Red・balloon

シロノクマ

EP0

 ————声が聞こえる。


 それは、私に向けられた声ではなく。テレビから流れるニュース、その記事を読み上げるアナウンサーの声。


「いてて、寝違えちゃった」


 首筋にツキンと走るような痛み、私はまたやらかしてしまったようだ。そろそろやって来るであろう嵐の予感に耳を塞いで、私は一度起こした身体を先程まで寝ていたソファーへと埋める。


千優ちひろ?! またリビングで寝て!! あれほどやめなさいと言っているでしょう?!」


「もぅ、うるさいなぁ。朝から叫ばないでよぉ」


 私は、リビングのソファーから起き上がると、しかめ面の母へ露骨に面倒だと言う視線を投げ、ゴワゴワになった髪を手ぐしで整える。


「お父さんが出張でいないからって、気が緩みすぎよ? 女の子がリビングのソファーで寝るなんて端ない」


「ぇえ、別に良いじゃん! どこで寝たって一緒でしょぉ? せっかくの夏休みなんだしさぁ」


「調子に乗るんじゃありません!! ぁら?」


 素晴らしいタイミングで母のスマホがなる。


「とにかく、早く起きて顔洗いなさい……はい、三味みつあじです……はい、ぇ?」


 母は、私を叱るといそいそと電話を受け、何やら真剣な面持ちでリビングから出て行った。どこの誰だか知らないけれど、ナイスだ。

 毎朝の何気ないやり取り。父は出張で留守にする事が多く、母と二人の家では、お風呂上がりにスマホをいじりながらエアコンのきいたリビングでそのまま寝落ちするのが私の恒例となっており、母は毎朝そんな私を見て顔を真っ赤にする。まるで“バルーン病”だ。

 そんな事は口が裂けても言えないけれど。そして、まだ覚め切れてない目の端につきっぱなしのテレビからニュースが流れ込んでくる。


 ——今朝未明、駅前のロータリで“バルーン病”と思われる男性が刃物を振り回し、近くにいた七十代の男性と二十代の女性二名に重症を負わせ……


 噂をすればなんとやらと言うやつだ、特に噂したつもりはないけど。最近ニュースでこの話題を聞かない日はない。どこか遠い地域で流行っている、訳のわからない病気で、なんでも今朝の母みたいに顔が真っ赤になって頭が風船みたいに膨らむらしい。まぁ、私には関係のない話である。


 ——尚、政府はこの病気の究明を急ぐべく各関係機関との連携を強固にする方針を示しており、国民への注意をよびか————


「ん? 琴音ことねからか」


 私は、頭元で鳴り響くスマホの画面に目を向けると、テレビを消して電話をとった。


『しゃみぃ、起きてた?』


「今起きたとこ、てかその呼び方マジでやめよぉ?」


『何言ってんの今更? ウチら和楽器コンビっしょ?』


「しらねー、まじダサいんですけど」


『良いじゃん、琴と三味線コンビ!! それよりさ、今日コジィ達が花火やろって! いくよね?』


「ぇえ〜、コジィかぁ。どうしよっかなぁ」


『ゆういち君もいるらしぃよぉ?』


「いく!! 場所どこ!?」


『しゃみぃ、マジちょろインだよね? 学校の裏の河川敷に夜八時! 送れるなょお』


「うるせーしぃ、んじゃ、夜ね?」


 電話を切った私は、今日の夜何を着ていくか頭の中をフル回転させる。


 ——スカート? パンツ?? ワンピースは、琴音とかぶるな……


 それにしても、華の女子高生たる私のあだ名が「しゃみせん」とは。三味みつあじ千優ちひろ。一文字違ど普通に読めば「三味線(しゃみせん)」なぜ“三味”の後に“千”を持ってきたのか、悪意すら感じてしまうネーミングセンスに恨みを持たないのは嘘だと思う。

 当然私の学生生活は小学生の頃から、この苗字と名前の組み合わせに苦しめられてきた事は言うまでもない。

 だけど、そんな私を救い出してくれたのが何を隠そう親友である宮坂みやさか琴音ことねなのだ。


『私は琴であなたは三味線! 二人で和楽器コンビだね?』


 そんな訳のわからないコンビのおかげで私は心底救われた。なんにせよ、そんな親友からの誘いを断るなんて、あり得ない話で、断ると言う選択肢すら浮かばない。ましてや絶賛片思い中の「ゆういち君」が来るのだ、なんとしても行くに決まっている。


