第8話 千の夜を超えて
こうなることはずいぶん前に想像はついていたんだ。
彼女の奇病は人から色を奪い去り、やがて体温さえも奪い去る。暖かいはずのぬくもりに満ちた体から熱い血が抜けて、ひどく冷たくなった体は肉親や周辺の人々に悲しみをもたらす。
僕が日本のウユニと呼ばれる場所に向かうための資金を確保するのに奔走していた三日間の間に、瀬戸内さんから最後の色が消えた。
僕だけに見せてくれた腰のあたりにあった命のリミット。やけどのようにいびつに残った瀬戸内さん本来の色。
間抜けな僕は、瀬戸内さんとそこに行くことだけに頭を使い、それが当たり前に達成できるとばかりに預金通帳から今までもらっていたお小遣いをすべておろし、読まなくなってしまった小説を近くのブックオフで売り、買わなくなったサプリメントで浮いたお金を合わせてなんとか片道分の旅費を作り上げていた……。
(台風12号は、本州に向けて猛烈な勢いで今夜から明日未明にかけて接近する見込みです。河川の氾濫や増水に備えて避難指示に従うようお願いいたします)
こいう状況になることだってわかり切っていたはずだろう? それでも僕は自分の欲望に素直になる道を選んだんだ。だから、この先の結果もどうなろうと立ち会わないとならない。
瀬戸内雪菜が病院から消えた。
余命宣告から僕と杏奈は、学校終わりにそのままの格好で病室に足を運ぶことが日課になっていた。いつもの生活の一部にすっかり溶け込んでいたそのタスクに冷たい現実が差し込んできたのは、ちょうど僕らが校門を出るあたり。杏奈がスマホで一週間分の自分のスケジュールの確認をした時だった。数件のお義母さんからの留守電とラインのメッセージ。
秋晴れの高い空で今年も日本列島に油のようにしつこくこびりついた残暑という熱波で体は熱いはずで、まだ僕らは夏服で、売店ではアイスを買って食べながら歩くクラスメートまでいたはずなのに、一瞬にして冷汗が全身を濡らした。
もしかしたらまた病院の屋上にいるのかもしれないと走り出した僕に、杏奈が絶望的な声を発した。
「……屋上にも、いないって……」
どうしよう……。杏奈はその場で頽れるようにフェンスにもたれてしまった。まるでリタイア寸前のランナーのように憔悴しきった表情、いつもは躍動感のあるふくらはぎの筋肉も、その時は妙にか細く見えた。
人間、突如として起こる不幸には脆い。僕より人望がある杏奈でさえ、僕をいつも怒鳴りつける杏奈でさえ、今崩れるように、脆く崩れやすい老人のように、フェンスにつかみかかっては僕なんかに助けを求めている……。
数多読んできた小説の数々の中には、あえて王道の展開に飽きている読者に対して最初はネガティブなイメージを植え付けて、いずれ訪れる転換期を用いて主人公に対するイメージを相乗効果的に上げるものもある。それにたいしてマイナス×マイナス=+みたいなイメージを僕は持っていた。
でも、僕はそういう小説より王道が一番好きだから。バッドエンドなんかにはさせたりはしないさ。
「泣いてたって見つかりはしないよ。とにかく立って。病院へ行ってみよう。何かわかるかもしれない」
戸惑いに似た目で僕は杏奈に見られた。どうしてそんなに前向きなのか、と言いたげだった。
「……僕も正直どういう意味で言っているのかなんてわからない。ただ、人のことを思うことはここしばらく経験してなくて、いてもたってもいられないから……。待ってたって自分が望む結末になるわけじゃないでしょ? 動いてさえいれば、もしかしたら何か思いつくかもしれないでしょ」
それでも動く気配のない杏奈の手を強引にとり、強引に立たせた。
「欲しいものがあるなら、手を伸ばすのが人間でしょ? 行こう」
ようやく前を向いてくれた杏奈は、僕が思っていた以上に強く手を握り返した。
これから台風が近づいてくるなんて誰も思わないようなきれいなオレンジ色が街を包んでいて、空気だって澄んでいたのに、僕に人間として素直に生きることを教えてくれた人はこの町のどこかに隠れてしまった。
しばらく歩く。歩き出してすぐに「もう大丈夫だから」と向こうから手を放してきた。
人間は行動をしている間にいろいろなことを想像し、行動しながら様zマナことを考えるようにできている。でも、僕にはそんな機能はないらしく、どんなに歩いても、すれ違う人垣に翻弄されようともかなしいほどに何も浮かばない……。
とりあえず病院に行こうだなんて、病院にいないのだから行ったとしても意味がないことぐらい小学生だってわかるのに、行動せずにはいられなかった。そうでもしないと体が破裂して中から何か熱いものがそこら中にあふれてしまう気がして、自分でもどうしようもないくらい心が不安定で、悲しくて、怖くて、それでも失いたくないものがあるだなんて知りたくもなかったのに僕はついに彼女を欲しがった。
いつの間にか、僕の足は加速していた。体が前のめりになり、海中を高速で移動しないと呼吸ができない魚のように、目には見えない生きて行く上で必要なもののために、人生で初めて誰かのために走っていた。
横断歩道を渡り、歩道橋を渡り、青色の信号が点滅する横断歩道を突っ切ったところで、僕が燃焼していた何らかのエネルギーは枯渇してしまった。
心はまだ叫んでいた。
まだ走れる。
まだやれる。
生きるために必要なんだろう?
