第7話 月下美人と天空の鏡と

 家路についた僕に、瀬戸内雪菜を救う手立てはなかった。

 そのことについては、杏奈も同じらしく、タクシーの中で沈黙だけが重く鎮座していた。

 僕ら二人の関係を勘違いした運転手も、勘違いなりに空気を察してくれているのかずっと黙り込んだっまハンドル操作をしている。

 東家に着くころには満月は雲隠れして、居間から漏れるくっきりとした光が暗闇を切り裂いていた。

「……花はあげられたの?」

 降り続く雨の音の中で小さく消え入りそうな杏奈の声がした。蚊の鳴くような声。どうこたえるべきか、僕はその言葉の返答を瞬時に出すことが出来ずに、軽く玄関のドアノブに触れた手をそっと引っ込めてしまう。

 花は置いてきた。僕の一方的な意味の押しつけの……今となっては牧歌的でくだらない浅はかな判断だ。あんなものプレゼントしたところで何か変わるものでもあるのか。神様に願いを込めて祈ったところで、夜空に浮かぶ星々を観察してトランプでその先のことを予想したところで、現実は何も変わらないじゃないか……!

 何が月下美人だ!

 煮え立つ感情が雨音に消えていく……。冷静になれてよかった。今日が雨でよかった。

「花は……おいてきた。喜んでいたかどうかはわからないけれど、僕は、残り少ない彼女の時間の支えになってくれればそれでいいから。あの花にそういう意味を込めて贈ったんだ……だから」

 頬が濡れるのと同時に、傘が地面に落ちる間抜けな音がして、僕は初めて殴られたことに気が付いた。

「……あんた。こんな時にまで何笑ってんの?! 人が……雪菜がもしかしたら死んじゃうかもしれないんだよ? 何が残り少ない時間の支えになってくれればよ……支えるのはものじゃない! あんたはこれっきり雪菜に会わないつもりなの? 現実から目を背けて逃げるつもりなの?」

 現実から目を背ける……。

 現実とは……。

「あんたが何で笑っているのか知ってる。笑ってさえいれば不幸なことなんてそっちのほうからあきれて帰っちゃうからなんでしょ……!」

 逡巡する間に、僕は杏奈に突き飛ばされて、庭先にしりもちをついてしまった。

 相変わらず、空からは薄汚れた冷たい水が降り続けていた……。


 温かい食事。目の前に人のぬくもりが感じられる手料理が広がっていた。一口口に運んだはずが、その一口に誘われて次々とご飯が進む。おなかなんて空いていないはずなのに、タガが切れた機械のように箸が止まることはない。

 久々に味わう食事。酸いも甘いもすべてが数か月ぶり。しかも今日は僕が昔好物だった餃子だった。滴る肉汁に醤油が絡む。

 杏奈は早々に部屋に引きこもったまま出てくる気配はない。残念だけど、僕は瀬戸内さんとは付き合いが短い分、こうして感情の切り離しも早い。

 とにかくどういうわけか箸が進むんだ。全くおなかは空いていないんだけれど、全く味はしないんだけれど、何を食べても、何を飲んでも、満足しない。

 僕が欲しいものは、このテーブルにはない。

 僕が欲しいものは……。こんなものでは満たされることのない欲深い僕が望むものは、もうすぐこの世界から消えてしまうかもしれない。それなのに僕は、自らの命を延命させるだけの活動を永遠に行っている。

 僕は、無力で、非力で、卑怯で、逃げてばかりで。

 僕は、僕は、僕は、僕は……。

 僕は……!