「八時かぁ……」


 最大の障壁が電話を終え、戻って来る。どう、言いくるめたものか……最近は“例の病気”のせいもあって母は私の外出にうるさくなっている。若干、軟禁状態だ。


「ちひろ? まだ着替えていなかったの? お母さん、今日出かけなきゃいけなくなったんだけど……もしかしたら夜中になっちゃうかもしれないの。ちひろ一人でも——」

「全っ然、大丈夫!! 適当にご飯作って食べるし、今日は部屋で寝るから!! 安心してお出かけください」


「そ、そお? なら、お願いね? くれぐれも外出なんて」

「しない!! 約束する!! だから、さっさと準備して? ね?」


 どこかの誰かに感謝しながら、私は訝しむように私を見つめる母を笑顔でごまかし背中を押して外出させた。







 ※※※






「しゃみぃ! こっち」


「琴音、やっぱりワンピースか……ふふ、スカートで正解」


 清楚系のコーデ、ふんわりとワンピースのスカートを揺らす琴音は、ボブカットのよく似合う可愛らしい女の子、雰囲気も私とは対照的で——引っ込み思案で冷たく見られがちな私がクラスに馴染めてるのはぶっちゃけ琴音のおかげ。


「まじ、頭上がらないっすわ」


「ん? 何のこと?」


「なんでもないっ、それより……」


「もちろん来てるよぉ? ゆういち君でしょ?」


「まじ? うぅ、どうしよ……なんか恥ずいんだけど」


「大丈夫だよ、しゃみぃ可愛いんだから自信持って? あと、コジィに中山くんと佐野くんも来てるよ」


「いつものセットは別にいらないんだけどなぁ」


「ぁ、しゃみぃひどいっ」


「ごめん、琴音はコジィ狙いだったんだぁ」


「そ、そんな事は……ない、けど」


「赤くなってるっ、琴音可愛いっ」


「もう! しゃみぃだってゆういち君の前だとブリブリのくせに」


 高校の裏にある河川敷、下へと降る階段の前で私のことを待っていてくれた琴音と合流し、川の近くで戯れている男子達と一際輝いている「ゆういち君」を見ながら私達は階段を下っていく。


「お、来たなしゃみせん!! 花火の前に一曲お願いしまっす」


「うるさいっ!! コジィのくせに調子乗り過ぎ、あんたは琴音姫が退屈しないようにその辺でワッショイしてなさい」


「あいあいさぁ!! 琴音姫!! 小鹿が姫をおもてなしいたしましょう」


「ちょ、しゃみぃ!?」


 小鹿こじか八人やひと、通称“コジィ”は一応私の幼なじみだけど、恋愛的な要素は一切なし。お調子者で空気が読めないので、私としてはなぜ琴音のような美少女がこんな馬鹿に好意を寄せるのか全くの謎でしかない。


「おし、中山! 佐野! アレやるぞ!!」


「ぇ〜、やだよ」


「おまえ一人でやっとけよ」


「なんだよっノリ悪いなっ!! 姫が退屈なさるだろ?!」


「い、良いよコジィ、それより早く花火の準備しよ?」

「お、おう……そうだな」


 耳に髪をかけながらの斜め下から上目遣い。アレを天然でやるのだから末恐ろしい。普段の明るい琴音が急にしおらしくなれば大抵の男子は即ノックアウト。コジィの背後で中山と佐野も赤くなっている。

 ちなみに、中山と佐野の事は私もよく知らない。ただコジィがいつもつるんでいる男子という認識で、正直興味が全くないので下の名前もよく覚えていない。


 そして、今日私が危険な橋を渡ってまでここに来た最大の目的は。


「ゆういち君、やっほ……なんちゃって」


「あぁ、みつあじ。私服、可愛いな」


「あ、あ、ぁりがと。ゆういち君もかっこいいです」


「ん? 俺は適当だから、でもサンキューな?」


「————」


 桐島きりしま雄一ゆういち。彼は私がこの高校に入って最初に目を——憧れを持った男子で、二年にあがって同じクラスになったのをきっかけに、コジィを利用——友達になってもらい、やっと最近まともに話せるようになってきた所である。

