古書店店主と文学青年

狛犬えるす

第1話「二十二頁」

 今日はやけに暑いし蒸すな、と店番をしながら思った。

 さして高くもない天井一杯に本棚が伸び、それがずらりと壁を作っている。

 同じような本棚が背中合わせに店内に並び、通路は人一人がやっとの広さ。


 圧迫感に古書特有の匂いが染み付いた、そんな古びた店だ。

 なぜつぶれないのか、なぜ今まで生きながらえたのか、不思議に思われる。

 それはおれだって知らないし、おれだって聞いてみたいのだが。


 それはそれとして、おれの名前は二階堂(にかいどう)という。

 おれの仕事は、前述したとおりの古本屋だ。

 チェーン店でもなく、昔ながらの所謂、旧古書店に分類される。

 

 元々は近くの大学生相手に祖父が始めた店で、祖父が死んでからはおれが店主になっている。

 大学卒業後に定職に付かず、アルバイトで溜めた金で行ったベトナム旅行から帰国したら、そうなっていた。

 両親曰く、売り払うに忍びなく、消去法と都合よく本人がいなかったため三分で決定されたと。


 カップ麺一つと古書店一軒が等価なのかと。

 そもそも、フリーターに店を任せるとかアホなのかと。

 間違いなく店じまい待ったなしと思ったが、今でも不思議と潰れていない。



「………エアコンの修理代は捻出できねえんだけどな」


 