 気が付くと、太ももの肉がめり込むほど爪を立てていた。

 欲しい……でも、欲しがれないんだ……。欲しがると、望むと、彼女は……。

 胃が悲鳴を上げて、突如として吐き気を模様して、そのまま後ろの流しへと急いだ。


 疲れているんだろう。なんだか体が重い。気分もすぐれない。

 そう決した僕のとる行動は、そうそうに二階の自室に行って横になること。人に何を言われようと、僕は今誰とも話したくない。向かいの杏奈の部屋からは何の音もしなかったけれど、生きている気配はある。

 別に様子を伺おうってしたわけじゃない。

 でもどういうわけか僕が踵を返して自室に籠ろうとしたら、背後の気配から薄い呼び声がして立ち止まってしまった。

「雪菜が欲しいものってなんだろう」

 ……僕は、答えを知っている。

 ……でも、……僕には……。

「私が代わりに病気になれたら喜ぶかなぁ……私が、代わりに」

「しっかりしろよ」

 その先はどうしても聞きたくなかった。杏奈らしくない。僕は、こんな弱弱しい幼馴染を見るのは初めてで、見たくないと思った。

「だって、私にあげられるものは……何も、ないよ」

 その言葉は、僕になら何か差し出せるものはあるのかという言葉にも聞こえた。

「……日常が欲しいって言われた。今まで通りの、僕がいて、杏奈がいる。そんな日常が」

「じゃ、今から……」

 扉一枚はさんだ向こうから、ベッドから何かが起き上がる音がした。

「悪いけれど、僕にはできない」

「どうしてよ……。ただそばにいてあげることがどうしてそんなに難しいの」

 僕が拳を握りしめていたのを気づいたのは、杏奈の発する言葉がいつもより雰囲気が違っていて、消え入りそうに震えていることに感づいた時だった。

「何かを……何かを欲するとどうしても壊れてしまう。もしかしたら、彼女も僕のせいでそうなるかもしれない。もしかしたら、母さんだってっ……!!」

「ねぇさんは君に殺されるほど弱くないよ。君は生かされたんだよ」

 僕のちょうど真下の方から香しいにおいとともに、白煙が霧散して昇ってくる。僕はずっと、おじさんとおばさんは眠ってしまったものだと思っていた。あと一時間もすれば今日という日は過去のものになる。

「……君がそんな風に思っていたことはわかっていた。誤解を解いてやりたかったけれど、君は今まで僕らに対してバリアみたいなものでずっと距離を置いていたから……」

 心臓が動くのを拒絶した。冷たい海に沈められるかのような無音と、その痛みに体が感覚を認識することを放棄しているような錯覚に陥った。僕は、母さんを殺していない……?

 ドアの向こう側でも、僕の動向を察しているかのような息を殺した音が鳴っている。

「だって、僕は……あの日……母さんの……」

「ねぇさんの分のおにぎりを取り返して食べてしまった。だろ?」

 人の脳みそというのはどうして真実を告げられると機能を失ってしまうのか、それとも、母さんを殺した段階で僕は人間を放棄して脳みそのない怪物にでもなり果ててしまったのか。いつの間にか胸が小さくしぼんでしまったらしい。うまく息が吸えない自分にひどく驚く。

「僕が真っ先に見つけた時には、君の横たわる近くに確かにご飯粒のついた皿はあったよ。でもね、ねぇさんの手はその皿を持ったままの状態だった。つまり、ねぇさんは君に手を払いのけられたわけじゃない。君におにぎりを食べさせたかったんだ。明日を生きてほしかったんだ。どうしてそんなに自分を責める? 生きていたっていいじゃないか。生きるということも人間の大事な欲望なんだから。ねぇさんは君の欲望を肯定したんだよ。」

