STAY HOME 古事記
もりめろん
STAY HOME 古事記
STAY HOMEの合唱が響いたとき、天照大神はあわてふためいた。
高天原の空は広々拓けているが、八百万の神々が密接に密集する。これぢゃあ「二密」だ、あな恐ろしや。はらはらする気持ちままに駆けた。向かった先は、天岩戸。
岩々を閉ぢて引籠る天照大神。空からは光が消えて世界は闇に包まれた。河原で
そんなことは露知らずの天照大神。天岩戸はSTAY HOMEするには快適で、任天堂やSONYの最新ゲーム機もあったので冒険を繰り返した。実世界の闇は晴れなかったが、仮想世界においては幾度も世界を救った。光回線も通ぢていて、ここぞとばかりに知らぬ他者との繋がりを求めたが、万の神からの怒髪天DMが大量に届いたので直に辞めた。光通信が代わりに与えてくれたNETFLIXではひたすら映画を貪る。その視聴本数は、やがて万を超えた。
悠々自適な
天照大神は父の
父は今遠くで暮らしている。すこし寂しい。父は息災だろうか、勇猛な方だが不安に思う。それが岩の中にくろぐろと広がって、この生活に途端に影を差した。それでも外に出る訳にはいかないのだから、これは八百万の命を守る為なのだからと、天照大神は父から聞いた昔話に想いを馳せた。
かつて父には妻がいた。父から生まれた天照大神にとっては直接的な繋がりはないが、それでも敬愛する父の愛した人だから天照大神も大切に想う人だった。
妻であった
父は逃げた。其れを亡妻が追う。辿り着いた洞窟の最果てで、父は其の入口を岩で塞いだ。亡妻は岩を殴る、拳から血と蛆虫とが飛び散った。愛していたのに。愛しているのに。互いがそう叫び、次には呪いの言葉を贈り合う。私は貴方たちを一日に千人殺そう。ぢゃあ私達は一日に千五百人産み増やそう。そう云って、二人は別離することになった。
きっと父は妻をずっと愛していて、蛆集りの身だろうが連れて帰りたかった筈だ。でもそれぢゃあ、千人を超す死者が出る。だから父は諦めた。愛する人との別離とは、父の辛苦は如何ほどだったのだろうか。その時の父を想うと、天照大神は今でも涙が流れ出た。
それから幾年かが過ぎた。危機は去らずに変わった世界に人々が慣れた。八百万の神も漸くに河原に集まって、太鼓の音や酒酔の声を響かせて神懸りの舞を捧げることができた。天岩戸生活に飽いた天照大神も、ひょっこり顔を出す。新しい日々が始まった。
高天原に戻った天照大神は、久々に弟の顔が見たくなった。連絡を取ってみると、
そうして道草で弟の生末を辿ってゆくと、中途で一人の女性と出逢った。
民家の前で地面に横たわる人影にすわ死体かと想いきや、生きていた。小さく呻き声をあげている。抱き上げると、彼女の身体から米が零れた。声をかける。うっと短い声を女性が発すると、粟や麦なども合わせて落ちた。なんと徳深い方だろう。死なせる訳にはいかないと想い、勝手ながら彼女を民家の中に担ぎ入れて看病に就いた。
三日三晩を過ぎて女性が目覚めたとき、天照大神は微睡みの中にいた。か細い声に誘われて夢の中から身を起こすと、女性が笑っている。
看病を有難う。貴女に命を救われました。すっかり嬉しくなった天照大神は、何故倒れていたのか訊いてみる。暴漢に襲われました。荒々しい男で、名は建速須佐之男命と言うらしい。行き倒れた彼に食事を与えたところ、私は暴力を振われたのです。
ぎくっと背筋を凍らせた天照大神。あの愚弟…、懲らしめる必要があるようだ。
私は天照大神、その暴漢は私の弟である。実の姉弟として非常に情けなく思うし、貴女に何と贖罪するべきか。今、私の旅は弟の懲罰に変わった。よければ貴女も来ないか、そして貴女へ贖罪させてみる。女性は首を縦に振った。