 彼を一言で表すなら、そう、かっこいい。かっこよさの塊、とにかく何をしていてもかっこいいのだ。


「おぉい!! 桐島!! おまえもサボってないで準備手伝えよ」


「あぁ、今行く」


 せっかく二人きりになれたのに、空気の読めないコジィが早速邪魔をする。


「——っちぃ、コジィのばかやろう」


「ん? みつあじも行こうぜ?」


「う、うん! そだねっ、行こう!!」


 彼に声をかけられ、私は自分でもわかるくらい真っ赤に火照った顔を隠すように俯きながら彼の後に続く。


 そうして私達は、どこにでもある当たり前の日常。ドキドキしたり、笑ったり、馬鹿やったり。高校生らしいあたり前の一ページを今日も刻み、だんだんと大人になっていく————はずだった。






 ※※※






「そういや今日、やけに人通り少なくね?」


「そりゃ、今“バルーン病”が流行ってるからな、みんな自粛してんだろ?」


 花火がひと段落して、それぞれが意中の相手と会話に花を咲かせている時に、中山と佐野が野暮な話を持ち出した。


「それだよ、なんかウチの親が今日偶然用事とかで家から出てくれたから助かったけど、外出すんなってうるさいんだよな」


 そして、空気の読めないコジィの登場である。これはなんとかしてこの暗い話から話題を逸らさなければ。


「私の家も同じだったなぁ、なんかお母さん夜遅くなるって出て行っちゃって」


「「俺たちも」」


「俺の家もそうだ」


「わ、私も同じだったかも……」


 そこへ乗っかった琴音、続くように中山と佐野。そしてゆういち君までもが同じ事を言い出し、なんとなく私も同調して。


「「「……」」」


 妙な空気がその場に生まれ、なんとなく嫌な感じが全員によぎった。


「ぇ? 何この感じ? 今日なんかあるんじゃない? 親同士の集まりとかPTAとかさ」


「そ、そうだよね? それにこの辺じゃ“バルーン病”って出てないんでしょ?」


 せっかく無理やり話題を変えようとした私の言葉に琴音がまた、あのワードを持ち込み。


「結局さ? バルーン病ってなんなわけ??」


 ここでやはりコジィだ。正直今は、どこか知らない地域で起きている訳のわからない病気なんてどうでも良いのに——


「お前ら知らないのか? ニュースでは詳しい事話さないけど、SNSじゃ結構情報出てるぞ」


「へ、へぇ? そうなんだっ!! 私知らなかったぁ、ゆういち君詳しいんだね」


 こうなっては仕方がない、一頻り話をした後で話題を変えようと彼の話に食いついた私。


「ニュースで報道されてるのは、バルーン病にかかると顔が真っ赤になって頭が少し膨らむ、そして脳が圧迫されるせいで凶暴化するから危険……てとこまでしか報道されてない、でもネットの情報では続きがあって」


「つづき?」


 ゆういち君のみょうに説得力のある語り口調で、その場にいた全員が息を呑み、緊張に空気が張り詰める。


「顔が赤くなり目が充血するのが第一段階、凶暴になって暴れ始めるのが第二段階、そして、第三段階になると」


「第三段階?」


「なんだよ、早く言えよ桐島」


 どことなく肌寒さを感じ、私と琴音は無意識にくっついていた、焦らす彼を急かすようにコジィが突っ込みを入れ。


「第三段階は顔が———」


「きゃぁ!?」


「「————!?」」


「どうしたの?! 琴音??」


 突然悲鳴をあげた琴音、私は驚き、男子達もどこか青ざめた琴音の表情を見つめる。


「木、そこの木のとこに、刃物を持った変な人が、こっち見てた」


「ぇ、誰もいないけど……」


 その場にいた全員に緊張が走る。先程までの会話の内容もあって、不気味な空気が立ち込める中、私は震えながらへたり込んでいる琴音の肩を抱き、私達の背後で男子達が立ちすくむ。