 しばらく僕はそのまま立ち尽くしていた。情報の処理が追い付かない? 確かにそうだけれど、僕の中に入ってくる久しい感情に戸惑っているのかもしれない。

 僕が再び現実に舞い戻ってきたのは、外から車のエンジンに火が入る音と「どうするんだ? 行くのか行かないのか? 連」と僕を呼ぶ義父さんの声がしてからだった。

 僕を悩ます新しい感情に名前を付けることができるのならば、僕はこう名付けたい。

 愛と欲望と。

 僕は、自分の道を間違えてきていたのかもしれない。僕は、欲しがってもいいのかもしれない。夢を、目標を、そして……実直に彼女を……。

 あの日の僕よ、君は自らの命を母さんより優先させたんじゃない。

 母さんが自分の命より僕を優先させてくれたんだ。

 その証拠に、今こうして生きている。

 だから、僕は欲しがっていいんだ。

 欲しい。僕は、彼女が。わがままで、おせっかいで、それでいて春風の中に消え入りそうな寝息を立てる子猫のような瀬戸内雪菜を。


 激しく動くワイパーは水害のような雨を左右に受け流していた。一定の感覚とリズムを刻みながら、メトロノームのように。ただそれが、事故が起きた時の印象だった。

 おじさん、嫌、お義父さんも日ごろの仕事のせいで疲れが出ていたのかもしれない。今日なんて接待だってどこかに出かけて行ったはずなのに、僕なんかのために……。

 ハンドル操作を誤ったのか、後部座席に座っていた僕からするとわからない。ただ、瀬戸内さんからのスマホでのやり取りを眺めてはニヤついてしまっていた僕がことの重大さに気づくときには、車は半壊してしまっていた。僕は運よく前かがみになっていたので、頭は強く打ってしまったけれど、多少首が痛む程度で何ともない。

 車内に灰色の煙が充満して、危機を感じた僕は、シートベルトを外して外に出た。

 情けないほどに足元の力が入らない。頭でも打ったのかというほどのふらつき。

 事故現場は、病院へと向かう大通りで、激突した電柱は微動だにせず、こちらの不幸をあざ笑うかのように堂々と曇天へと延びていた。僕らが不幸な目にあっても、社会は何事もなく、平常運転で進む。僕の視界を通り過ぎる車も、その先にぼんやりとした明かりをともすコンビニも。僕らの不幸に関心もない。

 助けてくれよ。頼むから。

 濁流にのまれる木の葉なんて無力だ。一刻も早く、彼女のそばに行きたいのに……。

「すまない。ここからは歩いてほしい。何、気にすることはない。たまたま手が滑ってしまっただけの話で、誰も傷つけちゃいない」歩道に乗り上げた車のパワーウィンドウからお義父さんが顔をのぞかせてそう言った。けれど、その額からは血が流れていて、とても気にすることはないなんて言えるような状況ではないことは明らかだった。当然、僕は迷うことになる。そんなこと言ったって、怪我をしているじゃないか。とても置いてなどいけない。

「……初めてじゃないか。自分から何かしたいって言いだしたの。うれしんだよ。単純に」

 事故の衝撃のせいか、杏奈の意識ももうろうとしているらしく、助手席側の後部座席でうめき声をあげて眉間にしわを寄せて目をつぶったまま動くことはない。

「さぁ、行くんだ。それが君の望みで、それが連のやりたいことなら。誰の目も気にすることはない」

 後ろの車道ではもう何台もの車がヘッドライトをつけて、目を光らせた化け物のようにものすごいスピードで走りすぎて行った。

 軽くうなずき、お義父さんに背を向けて一歩足を踏み出す。「おい」と声を掛けられて振り向こうとしたら

「後悔だけはするなよ」と立て続けに声を掛けられた。僕は再び進行方向に向き直り、闇夜に足を踏み入れる。返事をしようかと一瞬迷い、その意味をこめて片手をあげて甲を見せる。

 僕は生まれて初めて誰かに会いたくて走っていた。何度も転んで口の中を切ってしまった。血の味がする唾を道路に吐き捨てて再び走り出す。点滅の始まった青信号、帰宅途中の会社員の軍勢、今は申し訳ないけれど僕の邪魔をしないでほしい。

 僕が欲しがることで粉々に砕けることもこの世界にはきっとある。

 でも今、君に会いたいんだ。壊れてしまうというのなら殊更。会って話がしたい。たわいもないことで笑ってほしい。

 あともう一つの信号機を走り抜けて、その先の十字路を右に曲がればもう病院だ。

 衝撃に身をよじられて、痛みより先に雨の冷たさを感じた。

 小型のトラックは、そのまま走り去ってしまった。

 僕が望んだことはいびつな形で手に入る。つまりはそう言う事だ。

 あと少しで横断歩道を渡り終えるというところで、僕ははねられた。外傷は雨に全身を打たれているこの瞬間に限っては無痛だ。それも、もしかしたら驚きとはねられた興奮で鈍麻してしまっているのかもしれないけれど。気を失わないって言う事だけが幸いか……。昼間ならもしかしたら誰か通りかかった人が助けてくれるのかもしれない。でも、ここは東北の田舎町。薄暗くなると街の中心でもない限り、人通りはなくなる。死ぬような恐怖心はない。だけど、それ以上に会いに行けなくなる恐怖心が勝っていた。