彼女が。
すべてを教えてくれたんだろう?
瀬戸内雪菜が。
欲せ。
汝が赴くままに。
「ちょと、待ってよ。急に走るなんて、私を置いてかないでよ……」
後方で杏奈の声がしている。肩で息を切らしながら走ってきたようで、文節を区切るように叫んでいる。
「そもそも病院からいなくなったんだから、病院に行かなくてもよくない? 市内のどかかにいるんだと思うよ」
「……だったらほかに宛てはあるの?」
「こうなる前に何か言われたりした?」
少し考えて思い当たる節があるのを思い出して口にする。
「そういえば、天国が見たいって……」
人工物が何もない、雲が浮いているような、絵にかいたような天国に自分は行くんだと。怖いから一緒に下見に行かないかと誘われたんだ。
僕らがこうして途方に暮れている間にも時間は流れる。数代の車が僕らの脇を素知らぬ顔で通り過ぎては、排気ガスやほこりをまき散らす。
空にはおぼろげに満月が浮かんでいた。月の満ち引きは生命力にととえられるという話をどこかで聞いたのを思い出した。今夜が満月なら、瀬戸内さんもきっとどこかで元気にやっている。そしてどうにかなってしまう前に見つけてしまわないと……。
「何しょぼくれてんのよ。早いとこ探さないといけないんでしょ? ったくこっちは今日非番だってのに呼び出し受けて……」
車道には赤い車が窓を開けて止まっていた。中には疲れて表情でたばこをくわえるいつの日にか見た看護師がいた。
「……乗せてくれるんですか?」
「仕方ないからね。一人で探すよりあんたらを連れて行ったほうが何か情報を得られるかもしれないし、早いとこ終わらせて私は寝たいの」
そう言いながら杏奈は助手席に迷うことなく乗り込んで「早く乗らないと、日が暮れちゃう!」と僕は一喝されてしまって、ようやく事態の好転を理解した。
法定速度なんてものをまるで理解していないスピードで市内をぐるぐるめぐっていた。通っていた小学校、思い出の海岸、気にしていた店。東北の田舎といえど、田舎は田舎なりにある。もちろん限りも……。
「連、あんたあと思いつくような場所ないの?」
瀬戸内さんと杏奈は幼馴染で、僕と杏奈は従妹だけど、僕は瀬戸内さんとは小さいころにあった記憶はない。もちろん、僕の本当の家はくたびれた団地の一角で、どこかに行く気が失せるほどお金だってなかった。僕にこの町で行きたい場所なんてない。まして、女の子が行くような場所なんて。
車は、震災の時に多くの人を奪っていった海岸に来ていた。
あれからしばらくたつ今は、数は全盛期ほどではないけれど、何人かのサーファーが器用にボードを操っている。
「ごめん、僕にはそういう場所はあまり……」
「ったく何なのよ天国って」
疲れた顔は、一気に憤怒の顔になって、海に向かって叫ぶ看護婦さんに、今から帰ろうと海から戻ってきたサーファーが異形の目でこちらを見ていた。
「こんな田舎にそんなところあるわけがないじゃない! 本当の天国ってのはもっと男がいてさぁ」
「ちょっと落ち着いてください。今はそんな事より雪菜が」
二人のやり取りを指差しながらサーファーが見ている。
ここにはいないのかもしれない。そう思うのと同時に、一度も来たことのないはずのこの場所に。妙な既視感のようなものを感じていた。
小さいころじゃない、高校に入ってからでも、瀬戸内さんにあってからでもない。もっと昔、そんな気がする。夢ではないかと疑ったものの、その疑念は視界の隅に入った朱い鳥居を認識してから霧散した。
僕は、いつか知らないけれど、ずっと前にここにきて……。
そう思いながら、足は勝手に海へと続く鳥居に向かっていた。
鳥居の真後ろに確か……。昔、いつのころか忘れてしまったけれど、何か文字を刻んでいたはず。
海水の満ち引きで藻が生えてしまって、刻んだ日時もずいぶん昔のようで、見ただけではよく判別つかなかった。触ってようやく判別できたいびつな凹凸。もはや何とかいたのかさえもわからないその傷になつかしさが伝わってくる。
誰かに呼ばれた気がした。さぁっと海が割れるような音とともに、風は遠浅の水面を渡り、本殿から僕に向かって吹いてきたらしい。
振り返ると、小さな点が本殿の前でうずくまっていた。華奢な体に細い線。そして病的に白い肌。
僕は余命いくばくもない人間に、なんと話しかければいいのかわからない。脆く崩れやすい心に、どう接すればいいのかわからない。でも、僕の体は一歩ずつ水面を進んでいく。冷酷なまでに冷たい海水が、靴を通過して靴下に浸透して、容赦なく素足から体温を奪っていく。
