尾八原ジュージ

 私が権吉と到着したとき、杏はもう井の頭恩賜公園、通称井の頭公園の入り口に立っていた。彼女は大学の吹奏楽部の後輩で、私と同じくトロンボーン担当だ。


 金曜日の午後1時。昨夜からの雨は今は止んでいるが、空気はしっとりと重い。そういえば、ニュースで梅雨入り宣言を聞いた気がする。


「鞠さーん」


 私に気づいた杏が手を振る。


「本物の権吉くん、かっこいいですね」


「ありがと。一応、元警察犬だからね」


 私がそう言うと、自分の話だとわかっているように、権吉がワンと吠えた。ジャーマンシェパードの権吉は10歳。もういい年だ。


 私は彼が現役だった頃を知らない。引退後、紆余曲折を経て我が家にやってきた子で、これが警察犬か? と思うほどおっとりしている。でもすごく賢い……はずだ。私の親バカかもしれないが。


「空いてるね、公園」


「平日だし、天気悪いですしね。すみません、こんな日に」


「いーのいーの。どうせ権吉の散歩はするから」


 長時間の散歩は大型犬の宿命だ。私の横について歩く権吉は、散歩っていいよね! とでも言いたげに、私の顔を見上げた。


 樹木に囲まれた井の頭公園の空気は、公園の外よりもじっとりと湿っている。歩きながら私は杏に話しかけた。


「あのさ、確かに権吉は警察犬だったけど、人の臭いを追えるかって言われると、ちょっと自信ないな。もう引退した子だし、私もそういう経験ないし」


「それでも試してみたいんです」


 杏は薄い唇をきゅっと結んだ。可能性があることなら何でもやってみる、というのが彼女の性格だ。


 そういえば、希少なバストロンボーンの賛助出演者を連れてきてくれたのも杏だった。おかげでOBも加えて、4人で『宝島』を演奏できる。この曲にはボーン3本、バストロ1本が必要なのだ。


 私たちは案内所の前で一旦立ち止まった。杏が肩からかけたポシェットを開け、ビニール袋に入った水色のハンカチを取り出した。


「権吉くん、この人わかる?」


 権吉は興味深そうにハンカチを嗅いでいたが、私の顔を見上げるとおもむろに歩きだした。


「あっちですよ!」


「そうかなぁ」


 曖昧な返事をしながらも、私たちは権吉に従うことにした。




 権吉は井の頭池に沿ってどんどん進む。私と杏がそれを追う。


「速くない?」


「大丈夫です」


「杏の友達、行方不明って本当? だったら権吉より警察じゃない?」


「ちょっと事情があって……あの、鞠さん」


 杏は重要な打ち明け話をするように、少し言葉を詰まらせながら「その子、萌香って言うんです」と言った。


「へー、萌香さんか」


「同じ大学で、私と同級生なんです。鞠さん、原田萌香って聞き覚えないですか? 鞠さんと同じ教育学専攻なんです。ダモエって呼ぶ人もいますけど」


 私たちの通う大学は比較的生徒数が少ない。キャンパスもひとつしかないので、知り合いの知り合いが実は知り合い、ということは珍しくない。だけど原田萌香という名前に心当たりはなかった。


「知らないなぁ。専攻が同じなら授業で会ってるかもだけど。写真ある?」


「ないんです。SNSとかもなくて」


「そっか。見つかるといいね」


「はい……」


 杏はなぜか、ひどくがっかりしたように見えた。私は元警察犬の飼い主というだけで、警察でも何でもない。そんな顔をされても……と思ってしまうが、きっと藁にもすがる思いなのだろう。ここ最近の杏の様子はおかしいと、彼女を知る皆が口を揃えている。


 権吉は時々私たちの方を振り返りながら、公園の奥へと導いていく。


「萌香さんって、この公園で行方不明になったんだよね? こうして探してるくらいだから」


 私は杏に尋ねた。


「はい。実は私と2人でここに来たときにいなくなったんです。この中って、小さな児童公園みたいなところがいくつかあるでしょ?」


「遊具があるとこね」


「そのうちのひとつで消えちゃったんです」


「消えた?」


「はい……そこには真っ赤なベンチがあって」


 杏は指を折りながら話す。


「ウサギのシーソーがあって、ブランコは乗れないようにポールにぐるぐる巻いてあるんです。あと、見るからにボロボロの滑り台」


「そんなとこ、あったかなぁ……」


 私は権吉の散歩のため、井の頭公園を度々訪れている。確かに遊具は何か所かに設置されているが、使えないブランコやボロボロの滑り台を放置しているところなんてあっただろうか?