 会いたい。

 その一心で、立ち上がる。と、突如として鈍い痛みが右足首に走った。クラクションにあおられて、足を引きずり何とかわたる。足を痛めた。簡素で他人事のような状況判断が頭の片隅に現れて消えた。

 同時に立てたこと、歩けたことに安堵した自分がいた。

 まだいける。僕にはまだ足がある!


 欲望のままにここまで来た僕は、病室の扉を前に一気に熱が下がった。

 果たして、僕は彼女に何を伝えたくてここに来たんだろうか。

 面会時間ギリギリで、痛む足をごまかしながら受付を済ませた。看護婦に不審な目で見られたけれど、その瞬間の僕は体には収まり切れないほどの熱があり、語気でどうにか看護婦をごまかした。

 服は泥まみれで、ところどころ擦り傷で、髪だってぐちゃぐちゃなのに……。何も変われない、瀬戸内さんの痛みなんて到底わかりえない僕が、果たして会いに行ったところで彼女になんの得があるというのか。

 欲しい。彼女との時間が。僕をここまで運んできた大きな気持ちの塊は、ここにきて萎んで消えてしまった。

「誰?」

 聞こえたかもしれない扉の向こうからの声に、はっとした。

 言っていたじゃないか。僕との時間が欲しいって。間違いじゃない、幻想でも夢でもない。彼女はドアの向こうにいるんだ。

「……僕」

「どうしてまた来たの?」

 思いのたけをぶつけてしまいたい衝動にかられた。会いたいから、欲しいから。でも、痛む足がふと視界に入ったとたんにその言葉は霧散した。欲しがることは、やっぱり……。

 ならば僕はどうしたいんだろうか。このまま時間だけが無駄に過ぎていくのを、後ろを何度も往復する人影が教えてくれる。結局、僕は、言葉にできずに立ち尽くすしかないのか……。

「……うれしいよ。私は」

 ふっと扉の向こうからそんな言葉が投げかけられた。

 僕は自らの欲望だけでここに来たつもりでいた。彼女にそれを肯定してもらったとばかりに、勝手に興奮して、勝手に怪我まで負って。自分の都合ばかりを考えた陰湿なストーカーのような存在だと思っていた。

 欲しがったとしても、またねじれた形で手に入るとばかり思っていた。

「初めてお互いを知り合った日、覚えてる? 私が自殺の練習をしててさ、君が私を見殺しにした……。でも、久々だったなぁ。本当に死ぬかもしれないって思ったの。生きてるって感じれたの……。だから、すごくうれしかった。私は君を通して生きてるという感覚を味わえる。君なくして、私はない。なんてね……。でも、もういいの。私はこの病院がお家で、ここが私の……」

 次の句は読ませたくなかった。聞きたくもない。一生何も飲食をできなくなっても構わない。もう二度と朝日を浴びれなくなったって良い。僕が欲しいものは、君だから。

「……何がここが私の……だっ」

「……泣いてるの?」

 顔を真正面から見せた覚えはないけれど、驚いた表情でこちらを見ている瀬戸内さんに指摘されて初めて気が付く。僕は、久しぶりに喜以外の感情を表に出していた。

「……悲しいから、瀬戸内さんがいなくなるのが悲しくてたまらないから。泣いたっていいんだ。それが自分のためじゃなければ、僕は悲しい。僕は……」

「……素直でよろしい」

 僕の言葉が今度は遮られて結局思いは告げられることはなく、ベッドの脇に招かれた僕はその指示に素直に従うことにした。


「天国ってどういうところなんだろうね」

 高く晴れた空にアキアカネが数匹。牧歌的な病室からの光景にあくびが出ることもある。

「そりゃあきっと、なんかこう……奇麗でさ」

「奇麗ってどう?」

 手札にはジョーカーとスペードの5。狙いを定める瀬戸内さんに悟られぬように、あえて手札のトランプから視線を外す。

 僕がこの病室の扉で思いがけない涙を流してから一つの季節が流れた。時間の流れとは常に冷淡で、例えば世界に平等という現象があるとして、その現象が働く先は文化でもなく経済力でもない、ただ緩急なく僕らが無意識に流してしまっている時間なんだと思う。