「こ、小鹿、お前見てこいよ」

「そうだよ、一番足早いのお前だし」


「なんでだよっ、それならお前ら二人で行ってきたら良いだろう!?」


「俺が見てくる」


「ゆういち君——」


 言い争う男子を見兼ねた彼が、琴音が人影を見たと言う、ちょうど人が隠れられそうな幅の木へと向かおうと一歩を踏み出した瞬間である。


 私は言いようのない視線を背後から感じた。ベットリとへばりつくような、自然と鳥肌が立ってしまう程、気味の悪さを感じる視線。


「しゃみぃ?」


 気が付けば私は震えていた。ちらりと、しかし確かに、恐る恐る振り向いた視界の外れに“それ”は写った。


「は———ぁ、ああ」


 恐怖で声が出ない、私の異変に気がついた琴音は同じく後ろを振り返り、硬直する。


「中山!! よけろぉおお!!」


 ゆういち君が叫んだ。私達に気を取られていた中山と佐野は気がついていない——


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁ」


「————!!」


 中山の頭部へ思いきり振り下ろされたのは鉄パイプ——ぐしゃりと鈍い音が響き、頭部から大量の血を流した中山は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。


 誰も動けなかった。その異常な者の姿に、見たこともない量の血を流して倒れた同級生の姿に。


「いやぁぁあああああああああ」


 恐怖と沈黙を打ち破り真っ先に声をあげたのは琴音だった。私は動転した意識で“それ”を見た。

 中年くらいの男、下半身は何も履いていない、それよりも——頭がボコボコと歪に膨らんでいた。視点の定まっていない目からは血涙が流れていて。


「あ゛あ゛あ゛—————」


 不気味な声を漏らしながら“それ”は恐怖に打ち震える私達目掛けて歩き始め。


「に、げろ、逃げろぉおお!!」


 誰が叫んだかわからない、ただ、私達はその声によって弾かれたように意識を取り戻し全員がその場から駆け出した。

 私達は真っ直ぐ、何も考えず——真っ直ぐに“木”の横を通り過ぎ、学校へとその足は向かい。


「——ぐ、ぁあ、う、腕、腕に、あぁああぁ」


「佐野!?」


 それは先ほどの木を通り過ぎた瞬間であった、そこに潜むように佇んでいた“それ”はぐしゃぐしゃの長い髪にぼこぼこに膨らんだ額の——男か女かも判別できない程その顔は腫れ上がり、大量の血が目から流れ落ちて。


 腕を掴まれた佐野は“それ”が手にしていた包丁で腕を何度も刺された。


「やめろよ……やめろぉおお!!」


 錯乱したコジィは、佐野の腕を滅多刺しにしている“それ”に向かって走り出し、顔面を思い切り殴りつけた。


 瞬間——それは、絶望のような光景。私は思わず胃からこみ上げてくる液体をその場に吐き出す。


 ——————“それ”の頭部は、まるで水を入れた風船が弾けるように、赤い色をばらまきながら、べしゃりと弾けた。


「————ぇ。な、なんだよこれ、なんだよこいつら……なんなんだよ!!」


 あまりの出来事に誰もが戦慄し、声を失う。そして、手を掴まれていた佐野と顔を殴ったコジィの全身は真っ赤に染まって。


「あ゛、あ゛あ゛」


 気が付けば、すぐ近くにまで異様な出立ちの“それ”が迫ってきており、私はとにかく琴音の手を引きその場から走り出した。

 それに続くように全員が駆け出し、私達は通いなれた学校へと逃げ込んだのだった。






 ※※※






 校舎の中へと窓から逃げ込んだ私達は、一番近い教室に隠れ、息を潜めていた。


「あれは、バルーン病……なの?」


 最初に声を発したのは、腕から血を流し恐怖に縮こまる佐野でも、不本意で、だけど確かに人を殺めてしまったコジィでも、先ほどから何処かよそよそしく距離をとっているゆういち君でもなく。