「いついなくなったの?」


「先月の30日です」


 横目で池を眺めながら、杏は答えた。今日はスワンボートが1艘浮かんでいるだけだ。何だか寂しそうに見える。


「確か土曜日だっけ?」


「そうです。ストリートライブを観に来たついでに公園の中を散歩したんです。橋を渡って……」


 私たちは池にかかる七井橋と狛江橋を渡った。


「とにかく出鱈目に歩いたんです」


 権吉は鼻を地面につけながら、私たちを先導する。スニーカーの爪先が、いつの間にか泥で汚れている。


 また橋を渡った。この川は玉川上水だろうか? 見覚えのない景色だ。もし今のがほたる橋だとすれば、この辺りには競技場があるはずだけど……。


「ねぇ、なんか変だよね?」


 私は辺りを見回した。


 いつの間にか遊歩道の周囲は、廃屋のような建物で囲まれていた。樹木の間からガラスのない窓や、ボロボロになった洗濯物が見える。


 権吉が私を振り返って、鼻声で鳴く。


「ありがとう、権吉くん。私ひとりだと、どうしてもここに来られなかったの」


 不安そうな権吉に、杏がそう言った。




 靴がクシャッと枯れ葉を踏んだ。


 私は権吉のリードを握りしめた。6月なのに、足元に大量の枯れ葉が山積している。まるで晩秋だ。


「なんか寒くない? 杏?」


 腕に鳥肌が立っている。いつの間にか、空も夕方のように暗くなってきた。いくら曇天と言っても暗すぎる。


 杏は応えなかった。じりじりと音のしそうな視線を、権吉の背と進む方向とに交互に送る。


「杏、大丈夫? 萌香さんが失踪した辺りから様子がおかしくない? 皆心配してるよ」


「すみません。でも」


 杏は顔を伏せた。「萌香の話、していいですか」


 私の返事を待たず、彼女は話し始めた。


「萌香は私と同じ高校で、一緒に吹奏楽部でボーンやってたんです。同じ大学に入るって決まったときも、吹部があったら一緒に入ろうって」


「へぇ。ほんとに入ってほしかったなぁ。うち、ボーン足りな」


「鞠さん、『宝島』のサードはどうするんですか?」


 突然、私の言葉を打ち消すように杏が言った。私は戸惑いながらも答えた。


「えっと、OBの浅川さんに賛助で乗ってもらうけど」


「違いますよ、サードは萌香でしょ。萌香も吹部だもん」


 私は思わず、権吉のリードを取り落としそうになった。


 杏は私の目をまっすぐ見つめて続けた。


「萌香がいなくなったとき、私、はぐれたと思って、LINEを送ろうとしたんです。でも何度探しても、萌香のアカウントがなかった」


 そう言いながら、水色のハンカチを両手でぎゅっと握りしめる。


「学校に行っても、萌香のロッカーがないんです。吹部の部室に置いてたはずの萌香のボーンも楽譜も、全部なくなってるんです。あの子の家にも行ったけど、人違いじゃないですかってお母さんに言われました。皆、萌香のこと知らないんです。鞠さんもですか? 萌香のことダモエって呼んだの、鞠さんなのに」


 救いを求めるような声だった。私は必死に頭の中を探した。原田萌香。3人目のボーン奏者。私の後輩。


 そんな子はいないはずだ。


「私のアパートで宅飲みして、そのとき『宝島』のパートも決めましたよね? 3人いるからちょうどいいねって、鞠さんが言ったんですよ! なんで皆、萌香のこと忘れちゃったの!? 人って、そんな簡単にいなかったことになっちゃうんですか!?」


 突然、開けた場所に出た。


 真っ赤なベンチが、私の目に飛び込んできた。


 色褪せたウサギの絵がついたシーソー。


 ポールに巻き付けられたブランコ。


 塗装があちこち剥がれて、今にも崩れ落ちそうな滑り台。


 そこは異様な場所だった。


 恐ろしいものは何もないはずなのに、なぜか戦争画のように生々しく不吉な気配を漂わせていた。


 耳を伏せた権吉が、私の足に体をすり寄せてきた。そのとき、突然私の頭の中に自分自身の声が響いた。


(杏とダモエが入ってくれてよかったぁ。これで『宝島』は完璧だね)


 これは私の記憶だ。


 足元に空いていた見えない穴に、ふと気づいたような気分だった。


 木々の葉が擦れあう音が、何かの笑い声に聞こえる。


「鞠さん!」


 杏が叫んだ。「あれ!」


 私は彼女の指差す方を見た。


 ブランコの下に、いつの間にか女性が立っていた。


「ダモエ?」


「萌香!」


 私と杏が呼びかけるのが、ほとんど一緒だった。杏ははじかれたようにブランコへと走っていく。私も続こうとしたとき、右手がぐっと引っ張られた。


 権吉だ。


「グァオッ」


 聞いたことのない声で吠え、権吉は私を反対の方向へ引っ張る。


 私はとっさに権吉に従った。


「杏!」


 走りながら振り返ったとき、杏はブランコの下の人物の手を取っていた。




 気がつくと私は、七井橋から井の頭池を見下ろしていた。権吉が私の足元に座っている。


 1羽だけのスワンボートが、ボート場に帰っていく。


「杏?」


 辺りを見渡したが、彼女の姿はなかった。


 そのとき私のスマホが鳴った。


「もしもし、杏?」


『違うよ、近江でーす』


 吹奏楽部の同級生だ。


『鞠、宝島のボーンの楽譜知らない? 今、浅川さんが来てるんだけど、原本がないんだよね』


「浅川さん?」


『賛助で乗ってもらうんでしょ? 浅川さんと冴子さんに。現役、もう鞠だけだもんね』


「私だけって……杏は? ねぇ、楽器置き場に杏のボーンがない? 赤いハードケースの」


『ないけど? てか、アンって誰? 賛助の人?』


 気が遠くなった。


 私は電話を切って、橋の上に立ち尽くした。


「……権吉、人って、簡単にいなかったことになっちゃうの?」


 私は足元を見下ろした。権吉は困ったようにフーンと鳴いた。




 ふと違和感を覚えて、私はズボンのポケットを探った。柔らかいものが手に触れた。


 水色のハンカチだった。

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