 この流した一つの季節の中で、僕は一つ年を取り、彼女は余命を告げられた。

 半年ないんだって。病室に呼び出された僕に、彼女は笑いながら切ったトランプを渡す。

 彼女はどういうときに笑うのかいまだによくわからないときがある。どうして笑っていられるのかーー。

「僕が思うに、そういう場所にはきっと人工的なものはなくて、なんかエデンの園みたいな自然にあふれているところだと思うけれど」

 僕の頭がほんの数分前にさかのぼっている間に、瀬戸内さんは僕の手札からジョーカーを引いて、少しむくれた後に背後でもぞもぞと二枚だけの手札をシャッフルして僕の前に突き出した。

 どうも何か考え事をしていると勘が鈍る。突き出された手札からジョーカーを引き当ててそう思う。僕も彼女の真似をして背後で混ぜる。

「天国ならいいんだけどね……私……」

「ひとまず自殺なんてくだらない真似をしないことだね。自殺すると天国には行けないらしいよ」

 彼女の前に手札二枚を差し出す。

「やっぱりそうか……看護婦さんに気休めに渡された聖書にそんなこと書いてあった。だからくだらないことはやめなさいって」

「普通はそんな練習もしないけれどね。そもそもそんな話なんてしてて恐怖とかはないの?」

「あるよもちろん。でもだからって泣いたって何も変わらないでしょ? 夏休みだと思えばいいのよ」

「夏休み?」

「そ。確かに終わりはあるけれど、私にはなんのタスクもない長い夏休み。あ、もう秋か」

 僕の視線がカレンダーに向かったのを見計らって彼女がまたジョーカーを引き抜いて愕然とする。

 あの事故でお義父さんはこの病院に一か月ほど入院した。瀬戸内さんのお見舞いのついでにそっちにも顔を出しておく。それがきっと家族というものだろうし、もちろんついでなんて言葉は言えないけれど、お義父さんがよく言う欲望に従えば順番はどうしてもそうなってしまう。

「ねぇ、この勝負に私が勝ったらさ、最後に私を天国に連れてってよ」瀬戸内さんはどこか冗談めいた口調でつぶやいた。

「僕に君を殺せるわけがいよ」

「そういう事じゃなくてさ、私は葉月君と見に行きたいの。下見にさ」

「天国なんて死ぬことに意味を持とうとする人間の幻想だよ。あるかどうかも……」

「お願い。っていうか決定ね。だって葉月君は私を一回殺してるわけだから、逃れられません」

「……わかったよ。調べとく」

「約束ね」

 会話の間、僕は瀬戸内さんを直視することができなかった。もし、仮に視線が合ってしまえば、その奥に何か僕が想像する以上に脆い彼女を見つけた時に、僕は瀬戸内さんのそばにいてあげる自信がなかった。

 この勝負は絶対に勝つ自信があった。気が付かれないうちにジョーカーのほうにだけ深々と爪痕をつけてみ印をつけておいたからだ。どうしても会話になると、彼女との残された日数を感じざるを得ないから、ババ抜きを逃げ道にして口数を減らしたかった。

 案の定、瀬戸内さんが持つ手札の片側にその傷はあった。僕から見て左のそれはくたびれてしまって、爪痕が折り目に変わってしまっていた。

「早く引いてよ。どうしたの? ギブアップする?」

 この勝負に勝てば、僕は瀬戸内さんの最期を見なくても済む。このまま、奇麗なままの思い出に浸っていける。でも……。

「連。あんたには適当に選んできたから。またこの間みたいにぶちまけると悪いからさ。あ、ごめん雪菜。午後ティーなかったわ~、代わりに紅茶花伝で我慢してもらっていい?」