 私と寄り添うように手を握り、力なく座り込む琴音だった。


「ゆういち君、詳しいんだよね? あれは、あの化物みたいな人達はなんなの?」


 琴音は、震える声でゆういち君に質問する。だけど、彼はソワソワと落ち着かない様子で黙ったまま。


「そうだよ、あんなの人間じゃねぇ……人じゃねえょ……俺は殺してない、あいつが勝手に死んだ、そうだろう? なぁ、桐島? 教えてくれよ、なあ」


 コジィは現実を否定するように、ふらつく足取りで、返り血をベットリ浴びた手をゆういち君へと伸ばし。


「よ、よるな!! 感染るんだよ!! バルーン病は、その血を浴びると感染る、第三段階になると頭や顔が風船みたいに膨れて……最後は破裂するんだ、そして、その血を浴びた人間がまたバルーン病になるんだよ」


「「「————」」」


 絶句。なんの言葉も出ない。佐野とコジィ、返り血を全身に浴びた二人は、受け入れられない現実に、その表情はまるで魂が抜け出たようだった。


 ゆういち君は後ずさるように距離を取ると、背中を壁に遮られ、その視線はチラチラと最後に入ってきた二人の向こう側にある扉を意識している。


 彼は、私達を追い抜いて一目散に校舎へと逃げ込んで、教室に入ると内側から鍵をかけようとしていた。

 そこへ、おそらく彼の予想よりも早く私達が飛び込んで来てしまったのだろう。本当は今すぐにでもここを出て行きたいけれど、最後に来たコジィ達が扉の前にいるから邪魔で通れない。わかりやすく表情に書いてある。


「ふ、ふふふ、あはははははは」


 そんな重苦しい空気の中、壊れたように笑い声を発したのは、先程まで膝をまるめ、恐怖に震えていた佐野だった。


「な、なに? どうしたって言うのよ?」

「佐野君? 怖いよ……」


 どこか豹変したように、笑い声をあげた佐野は血の滴る片腕をだらりと下げ、ゆっくりと立ち上がると、ゆういち君を見据え、不気味な笑みを浮かべる。


「面白くねぇ、面白くねぇよな? どうせ死ぬんだろ俺? あんな化け物みたいな姿になって……おい、桐島」


「——なん、だよ。こ、こっちにくるな……」


「おまえ、前から気に入らなかったんだ。女子からチヤホヤされて、調子に乗りやがって。この血がついたらおまえにも感染るんだろ?」


 じりじりと返り血に染まった腕を伸ばしながら、佐野は彼へと近づいていく。表情を青ざめさせながら慌てふためく彼は角へと追いやられ。


「ま、まて、どうせやるんなら……俺なんかより先に、楽しめる事があるだろ? お、俺も手伝うからさ、三人で、な?」


「な——、あんた何言ってんのよ!?」

「きりしまくん? 冗談だよね??」


 見る影もないほど卑屈な笑みを浮かべながら、彼は私達に視線を向け、あり得ない提案を佐野へと持ちかけた。


 私は、一時でもこんな最低な男に好意を寄せていた自分に後悔しながら、思い切り睨みつけ。


「マジ、最低なんだけど……佐野も頭冷やしなって、まだ感染ったって決まったわけじゃ——」

「み、み、宮坂さんと、俺が、み、みみやさか、ことねと」


 ゴクリと喉を鳴らし、卑猥な視線で私達を舐め回すように見つめる佐野は、明らかに理性を失っていた。


「ちょ、冗談だよね? やめてよ、こんな時に……くるな、こっちくるなよ」

「いや、佐野君やめて、いや————」


 ガタガタと唇を震わせている琴音を庇うように私は前に出る、でも私自身、怖くて震えが止まらない。

 私は縋るように、コジィへと視線を向けて助けを求めるが、俯いたままその表情は放心している。


「き、桐島、おまえ、しゃみせんの方抑えとけよ」


「あ、あぁ、わかったよ」


「やめてよっ!? 馬鹿なんじゃないの!! こんなことしてる場合じゃないでしょう!? 離せっ、この最低やろうっ、離して!!」


「やめて、佐野君、こないでっ……しゃみぃ、助けてっ」


 佐野がだんだんと親友の元へ近づき、私は背後から彼に両腕を押さえられ身動きがとれない。卑猥な手が琴音の足元へと伸び、その両足首を掴むと、ゆっくり、抗えない力で開かれていく。


