第30話 真夜中の怪音
玲奈はすっかりと静まり返った薄暗い部屋の隅っこで、寝間着姿でうずくまっていた。
ちょうど玲奈の正反対の位置にある出入口の扉。
その奥には広い館の廊下が広がっている。
その廊下の方からだろうか。
ずるずると先程から何かを引きずる鈍い音が聞こえてくる。
玲奈は恐ろしさのあまり、顔を自らの腕の中にうずめた。
やめて。やめて。
玲奈の心の中にその一言だけが延々とこだましている。
しかし、玲奈のその心の中の言葉を無視するかのように、ずるずると何かを引きずる音が玲奈のいる部屋へと近づいてくる。
その正体がまるでわかっているような、わかっていないような不思議な感覚。
ずる。
玲奈の部屋の前でそのひきずる音が止まった。
玲奈の心臓も止まらんばかりだった。
何者かが扉を挟んで、そこにいる。
「やめて」
思わず自分の腕の中で力を込めて叫ぶ玲奈。
と、次の瞬間にその不思議な気配が全て消え去った気がした。
腕の中に自らの顔をくるみながら、ぶるぶると震える玲奈。
しかし、気配が消えたのを察知し、玲奈はおそるおそる顔を上げてみた。
血まみれの幾重にも折り重なる細切れの新聞紙。
ぎょろりとした大きな黒い2つの目。
真っ赤なリボンのついた黒いハット。
そして、不気味な笑顔とともに映るのは、真っ赤に染まる歯と金属のぎらついた歯列矯正器具。
玲奈は悲鳴にならない悲鳴を上げて気を失った。
「おねえ!」
深夜、唐突な短い悲鳴によって和那は叩き起こされた。
瞼の重い、ふらつく意識の中で、目をこすって起き上がる和那。
ハッと我に返って布団の中から飛び起きる。視界はまだかすんでいた。
「玲奈ちゃん?」
和那は布団を蹴散らすように跳ね起きると、隣の部屋で寝ているはずの玲奈の元へと急いだ。
ひっそりと静まり返った薄暗い廊下へ飛び出し、真隣の玲奈の部屋の中へ。
扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んだ。
と、ベッドの上でブルブルと震えている小さな寝間着姿の体があった。
和那はすぐさま駆け寄る。恐怖におののき、引きつった表情で布団の中を見つめる玲奈。
目を瞑るではなく、何かを一心に見つめている。
その様子が事の重大さを物語っている気がした。
和那はドキドキしながら尋ねる。
「玲奈ちゃん。大丈夫?」
和那は寝間着姿の腰を揺り起こした。
まただ。和那は思った。
この子は何かにすごく怯えているんだ。
おそらく、母親の交際相手からの暴行の話は聞いていたから、おそらく、そのおぞましい記憶と戦っているんだ。
この、まだ15歳になったばかりの少女では対処しきれない傷となって、夜中寝ている時に記憶を整理して現れるのだ。
その度に、和那は玲奈の小さな体をそっと抱き締めた。今日もそうだ。
「もう大丈夫ですよ」
嗚咽の音が室内に響く。
和那は優しく玲奈の丸まった背中を撫でる。
この玲奈を苦しめる記憶がなくなることはないのかもしれないが、少なくともそれが薄まるまでは私が傍にいてあげなければ。
和那はそう感じていた。
「おねえ、怖い」
玲奈がすっと起き上がって、涙でぐしゃぐしゃの顔で和那の胸元に飛び込んできた。
和那の胸元は温かかった。そして、玲奈は泣きじゃくりながら奇妙な言葉を呪文のようにつぶやいた。
「ホタルイカが。ホタルイカが」
和那は最初、玲奈が何を言っているのか全く理解できなかった。
ここにまさか日本中を恐怖のどん底に陥れたあの怪人がいるはずなどない。
ましてや玲奈の最大の敵であるはずだ。おそらくホタルイカの怖い夢でも見たのだろう。
