「むぅ……嫌か」
「お腹すいた。寒い。気分じゃない」
「おれもさすがに腰が痛い」
「じゃあお尻にあたってるこれ、小さくしてよ」
「できるものなら、最初からこんなに自己主張させない」
「それもそっか」
ぺしぺし、と抗議するかのようにおれの手を軽く明石が叩く。
しかたないなぁ、と意を決して全裸でストーブの前に屈みこみ、死にかけの老人のような有様の火種に薪をくべてやる。
最初はそのまま消えそうだったが、少しすれば死にかけの老いぼれた火は乾燥した薪を貪って燃え滾り始めた。
火が勢いづいてきたので、おれはぽんぽんと薪を追加し、凍えた身体を再び明石のいる布団の中に滑り込ませる。
「冷たいよ……離れてくれない?」
「あったけえから離れたくない」
「僕は冷たいんだけど」
「おれはあったかいし気持ちいいから離れないぞ」
「まったくもう」
なにが可笑しいのか、明石がくすくすと笑う。
その笑い方が可愛らしいので頭を撫でてやれば、くすぐったそうに身体を震わせた。
パチパチと薪ストーブの中からくぐもった音がして、部屋に温もりが少しずつ戻っていく。
裸で部屋を出歩いても身震いする必要がなくなるくらいに暖かくなるまで、どれほどかかるだろうか。
腹が減ってはいるものの、あいにくと台所は扉の向こう側で、この部屋より寒いことは確定している。
であれば服を着て靴下を履き、スリッパをひっかけなければならないが、そうするには部屋が暖かくならねばやる気が出ない。
腹が減ったなぁ、とぼんやりと思いながら、おれは片手で明石の身体を撫でまわしつつ、片手で煙草を掴んで口に咥える。
煙草をやめられなくなったのはいつだったかとぼんやり考えていると、明石がおれの手を掴んで煙草を一本持っていった。
つるつると毛もない明石の身体を撫でまわしつつ、こいつも煙草をやるようになったかと
とはいえ、その純朴をまっさきに汚したのは自分であるので、あくまでつもりである。
この関係がいつから続いているのかは考えるだけナーバスになるし、明石も嫌がるのであまり考えないことにする。
同性恋愛というのは、いつだってなんらかの障害が立ちふさがるものだし、それは恋愛という甘美な響きとは似ても似つかないものだ。
ニュージーランドでは同性結婚を認める法律が出された際に、聖職者を名乗る人物が「この法律が通ったその日からゲイの総攻撃が始まるぞ」と電話で言ったそうだ。
他にも人間として不自然なものだとか、永遠に地獄の業火で焼かれるだとか、まあ言わないだけで他にもいろいろそんなこんながあっただろう。
けれども、だ。
そんなこんななエピソードを述べ立てた後に、ニュージーランドの議員は言った。
〝この法案で我々がやろうとしていることは、ただ二人の、互いを愛し合う二人の、結婚を法律上で認めることなのです〟
ただ二人の、互いを愛し合う二人を認めること、ただそれだけのこと。
ただそれだけのことが、どれほど険しく、嫌悪と差別で舗装された道であったことか。
まあ、それもすべて『馴れ初め』という便利な言葉でまとめて、記憶のダッシュボードに仕舞い込んですべて忘れたいというのが明石の主張なのだが。
「二階堂、火」
「ん、ちょっと待て」
もぞもぞと気だるげにバニラの香りのする煙草、アークロイヤルを咥えながら、明石が言う。
おれはそれを見ながらやっぱり可愛いなとさらに自己主張を強めた自分の下半身に苦笑しながら、祖父の遺品たる年代物のオイルライターで自分の煙草に火をつけた。
次に明石の煙草に火をつけてやろうと手を動かす前に、明石は小さく「ん」と言いながら、おれの火の点いた煙草の先端に、自分の煙草を押し当てる。
俗にいう、シガーキスというやつだ。
仄かにという言葉では足りない、素晴らしいバニラの香りをかぎながら、おれは軽く煙草をふかして明石の煙草に火を点けてやる。
明石もすぱすぱと軽く煙草をふかせば、二人のアークロイヤルは甘ったるい匂いを部屋中に振りまきながら呑気にくすぶり始めた。
「………ホットケーキ、食べたいな」
「この煙草な、バニラであってメイプルじゃないぞ」
「甘ったるいことに変わりはないじゃん」
「まあ、そうなんだが」
でもな、ホットケーキを作る材料なんて、うちにあると思うかと。
明石はピチピチの大学生だが、こっちは大学卒業後は定職に就かず、カップラーメンが出来上がるくらいの談義で祖父の古書店を押し付けられた三十路手前男(トーヘンボク)だ。
そんな男のために明石ときたら、永久脱毛しようかな、なんて言ってくれるのである。可愛いなお前。
実際、明石のすべすべの肌は触れていてとても気持ちが良く、心地もよい。
だが興味本位で咥え煙草しながら調べてみれば、永久脱毛とはかくも金がかかるものと知って仰天したものである。
こう言ってはなんだが、文系大学生たるものはもっと自分の興味と趣向に素直になって勉強して遊んだりするべきだろう。
それがこんな古書店の古書と同じくらいに変色してそうな男のために、永久脱毛とは金がかかりすぎである。
大体、明石が髭をはやしたり腋毛はやしたりなんだりしても、毛くらいでおれがどうのこうのと言うわけがないのである。
おれは無毛なショタが好きなのではなく、単に明石が好きなのであるから。
「甘ったるいついでに、いつもみたいに甘ったるい引用してみてよ」
「なんだそれは。おれがいつも甘ったるい引用をしているみたいじゃあないか」
「なにさ。いつもしてるじゃないか」
「……まあ、たしかに結構している気もするな」
「ほら、早く。やってみせてよ」
「ふうむ」
なにかあったかと、おれは部屋の隅にある本棚に並ぶ背表紙どもを眺めてみる。
レマルク、バイロン、ゲーテ、コクトー、ハイデにリルケときて、聖書に讃美歌。
そしておれはぴったりの本を見つけたが、その中でおれが浮かんだのはジャンル的に言えば真逆のネーミングがなされた、とある詩であった。
「〝しとやかな薔薇も棘を出し おとなしい羊にもおどかしの角がある〟」
「ふふん?」
「〝ただ白ゆりだけは純粋な愛の喜びにひたり 棘もおどしも その輝く美しさを汚さない〟」
「……甘ったるいね」
「ウィリアム・ブレイクの〝ゆり〟だ。いいだろ」
「うん、すさまじく甘ったるい」
「だな」
煙草をぷかぷかと燻らせながら、おれは自分の体温と明石の体温があがるのを感じるのであった。
それは老いぼれた薪ストーブが老齢期に入ってようやっと本気を出したというわけではなく、欲による自己主張でもなかった。
これは単に、ウィリアム・ブレイクにうなされた男二人が、恥ずかしくなって赤面しているだけなのだろうから。
古書店店主と文学青年 狛犬えるす @Komainu1911
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