「や、めて……お願いします。いや、ぁ、いや、いや」

「離せっつ!! 佐野!? 馬鹿なことしないでっ!! 琴音から離れて!!」


 あまりの恐怖に硬直して動けなくなっている琴音の足が完全に開かれ、返り血に染まったおぞましい表情の佐野はその顔を開かれた股へと近づけ。


「ぶはっ」


 一瞬だった、泣きじゃくる琴音と、必死にもがく私達の前を一人の影が通り過ぎ、佐野の顔面を力強く蹴り飛ばした。


「コジィ……」


「良い加減にしろ、宮坂の事が好きなら、こんなことしないで守ること考えろよ!? バカヤロウ」


 コジィは、佐野を蹴り飛ばして、琴音を助けたあと私の腕を抑えたままの彼を睨みつけ。


「桐島、おまえもう、どっか行けよ。それとしゃみせんを早く離せ」


「は、ははっ、なんだよ感染者が格好つけやがって!! おまえら皆死ねっ」


 彼は負け惜しみにしても、最低な捨て台詞を吐き、その場を駆け出していった。


「その、ありがとぅ」


 あまり見たことのない幼馴染みの男らしい姿に、一瞬胸の高鳴りを感じた。けれど、その表情はやっぱりどこか沈んでいる。


「コジィ、ありがとう——」

「くるなっ、俺に触ったらダメだ」


 思わずその場を立ち上がり、コジィに抱きつく勢いで駆け出した琴音、でも、厳しい表情でそれをコジィは制した。


「コジィ、あと佐野も、とにかくこの場から逃げることだけ考えよ? 明日病院に行けばきっと治療法はあるはずだよ!! 私も一緒に行くから、ね?」


「……そう、だな」


 重く沈んだ空気をとにかく払拭しようと、私は声をかける。偶然が重なっただけ、今この瞬間さえ乗り切れば明日には日常が戻ってくるはず。危ない人達もきっと誰かが、なんとかしてくれる。


「ぁ、警察、警察に電話しよ?! きっと助けに————」

「————ぅわぁああああああああああ……」


「何、今の声?」

「桐島君の声、だよね……」


 落ち着きを取り戻し、次に取るべき行動を考えていた瞬間。現実は、断末魔の叫び声と共に私達の元へと歩み寄ってきた。


「ねぇ、しゃみぃ? 今のって」

「大丈夫だよ、きっと大丈夫……ここに隠れて様子を見ていれば」


 ————ばん。窓を叩く音がした。


「ぃ、いやぁあああああ!?」


 ふと視線を向けれると、先ほど逃げたはずの彼、その顔が血に染まり廊下側の窓に押しつけられていた。


「に、逃げよ、はやく、逃げなきゃ」


 教室のバルコニーから外に出る扉は固く施錠されている、バルコニー側の窓は半分までしか開かないようにロックがかかっていた。


 窓を椅子で割って外から逃げるしか。


 ————ばん、ばんばんばん。ばん、ばん、ばん、ばんばんばんばんばんばんばんばん、ばん!!

 

 手があった。大小無数の手がそこには蠢いていて。


「なによ————これ、なんでこんなにたくさんいるのよ!?」


「いやだ、怖い、いやだ、いやだ、いやだ——お母さん、お父さん助けて、助けて」


 バルコニー側の窓には無数の手が張り付き、私達を追い詰めるようにその手を窓に打ち付けていた。

 血涙を流し、焦点の定まらない不気味な瞳、ボコボコにただれて腫れ上がり、誰かも識別できない程醜い様相。


 パッと見ただけでも十人近く、この教室に群がるようにバルコニから周りを押し除け、窓に顔を擦り付けている。


「琴音、琴音立って、逃げなきゃ……早く逃げなきゃ————」

「いやだ、いやだ、いやだ、いやいやいや」


 琴音はうわごとのように繰り返し、その下半身を濡らしながらガタガタと震えていた。


「あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


 廊下に立っていたのは、先ほど河川敷で目にした、鉄パイプを手に持った中年の男。肥大化した頭部は、耳からも血液が漏れ出ている。そして男は明らかに私と琴音を見つめながら、醜く笑っていた。