落ち着いた玲奈を和那の部屋に連れていき、一緒に布団に入って寝かしつけた。
そして、電気をつけずに自室のノートパソコンをゆっくりと起動させた。
薄暗い室内に映し出される画面のブルーライトを浴びながら、和那は真剣な表情でキーボードとマウスを操作していた。
南銀座通りの雑居ビル内にて、美稀と一緒に玲奈を見つけた時、玲奈が言っていたこと。
ホタルイカに交際相手を殺されたということ。
そのホタルイカに対して並々ならぬ復讐心を抱いていること。
和那の頭の中に記憶が舞い戻ってきた。
過去のホタルイカの事件遍歴について調べていた。
まとめサイトがあったので、このサイトを閲覧してみる。
最初の事件となるのは今から7年前。
埼玉県上尾市での警察官殺人事件。
職務質問をしようとした警察官を振り切る際に、取っ組み合いになり殺害。
一緒に発見された男子高校生も刃物により重傷を負わされた。
これが確認される最初の事件と言われている。
次に飛んで4年前。
愛知県の男子高校生が繁華街の裏路地で銃殺されているのが発見された。
その手に握られていた1枚の手紙。
「裏切者には死を ホタルイカ」。
という謎の手紙を残したことが初めての高校生殺害だと言われる。
そして、1年後には大阪府豊中市でも女子高校生が住宅街の一角で銃殺死体となって発見された。
女子高生の持っていた手帳の中に似たような文面の手紙が発見されている。
その後、東京都と神奈川県で1人ずつ銃殺死体となって発見された高校生。
そして、今回の大宮での銃殺死体となって発見された熊田健吾の遺体付近からも、内容は違えど同様の手紙が発見されていた。
目撃者は基本どの事件にも存在しているらしい。
しかし、目撃者の情報に全く一貫性がなく、身体的特徴も全てバラバラ。
その原因となっているのが変装の達人であることらしい。
堂々と似たような手口で殺人を犯していくスタイルは、ある意味警察への挑戦状とも取れた。
ホタルイカはロスト・チャイルド現象の関係者として見られているが、今現在は全く新しい情報というのが出てこない。
まるで嘲るかのように証拠という証拠を堂々と残し、得意の変装術と脱走劇で逃げ切ってしまう。
和那はパソコン画面にしばし釘付けになっていた。
恐怖のあまり、血の気が引いていくのを感じる。
そんな恐ろしい奴に目をつけられてしまったら一溜りもないだろう。
玲奈はそんな恐ろしい怪人に立ち向かう気なのだろうか。
和那はすっかりと安らかな寝息を立てている玲奈に目を向けた。
今では可愛らしい寝顔を浮かべている。和那は微笑んだ。
カタン。
廊下からであろうか。
何かが跳ねるような物音がした。
ビクッと震える和那。
恐怖のあまり体が硬直して動かない。
ガタガタ。
また廊下の方で物音。
まるで、和那を誘うかのような振動音。
和那は唾をごくりと飲み込んだ。
その後に訪れる静寂が不気味さを加速させる。
和那は自室の扉を睨みつけたまま、ゆっくりと立ち上がった。
足音を立てないように、扉へゆっくり歩を進める。
扉の取っ手に手をかけた。
ここで、和那は扉の向こうに初めて人の気配を感じた。
言葉にはできないが、誰かが息を殺して立っている。
和那は思わず手を引っ込める。
汗が頬を伝う。
扉の向こうの人物はまるで和那を待っているかのように、立ち尽くしているような不思議な感覚。
和那は怖かった。
でも、この扉の向こうにいる何者かが玲奈を苦しめているのであれば、私が助けなければ。
和那は部屋の隅に置かれていた箒を発見した。
箒を片手に構えて、もう片手で扉の取っ手に手をかけた。
心の準備はいい?