 いつも唐突に表れる杏奈は、両手にあたたかい飲み物を抱えてドアの前に立っていた。

「いいよ、中身変わらないし。よかったね今回は頭から水をかぶらなくなりそうで」

「まったくだよ」瀬戸内さんの手札に向き直ると、左にあったジョーカーは右に来ていた。

 僕としてこの病院を彼女の最後の場所として過ごさせるのは反対だった。もういいだろう? 生まれて間もなくこの無機質な天井の枠を数えていたんだろう? 毎日毎日来る日も来る日も効果があるかどうかわかりもしない検査の繰り返し。そのたびに自分の状況を再確認する……。あと何日生きれるのか、明日はどうか、明後日は……。本人からは聞いたとはないけれど、きっと恐ろしいに違いない。僕は、目の前で笑ってくれる瀬戸内さんを壊したくはない。いや……、本当は、そばにいたいだけなのかもしれない。

 だから、これは僕が初めて自分で選ぶ分かれ道。

 くさくならない程度に、右の逃げ道から迷う振りをして、僕が今選びたい左に手を伸ばし、引き抜いた。


 その日のうちに、僕は検索を始めた。

 天国 絶景 で検索。

 映るのはすべて海外のどこか自然があふれる土地で、そのだいたいがどこかの砂浜だった。南国思わせる風景に、青い海と白い砂浜。どこまでも透き通った映像は既視感さえ覚えるほど無数にあった。

 きれいだとは思う、でも現実僕らの財布でそこまで行けるだろうか?

 下にスクロールしていくと、これまでの条件と一致する上に、どこか幾何学的な映像に出くわした。

 どこまでも続く水平線に、平行線を描くような青と白のコントラスト。まるで空が地上にあるかのような錯覚。この条件は天国を見てみたいといっていた瀬戸内さんの条件と合っているのではないだろうか。

 僕は天国というものを知らない。だけど、その世界は天というくらいだし空にあるはず。

 この画像に一抹の可能性を見出したものの、頭を予算の二文字が通り過ぎて、スマホの明かりを落とす。

 目の前には月明かりでぼんやり見える見覚えのある天井があった。

 僕が母さんとの最期を迎えた日からしばらく、僕は病院で過ごしていた。

 奇しくも瀬戸内さんと同じ病院、同じ病室。つまり、僕は今瀬戸内さんと同じ景色を見ていることになる。

 一人の夜はとても長く、自分が暗闇と同化してしまったんじゃないかという錯覚に陥るほど感覚がなくなる。自分という個が、存在が透明になって消える。僕は毎晩その恐怖に死に対する意味を考えた。

 間違いなく、今、瀬戸内さんも……。

 いつの間にか閉じてしまった瞼を見開いて、再びスマホを操作する。

 さっきの画像。よく見るとリンク先が張ってあって、タップしてサイトに飛ぶ。するとそこには、その人が画像の国に行った時のことがその日食べた現地食から街の風景まで写真付きで詳細に記載されていた。

 ボリビアのウユニ塩湖というらしいその場所は日本円でおおよそ47万円は必要で、日本からだとアメリカで一端飛行機を乗り換える必要があるらしい。とても高校生に支払うことのできる額ではない。

 再び画面を落とそうとした僕に朗報が訪れたのは、記事を最後まで読もうとしたいつもの癖が出たからだろう。

 国内でもウユニの景色を楽しむことができるんです。と赤字で目立つように書かれていたところの真下に写真が添付されていた。

 若干電線なんかが映ってしまってはいるものの、ちゃんと空の背景を地上の水が反射してウユニ塩湖のように幻想的な光景になっている。

 きっと国内だと僕らにでもなんとかなるはずだ。いや、絶対に行けるはずだ。

 ご機嫌な心臓を沈めるのはずいぶんと時間がかかってしまって、高校生にもなって小学生の遠足の時のような気分になってしまった。これは、寝るのは大変だぞ。と、時計を見ると日付なんてとっくに過ぎていたので無理にでも寝るつもりで布団にもぐった。

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