「逃げろ……ここは、俺たちで食い止めるから」


「ぇ、コジィ? ダメだよ、一緒に逃げなきゃ」


 彼は覚悟を決めたような面持ちで、頭部の膨らんだ男へと向き直り、だけど一瞬その視線は確かに私を見つめて言った。


「どうせ、死ぬんなら。好きな女を守って死にたい」


「そんな、こと、急に言われても——」


「走れ!!」


 強く叫びながら、彼は男へと突進して行き。私は、込み上げてきた涙を必死に拭いながら琴音の手を引いて走った。

 果敢に立ち向かった彼の横を通り過ぎ、廊下へと出た私はとにかくその場から離れることだけを考え、必死に足を動かす。放心状態の琴音を引きずるように、真っ直ぐ廊下を走り抜け。


「下駄箱——そうだ、正門から出てすぐコンビニがあったんだ!! 助けを、呼ばなきゃ」


 下足場から、校舎を出て真っ直ぐ突き抜ければ最短でコンビニへと辿り着ける。頭の中で地図を描きながら走り——その足を止めた。


「そんな……」


 下駄箱の影から、こちらを複数の血涙を流す歪な瞳が覗き込んでいる姿。それがはっきりと正面に見える窓に映し出されていた。


 咄嗟に私は、近くの階段を上りその場から逃げる。どこかに身を隠してこの場をやり過ごすしかない。

 階段で足を縺れさせそうになりながら、とにかく走った。


 気が付けば私達は、階段を上りきり屋上へと続く扉の前にたどり着いていて。


「ここに隠れて警察を呼ぼう。琴音? 大丈夫??」


「……ぅん、なんとか」


 返事をするのが精一杯と言った様子の琴音を階段の踊り場の奥の壁にもたれるように座らせ、正面から向かい合うように私も座る。


「琴音は少し、休んでいて? 今警察に連絡するから」


「……」


「ぇ、っと——なんで?! ネットがつながらない」


「……」


「何番だっけ、緊急ダイヤル——119番? ぁ、110番か」


「……」


「ぁ、かかった——早く出てよ」


「……!?」


「琴音? どうし————」


 ずんっと頭を揺さぶられるような鈍い衝撃が走った。視界が濁る、耳が遠くなる。


「しゃみ——いやぁ、いや゛ア゛ァ——————」


 私を呼ぶ声が、遠くなっていく。一体、なにが——————。






 ※※※






 頭がすごく痛い、ずきんと鋭い何かが頭の後ろの方に突き刺さったみたいな痛み。無意識に起きた意識が状態を確認しようと、手を伸ばして痛みを訴えている場所を探る。冷たい感触、髪が少し濡れているみたいだ。


 少しずつ、水面から顔を出すみたいに、意識が覚醒していくのがわかる。それにつれて先ほどから薄らと聞こえる耳障りな音も、鮮明に聞こえ始めた。


 いやな音だ、耳元でガムを噛まれているような。聞いているだけで気分が悪くなってくる。


 それよりも、ここはどこだったっけ、私はなにをしていて————


 急速に蘇る記憶、自分の身におきたであろう出来事。焦燥感が全身を支配する。


「こと、ね……!?」


 太腿まで剥き出しになった華奢で白い脚。霞む視界の先、真っ先に目に入ったのは力なく広がられた脚。

 “何か”が覆いかぶさっていた。不愉快な音を響かせながら、その“何か”は今もなお、私の大切な人を血に濡れた手で押さえつけ、汚している。


 私は、這うように、親友の元へと手を伸ばす、でも届かない。だけど、届いた物があった。


「————」


 私は、それを握りしめると、全身に力を込めて立ち上がる。私は、一歩ずつその汚らわしい生き物の背後へと歩より、手にした鉄パイプを振り上げると。


 ————ベシャ。


 思い切りその頭へと振り下ろした。まるで熟れた果実のようにその頭は弾け、瞳の色を無くし無機質な人形のようになっていた琴音の全身を真っ赤に染めた。



「————」


「ことね、ことね??」


 絶命した“それ”を私は、親友の上から引き剥がす。恐る恐る、返り血に染まり無残な姿と成り果てた親友へと声をかけるが、反応は無い。


「———ごめんね、ごめんなさい」


 泣きたくなった。なにも出来ず、無力に、なす術もなく、ただこみ上げてくる涙。私は声を押し殺すことなく泣いた。それしか、出来なかった。


「……」


「こ、とね?」


 彼女は、ゆっくりと起き上がると、泣きじゃくる私の姿を視界にいれる事なくフラフラと歩き始め。


「待って、ことね、待ってよ、どこ行くの? ねぇ、ことね?!」


 私はその場を動くことができなかった、汚らわしい男の血で真っ赤に染まった彼女の腕を掴むことが出来なかった。そして、琴音はおもむろに屋上へと続く扉に手をかけ、その姿を私の前から消した。