背中に小さく看護婦さんと杏奈の気配を感じつつ、波音に埋もれる古びた神社にたどり着いた。
神社を支える二本の柱は、両方ともところどころ剥げていて、場所によっては日に焼かれたのか割れているところもある。長い間誰の手入れも受け入れることもなかったかのような廃墟……というわけでもないらしい。ふと見上げた日本の柱の両端に火の灯った提灯がついていた。少なくともここ数分の間に誰かが火をともしたんだろう。瀬戸内さんに歩み寄りながら、僕はその光景を漠然と眺めていた。どうして今日だけ明かりをともしているんだろう。どうして、看護婦と杏奈は僕のことを見えていたいみたいに向こうのほうで探しているんだろう。
「……連君?」
揺り起こすと、瀬戸内さんはうわごとで僕を呼んで、うっすらと目元を開けた。
「病院にいなきゃだめでしょ?」
「……ごめん。ここに来れば、助かるかもしれないって思ったから」
「何か思い入れでもあるの?」
僕の質問に瀬戸内さんは横目で神社をとらえながら、遠い昔の話をするみたいにゆっくりと口を開いた。
「自分でもどうしようもないくらいに困ったことが起きたらここに来なさい。そうすれば……」
「そうすれば?」
「昔、死んだ母さんが話してくれたんだ。昔のことだからもうあんまり覚えていないんだけれど、ここに来れば何とかなるかもって」
さざ波が大きく瀬戸内さんの言葉をかき消した。急に怖くなった。僕らは今、暗闇の孤島に取り残されている。潮でも満ちだしたら、僕らはきっとこのまま明日まで途方に暮れることになる。そう思うと居ても立っても居られなくなり、まだ眠りの浅い瀬戸内さんを担ぎ上げて踵を返した。
ふと、右手の水平線に気を取られた。満月から降りた一本の明かりが、僕らのいる神社にまで伸びていた。その光景に気を取られた、というよりはその光のある水平線から誰かが歩いてくるらしいのを見てしまった。当然、歩いてくるであろう人物の足元は海水で、どう考えても歩いてくるなんて……。疲れているのだと、自分に言い聞かせて一歩足を踏み出した先に、昔の貴族みたいな恰好をした色白の男性が立っていた。
え……という言葉が咽喉までせり上がり、寸前のところで飲み込んだものの、振り向いた先の先ほどの歩いてくる人影がないのを確認して、小さく出てしまった。
そして再び前を向くと、先ほどの男性が目の前に来ていて思わずのけぞった。
「……お迎えご苦労。もう下がってよいぞ」
言ってることがよくわからなかった。初対面の人間にどうしてお迎えなんて、まして、時代錯誤な格好に音場では表せない恐怖を感じた。
「どうした? 早う姫を渡せ。そちの役目は終わったと言っておる」
「……誰、……ですか?」
色白の男は口元をわずかにゆがませて、「地人に名乗るような名は持っておらん。大伴御幸といったか……そちも往生行際が悪い。約束の品も渡せぬ、姫も渡せぬではもはやこちらも取る手を考えねばなるまい」
一歩後ろに下がる。と、意識の途切れを感じるほど瞬く間の間に距離を詰めて「何を驚いておる。月人ともなればこのようなことたやすい。もっとも、姫君ともなればこの地より月に帰ることなぞ造作もないことよ」
「さっきから姫君姫君って、何かの勘違いじゃないんですか? 第一、僕だってそんな名前じゃ……」
「勘違い……確かにそうかもしれぬな」口元を鉄扇で覆い隠しながら、貴族は続けた。
「わざわざここまで連れてきてくれたのだ。褒美として教えてやろう。我らが姫は千年前に滅せられた。が、その因子は地のものの中にいまだに残っておられる。我らはその因子を集め、一つにまとめ、姫君の復活を望んでいる。しかし、おぬしも千年も姫君に付きまとうとは……男は引き際が肝心ということも知らぬのか」
次の瞬間、目の前から貴族は消えて、代わりに臓物をえぐるような痛みで僕は膝をついた。
「まぁ、よい。一度は破られはしたが、約束の地で千年の時を経て契りは守られた。……我が名はツクヨミ。地のものの習わしでは、例え一見だとしても名乗るのが習わしなのだろう?」
握っていたはずの瀬戸内さんの手が離れていく……。
「ま……て……」
ようやくはいつくばって振り向くと、瀬戸内さんを肩に抱き上げたツクヨミが海面に映る月光に溶けるように消えていく姿がおぼろげに見えた。
白雪姫の眠りのように 明日葉叶 @o-cean
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