和那は自分にそう言い聞かせ、荒ぶる鼓動を押さえつけた。
大丈夫。落ち着いて。
何かあったら、すぐに警察を呼べばいい。
和那は目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
ガチャ!
一気に扉を開けて、廊下へと飛び出す。
しかし、周囲をぐるりと見渡しても、薄暗い廊下が端まで続いているだけで、何の姿も見当たらなかった。
和那はぐっしょりと汗まみれになった顔を拭い去り、安堵の溜息をついた。
朝を迎えた。
和那と玲奈は同じベッドにくるまって寄り添うようにして眠っていた。
和那が鳥のさえずりによって目を覚ます。
和那は朝食の準備に取り掛かるべく、階下に足を運ぶ。
昨夜はドッと疲れてしまったので、今日はトーストでいいかなと思いつつ、階段を下りていく。
簡単に朝食の準備をして、玲奈が起きてくるのを待つが、未だに降りてこない。
おかしい。
和那は首をひねる。
いつもだと、朝食の準備中にいそいそと階段を下りてきて、途中から玲奈が準備を手伝ったり、洗い物をしたりするのであるが、今日は全く階下に降りてくる気配はなかった。
和那は慌てて階段を駆け上がった。
自室の扉を開けると、まだ玲奈が寝ている。
しかし、様子がおかしい。
どういうことか、頬が紅潮していて息がだいぶ激しくなっている。
熱か。和那は玲奈の額に手をやった。
燃えるように熱い。それに体も汗でぐっしょりとしている。
これは医者に連れて行かなければいけないだろう。
和那はすぐさま学校に欠席の連絡を入れると、1人で朝食をとった。
その後、玲奈を起こし、医者へと連れて行った。
内科医の待合室はやや混雑している様子だった。
中には高校生と思しき姿も見られた。
ざわついた構内を見つめながら、和那は受付の窓口へと向かう。
玲奈の保険証と診察券を見せて、待合の席で待つ。
熱を測りつつ、和那は優しく声を掛ける。
体温計が鳴り響き、39℃の熱が計測された。
「相内さん、お熱いかがですか」
看護師の明朗な声に再び和那は窓口へと向かう。
体温計を渡し、診察までの時間を待つ。
長い時間に感じられた。
玲奈はすっかりぐったりとしていて、疲れた様子を隠せずにいた。
和那の不安は次第に大きくなっていた。
「相内さんどうぞ」
呼ばれて入った診察室に、眼鏡の気難しそうな中年男性医師が座っていた。
症状を簡潔に伝え、診察に入る。
鼻、喉、お腹をキッチリとチェックしてもらい、インフルエンザではないことを告げられる。
しばらく男性医師がうーんと考え込むような仕草を見せ、口を開いた。
「疲れ、ですかね。慣れない環境のせいかストレスもちょっとあるのだと思います。細菌を殺す強めの薬を出しておきますね。ゆっくりと2~3日休んでください」
「わかりました、ありがとうございます」
和那はペコリと頭を下げてお辞儀する。
病院を後にし、スーパーで買い物をすることにする。
玲奈を出入口付近のイートインスペースに座らせておき、和那はゆっくりと買い物をする。
野菜と体に良さそうなものを購入し、飲料も十二分に買い出ししておく。
鮮魚コーナーをまわったところで、和那はムッとした表情をつくった。
ペシッと軽く値札を叩く。
そこにはホタルイカが綺麗に並べられていた。
家に帰り、2階にて玲奈を寝かしつける。
和那はゆっくりと部屋の清掃をしながら、1日を過ごした。
学校の友達からも連絡をもらい、学校の様子を伝え聞く。
リビングで自分の勉強を進めていると、ちょうど頭上の部屋からギシギシと軋むような音が聞こえてきた。
和那はおかしいと思った。
玲奈が起きてきたのかもしれないが、玲奈の部屋はもっと東であり、頭上の部屋はしばらく使用していない部屋である。