「ことね、まって……ことね」


 どのくらい、動けなかったのだろう。それは、数秒に満たないようにも思えたし。数十分にも感じた。


 私は、ハッと我に返り、彼女が姿を消した屋上へと走り出でていった。


 彼女がフェンスの向こう側に見えた。


「ことね——————」


 一瞬、私に気がついた彼女は、その口元に薄らと笑みを浮かべ。



 ————ナニコレ?



 彼女の頬を伝うように一筋の滴がこぼれた気がした。



 ————ナニコレ? ナニ? ナンナノ?



 琴音は真っ直ぐに、空中へと身を投げた。


「いや、ぁ、あぁぁああああああああああああ」


 私の視界から、琴音が消えた。



 ————ナニ? ナニヨコレ。イミガ、ワカラナイ。



 私は、その場から逃げるように、走った。何もかもから逃げ出すように、現実だなんて信じない。きっと悪い夢に違いない。


 ————ハヤク、サメテヨ。


 そう、きっと悪い夢。だから早く起きなきゃ。いつも通り、ソファーで寝て……母に叱られる日常に戻らなきゃ。この夢は、あまりにも辛すぎる、苦しすぎる。



 ————ヤメテ、コナイデ。コレイジョウ、ワタシヲ、オカシクシナイデ。



 走った、とにかく走った。何も考えられなかった。夢から覚めるために、この酷い悪夢から目覚めるために。

 私は走り続け————






 ※※※







 ————声が聞こえる。


 それは、私に向けられた声ではなく。テレビから流れるニュース、その記事を読み上げるアナウンサーの声。


 朝の日差しが顔に当たる、鳥の鳴き声が清々しい。


「夢? いやな夢だった……怖すぎだよ」


 ずきずきと頭から首筋にかけて痛みが走る。よほど酷い寝方をしたらしい。

 髪もぐしゃぐしゃ、それになんだか身体が臭い。昨日はお風呂に入り忘れたのかもしれない、あまりにも夢の内容が酷すぎて記憶が曖昧だ。


 テレビ画面の向こうでは、忙しなくアナウンサーがニュースの記事を読み上げている。また大きな事件でもあったのか、何にせよ私には関係のない話だ。


 ———昨晩——市において突如発生した大量感染は、死者、五六十名。重軽傷者、千名を超える未曾有の大災害となり————


「なんか、気分悪……お風呂入ろっかな。おかーさん!! いないの?」


 今日はどうしたことか、いつもならリビングで寝ている私が起きるなり顔を真っ赤にして飛んでくる母が返事もしない。どこかに出かけているのか? あたりから気配も感じない。


「……まぁ、いいや。お風呂はいろ」


 とにかく、この最悪な気分を切り替えるには、お風呂に入るのが一番だ。全身がベトベトしてひどく気持ち悪い。早くスッキリしたい。


 私は寝ぼけ眼を擦りながら洗面台へと向かい、鏡の扉をあけ、歯ブラシを取り出し、歯磨き粉をつけて。

 鏡の扉を閉め———


 からん、と思わず手にしていたコップが床へと落ちる。

「お、かあさん」


 背後に母が立っていた。鏡ごしに見つめた母は瞳から真っ赤な血を流し、その頭は膨らんでいて。




「——あ゛あ゛あ゛あ゛」








 ————今回の大量感染の原因は依然として不明であり、しかしながら尊い犠牲となられた方々のおかげで、謎の多い“バルーン病”の実態も明らかになって行くのではないかとの声も上がっています。



 次のニュースです。





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Red・balloon シロノクマ @kuma1234

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