 読書用の眼鏡をカウンターに置いて、おれはぼそりと独り呟く。

 久々にラ・ロシュフコー箴言集(しんげんしゅう)を引っ張り出してきたのに、熱くて集中できやしない。

 おれよりも年食ってそうな黄ばんだエアコンが、頭に「」とつけるようになったのは一週間前。

 それまで快適だった古書店が、夏祭りの屋台のような室温と化してしまった。


 文庫を放り出し、カウンターの下に置いてあるペットボトルから、すっかり温くなった麦茶を飲む。

 冷たくも熱くもない。体温と同じくらいの液体が流れ込んでいるという、見も蓋もないような感覚。

 結露した水が手をびっしょりと濡らし、拭くものもないのでしかたなくズボンに水を吸わせてやった。


 気温と湿度の板ばさみになるくらいなら、いっそ親父に頭でも下げて修理代を借金するか。

 いや、定職付かずのフリーターだったおれがそこまで信用されているとは、まったく思えない。

 となれば、残った選択肢は一つくらいしかないわけだ。



「二階堂、生きてるかーい?」



 うだるような暑さの中、気だるげでハスキーな声が店の前からした。

 これはいつものことだ。

 いつもの常連で親友以上の存在の、あいつが来た時の。



「生存しているという意味においては。差し入れあるか明石(あかし)」


「君って奴は、僕を買出し担当とか主夫だとか思ってないか?」


「二階のエアコンは壊れてないから、泊まってくなら泊まってっていいぞ」


「……話聞いてないね」


「風呂でもいいぞ。一緒に入るか?」


「お風呂、一緒に入れるサイズじゃないよね」


「まあな」



 はあ、と溜息を吐きながら、明石は被っていたベレー帽をバッグに仕舞う。

 中性的な顔立ちに華奢な手足、じとっとこちらを見つめる目は、少しばかり垂れ目気味だ。

 この少年みたいな見た目の青年が明石と言う。近くの大学に通う学生である。


 といっても、実は年の離れた幼馴染で、付き合い自体は十年以上ある。

 小さい頃からおれは背がぐんぐん伸びたのに、明石は今でもおれより頭二つほど小さい。

 頭を撫でてやるにはちょうどいいくらいの背丈なんだが。



「ちなみに今日は差し入れないよ。バイロンの詩集ってなかったっけ?」


「ないのか、悲しいな。バイロンは一昨日くらいにたしか買われたぞ、背表紙が黄色のヤツ」


「売れるわけがないと思ってたのに。買えばよかった。ポーは?」


「エドガー・アラン・ポーの詩集? 文庫の外国人文庫の頭だな」


「………届かない」


「背伸びしても?」


「……届かないもんは届かないよ」



 むすっ、として本棚の前から睨んでくる幼馴染。

 着ているシャツが肌に張り付いて気持ち悪くて、動く気にもなれないおれに動けと強要する目だ。

 しかたなくカウンターから出てって、最上段にあったポーの詩集をとってやる。



「おらよ」


「ありがと。……汗臭いよ」


「感謝するのかけなすのかどっちかにしろ」


「けなしてないよ。事実を言っただけじゃないか」


「店開けてるのに風呂にでも入れってか?」


「僕が店番しといたげるよ」


「雇ってもいないのに働かせられるかよ」


「そんなこと言う間柄じゃないだろう。養いたくても出来ないくせに」


「………お兄さんは財力のこと直言するのは、どうかと思うなぁ」


「三〇手前にまでなってお兄さんってのは、僕は辛いと思うけどなぁ」


「ま、まだ三〇じゃないから……」



 毒舌と皮肉の応射に、おれはいそいそとカウンターに逃げ帰る。

 財力と年齢のことはどれだけボカしたところで、現実という正直な食材をボカすことはできない。

 少し励めば腰が痛むし、髭剃りをサボれば髭が痛いと口付けを拒否され、筋肉痛は遅れてやってくる。


 両親はいつになったら結婚するのかと言い、親戚は古書店を畳んでまともな職についたらと言う。

 まだ若かった頃が懐かしくなってきたのも、やっぱり年を取ったせいかもしれない。

 けれども、そんなことばかりだけれども、悪いことばかりじゃない。



「明石」


「なにさ。落丁はないよ。栞紐もある」


「おれはお前が好きで良かったと思ってるぞ」


「僕もだよ。………ンッ!? い、いきなりなんだいそれは!?」


「今すげぇ自然に『僕もだよ』って言ったな」


「言ってない! そ、それより書き込みがあるんだけど!?」


「知ってる。それ二十二頁に黄色の蛍光ペンで書き込みがある」


「知ってるって―――」


「お前が好きそうなとこだなと思ってたんで覚えてる」


「き、君ってやつは唐突に……そ、そういうとこなんだからな!」


「いやなにがだよ」



 耳まで真っ赤になって、ポーの詩集片手に怒る黄金の砂の一粒。

 無口かと思えば怒るし、愛想がないと思えば甘えてくるし、いつだって退屈しない。

 そんなお前がいるからこそ、おれの人生は少しばかり、明るいものになっている。


 むっとして睨みつけてくる明石がかわいくて、つい口元が緩む。

 読書用の眼鏡をかけて、放り出してたラ・ロシュフコー箴言集を手に取る。

 とはいっても、頭の中ではポーの『夢の中の夢』が浮かんでしまって、読む気にはなれない。


 諦めて文庫をカウンターにおいて、おれはまだ頬を膨らませている明石に言ってやった。

 真っ赤になって頬っぺたを膨らませて、なんつーかわいい顔だよおい、と思いながら。

 頭の中の理想のかっこいい男が、芳ばしさ全開の台詞をおれに吐かせるのだ。



「黄金の砂の一粒。おれはお前をしっかり摑んで放すつもりはないからな」


「なっ、なっ、なっ………」



 会話イベントの途中で読み込みエラーが発生したかのように、明石がフリーズする。

 わなわなとポーの詩集を捲って、おれとその二十二頁を何度も見比べて、さらに顔が真っ赤になる。

 してやったぜ、とにっこり微笑んでやると、次の瞬間、



「ーっ!!」



 言葉にならない絶叫を上げながら、明石がバッグから引っ張り出したベレー帽を振りかぶって全力でぶん投げた。

 スムーズなピッチングと絶妙なコントロールにより、ベレー帽はおれの顔面に直撃し、眼鏡が顔面に食い込む感触を感じながら、おれは後ろにごろんと倒れる。

 今日はやけに暑いし蒸すなと、知ってる天井を眺めながら、おれは思った。

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