ところで貴女の名前は何と云う。私は
貴女の親の名前は何と申す。伊邪那岐です、黙っていましたが、貴女様と私は父を同じにするのです。其れを聴いた天照大神は手を叩いて歓んだが、猶更に弟が赦せない。
母は伊邪那美か。はい、そうです。私は父から生まれたから伊邪那美を知らない、私が生まれた頃には彼女は既に亡くなっていた。生まれる前の二人のことを教えて欲しい。
母は素晴らしい方でした。人徳があって博識で美しい。ふたりは沢山の子宝に恵まれて、この大地に生きる者はみな我らの父と母の愛を受けて生きているんだと、私は思います。遠くから来た者もいる。父母を憎む者もいる。けれども父母が生んだ大地は愛だ。それは皆々に等しく注がれているんだと思わせてくれる方でした、伊邪那美と私たちの父は。
そんな風に二人が話しながら旅を続けていると、各地から弟・建速須佐之男命の様々な噂話が耳に入った。頭八つの大蛇を懲らしめたこと。嫁を貰ったこと。娘をなしたが、恋人と一緒に家を出て行ったこと、その際にはこてんぱんに痛めつけられたらしいこと。
人の世を治める者も変わったそうだ。統治者の多くは男たちで、彼らは我が愚弟等しく小さな席を奪い合っては血飛沫を飛ばしているようだった。その様子を眺めていた天照大神は、何だか自分たちの復讐の旅が虚しくなった。悔しくなった。私は彼らと同じ事をしようとしているのではないか。
長い旅の間で知ったことがある。御伴であるこの大宣都比売が立派な人ということだ。このクニは何処に行っても食べ物で溢れていた。金色に実る稲、痩せた土地に成る蕎麦、砂金のように美しい小麦。どれもが大宣都比売が与えてくれたものらしい。
貴女は今でも愚弟を憎らしく思うか。大宣都比売が答える、いえ悔しさはありますけれど、もうすっかり忘れてしまいたい。血と暴力の連鎖にもう私はうんざりです。でもこうも思います。私の後に続く者の為に戦う必要があるのではと。でもうんざりしてしまった私の拳は、もう突き上げられそうにありません。
この頃私は想うんだ、天照大神がそう云う。何故、父は玉飾りを私にくれて、神の住まう高天原を治めるように命じたのか。私はわからなくなるんだ。私は太陽だ。私は皆に、幸せに、いつまでも健やかに生きて欲しいと願っているよ。でも、民草は憎み合う。せっかく愛し合ったのに、今日ではその愛が民草を蝕んでいるよ。なんで父は、弟たちではなく女である私に支配者の席を譲ったのか。私は父に訊いてみたい。
会いに行きましょう。天照大神の震える握り拳の、ぽたぽたと涙で濡れたやわらかい握り拳をきゅっと両手で握った。お結びをつくるときのように優しく。絹のような肌で。
だから復讐の旅はもう御終いです。二人はそう頷きあって膝をあげた。西方から飛来する物があって、其れは蛇の意趣がある太刀だった。二人は受け取らずに海に捨てた。其の為、太刀は今もそのとき二人がいた関門海峡の海底に眠っているそうだ。
そうして二人は伊邪那岐が住む淡路島に辿り着いた。
お父様いらっしゃいますか。父の住む社に着いて声をあげる天照大神。すると奥から父が、あの頃からちっとも変らぬ壮健な姿のままで現れた。
天照、随分ぶりだね。お前が父の元に向かっていることを私は知っていたよ。ほら、それ。天照の玉飾りを指さして云う。歩く度に鳴るその音が次第に大きくなってくるんだ。その音の大きさに気付く度に私は、愛しの娘に久々に逢えるんだと胸を高鳴らせていたからね。そして隣にいる君も我が娘、大宣都比売。このクニを豊かにしてくれて有難う。
敬愛する父からの言葉に照れて頭を振る二人。それで、何か用があるんだろう?