また、言い知れぬ不安がよぎる。
和那は再び教科書に目を走らせることにした。
しかし、またしばらくして、ギシギシ。部屋中を歩き回るような音が聞こえる。
和那はいよいよ緊張の色を隠せなくなってきた。
和那は慌てて階段を駆け上がる。
まず、玲奈の部屋へ向かう。
扉を静かに開けると、安らかな寝息が聞こえている。
ベッドの上にはすっかり寝入っている玲奈の可愛らしい寝顔がそこにはあった。
和那は微笑んで、扉をゆっくりと閉める。
そして、いよいよおかしくなってきた。
ちょうどリビングルームの上にあたる部屋はこの部屋の3つ4つ西隣の部屋である。
和那は何故か所持する武器としてハンディモップを選択した。
和那は意を決してハンディモップを片手に、廊下を西へと突き進んでいく。
まず、玲奈の部屋から3つ右隣の部屋。扉の取っ手に手を掛ける。一気に開ける。
そこには、人の気配は全く何もなかった。
真っ白いカーテンに、布団すら引かれていないベッド。
何年も前から止まっている風景だ。少なくとも和那が小学生の頃からだ。
和那は扉を強く閉める。
そして、もう1つの隣の部屋へと歩を進める。
奇妙な緊張感が走る。
この奥に何かが立ちはだかっていそうな。
そんな不思議な威圧感を感じる。
和那は扉の取っ手に手を掛けた。そして、そのまま一気に開いた。
しかし、そこには誰も何も見当たらなかった。
隣の部屋と同じ、白いカーテンと布団すら引かれていないベッド。
何も残っていない。
ふうと和那が安堵の溜息をこぼす。
扉を閉めようとしたその瞬間、最奥の、自分たちの部屋と真反対の廊下の突き当りに黒い影がスッとよぎった、ような気がした。
和那はハッと我に返ってその最奥の廊下に視線を送った。
しかし、そこには、何も見当たらなかった。
心臓の鼓動だけが不気味にトクトクと鳴り続けていた。
目の錯覚か。
和那は唾をごくりと飲み込んだ。
廊下の軋む音が妙に大きく聞こえる。
気持ち悪いくらい心臓の動きが速い。
最奥の部屋が祖母の部屋。
そして、その東隣が祖父の部屋だった。
和那は祖父の部屋の前に立った。
緊張が走る。
東奥の自室が遥か彼方に見える。
この部屋までは正直ほとんど来ることがない。
1ヶ月に1回来るか来ないかの頻度だ。
掃除のために来るが、その掃除もホコリ取りなどの簡易的なものだ。
和那は取っ手を強く握った。
深く息を吸い込む。
この中にさっきの黒い影がいるのか。
ガチャ。
まるで、鼓膜のすぐ横で鳴ったような大きく響くドアノブの軋む音に驚く。
部屋の窓の外からは正午を告げる陽光が古びた絨毯に降り注ぐ。
部屋の右奥にそびえる本棚は整然としており、手前の洋服用クローゼットには、洋服の他にも祖父の趣味と思われるカメラがたくさん棚に置かれていた。
それらにはホコリが満遍なく降りかかっていた。
こういうところも掃除しなければ。
和那は思った。
しかし、怪しいものは何も見当たらなかった。
続いて最奥の祖母の部屋である。
和那は取っ手を握って一気に開いた。
人の気配、はなかった。
祖父の部屋よりも心なしか暗く感じてしまうこの部屋だったが、祖父の部屋同様、洋服用クローゼットの中には祖母の着ていた洋服が整然と並んでいるだけだった。
祖父とは違い、多くの洋服を所有していた祖母。
クローゼットの中の洋服も手前と奥で3列になっていた。
一部ホコリにまみれた洋服があったが、最奥の洋服は比較的綺麗だった。
和那はほっと胸を撫で下ろした。
Mysterious ROAD dear12 @dear12
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