紅潮させていた頬にさっと緊張を走らせ、天照は父に問う。
何故お父様は私に高天原を統治させたのですか。
なんでも何もないさ。君が適任だったからだよ。君にその能力があったからだよ。
私には能力なんてありません。実際、今だって沢山の人が死んでいる。
ふうむ、と伊邪那岐は鬚を撫でた。ちらと大宣都比売に視線を配る、なぜ見つめられたか判らない大宣都比売は怪訝に父を見つめ返した。二人とも、少しばかり歩こうか。
三人は社を後にして、父を先導に歩いて行った。陽光に碧く輝く木々の下、葉陰が三人の身体を斑に染めていた。風が吹けば潮の風に混ざって、このクニの様々な匂いがした。米や醤油だけではない様々な匂いがした。昔にはなかった匂いだった。其れを大宣都比売は嬉しく想った。
木々の洞窟を抜けると大海原が拓けた。一面が紺碧の海で、水面はきらきらと輝いてその上を幾艘もの船が泳ぐ。波に乗るサーファーの姿もあった。海水浴客も多くいた。
この島はね、そう語りながら海の家で買ったかき氷を手渡される。天照はいちご、大宣都比売には小豆、自身は桃だ。しゃくしゃくと食べながら続きを話す。
高天原を出た私と妻が最初に作った島なんだよ。玉飾りのついた矛を―ほらお前にあげた玉飾りはその矛から取ったものなんだ―*こをろこをろ*と掻き混ぜて出来たんだ。その後、妻と私は求め合った。妻からの誘いだった。
そうして出来た二人の初めての子だったが、骨がなく蛭のような身体をしていた。妻は泣いたよ。もちろん私も。互いに身を寄せ合って、この涙がどちらの涙なのかわからなくなるくらい泣いた。そんな私たちに皆が云うんだ。妻の方から寝所に誘ったからだろうって。だから罰がくだったんだって。私は心底腹が立ったよ。そんなことを云う連中に腹が立ったし、何よりも骨がない位で我が子を流してしまった自分を軽蔑したよ。
そして暫くして妻も失った。あれは私が殺したようなものだ。お前を生んだのはその帰りだった、血や脂や蛆虫を祓っているときにお前は生まれた。弟二人と一緒にね。
だから私は、お前にこの席を譲りたいと思った。其れは妻と初めての子への贖罪なのかもしれないね。でも腹積もりを決めたのは、お前がお前だからだよ天照。お前が太陽のような人だからだ。月読命は、性格的に夜の世界が合っている。建速須佐之男命は…あれは駄目だ。世間ぢゃあ英雄ともてはやす者もいるが、あれはただの人泣かせだ。その件、愚息が傷つけて申し訳なかった。伊邪那岐はそう云うと大宣都比売に深々と頭を下げた。そうして再び天照を見て云った、お前は人の痛みがわかるね、民草の命を大切に想っているね、それが肝心なんだ、素質なんだ。喋り通した父の掌の上では、溶けたかき氷が薄桃色の池をつくっていた。
天照大神よ私も父と同じに想います、大宣都比売もそう云った。
でも私は真の勇気とは大宣都比売にこそあると想います、天照が答える。彼女こそが、真の勇者だと私は想うのです。
ああ私もそう想うよ、父として誇らしく想っているよ。そしてその気持ちを大切にしようぢゃないか。私たちは違うのだから、その違いこそを褒め認めあおうよ。
そう云うと、父は掌を天照の方に向けた。玉飾りをくれないかと云うので、天照は結いていた髪から外した。天照の長く艶めいた髪が解けて風に舞った。
受け取った父は玉飾りを土に植えた。新芽がなる。一粒は桜に。もう一粒は牡丹と薔薇に。その他にも木槿をはじめ様々な美しい花が咲いた。天照大神の胸が激しく高鳴った。彼女の中から悩みなんてとうに消えていた。
さあ新しい日々だ。とうに来ていた新しい日々を始めるのだ。彼女がそう力強く謳うと、伊邪那岐と大宣都比売が頷いた。鮮やかな花々もその声に花弁を揺らしていた。
しばらく経って遠雷の音が響き始めた。どこかで雷が鳴っている。風には雨の香りが混ざり始め、人々は丘に上がり始めた。海の向こうには黒々とした巨大な雲が浮かんでいる。風の向きはこちらに向いているが、やがて来るか逸れるかは三人にも判らない。
STAY HOME 古事記 もりめろん @morimelon
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