円環と平行

宇津喜 十一

円環と平行

 その男は土に濡れていた。

 欠伸あくびを数回、その後、腕を空へ伸ばす。背筋をほぐして、腕を下ろすのと同じタイミングで息を吐いた。白い息だった。

 爪に入った土は湿っていたのが乾いて、幾らかぱらぱらと落ちていった。こんなにも手を土だらけにして汚したのはいつ以来だろうかと男は過去を覗く。

 子供の時分、泥団子を作って売る、お店屋さんごっこをした事を思い出した。不揃いな大きさの泥団子は一つも売れやしなかったけれど、土を捏ねくりまわすだけで楽しかった。きっと今だって、泥団子を綺麗に作れない。

 男は土を握った。地表より深い穴の中の土は湿っていて、硬く冷たい。引っ掻いて掘り出して手の平に収まるくらいの量になると、男はそれを握った。おにぎりを作る時よりも遠慮なく握った。はみ出した土が落ちていく。気にせず丸める。久々に作った泥団子はあの頃のままの不恰好さで、一人で笑い声を潜めた。震える体に合わせて伸ばしっぱなしの髪が揺れた。

 土に濡れている。

 男は手を洗いたくなった。でも、どうせならこのまま全身泥だらけになってしまいたくもあった。今後こんな機会はそうそうないだろうからと言い訳して、男は地面に掘られた穴の中でそのまま横になった。男の背にちょうど良く収まる大きさだ。何だか得意げになって、口の端を上げる。どんな顔をしたって、こんな時間に周りに人等いる訳がないから構わないだろう。

 男の目線の先には狭い空。月が浩々こうこうと光る寒空は、まるでその通りで男は詩人のような気分になった。この完全なる景色を、過去の歌人はどう詠っていたか。いや違う。雲のない月夜よりも、雲で見えない月の方がきっと美しい。いつだって、見えていない物の方が美しいから、人は雨夜の月を想う。

 土に濡れていた。

 穴から起き出した誰かは、この美しくも不完全な月夜をどう過ごしているだろう。足跡だけを残して、その人は消えてしまった。

 穴倉の中で息をせずに眠る誰かには首筋に傷があった。それはお約束の印だったのか、はたまた致命傷だったのか、今はもう分かりようもない。

 途方に暮れるばかりで、男は、私は、土に濡れていた。

 私は戸惑いを覚えた。何故自分がここにいるのかわからないでいる。

 欠伸あくびをした。続けてくしゃみをした。その勢いで内蔵がひっくり返るような予感がして、怖くなった。

 瞬きをする。指先の感覚が寒さで遠くなる。足先はとっくのとうに冷え切っている。息を吐いた。白い息。

 全て放り出して、このまま眠ってしまいたくなった。もし凍えても、ここに花や食べ物を持って時折訪れるご老人の誰かが私を見つけてくれる筈だ。もしそうなったら、愚かだと笑うだろうか。笑って済むならそれで良い。

 それが半刻前の事だったか、昨日の事だったか。時間の感覚がぼやけていて分からない。埋葬方法が火葬になって以来、人魂が見られなくなった墓場に人気ひとけはなく、夜には避けられる場所でもあるから、何をしても朝まで気付かれる事はないだろうと思われた。だから、掘ったのだ。素手で、道具も使わず。ならされた地面は手強く、私はすぐに諦めた。そして、近くの納屋からスコップを拝借して、作業を再開した。さくりという音は次第に無くなり、一層暗い土が覗く。底をずっと見ていると、引き摺り込まれそうな気がした。誰に。それは誰かに。はたまた誰に。

 途切れ途切れでありながら、絶え間なく続く思考に終止符を打つのだ。

 感覚ばかり肥大化していくだけの成長は、私の肉体に衰弱をもたらした。

 「目を閉じても、自分だとわかる感覚は大切ですよ、きっとね。」

 そう言ったのは誰だったか。振り返す誰某を夜の彼方へと押し込めようとして、月に目が眩んで、目を閉じた。

 すぐ闇に飲み込まれて境界線は無くなった。一体だ。目を凝らせばよりわかる。この暗闇は私であり、私でなく。私は私であり、私でない。酷く懐かしい心地がして安らいだ。意識が溶け合う。暗闇の意識と私の意識は飲み込み飲まれて、静けさがゆっくりと混ざり合う。弧を描き、あらゆる物を溶かした暗闇は唯在る。かくあれと言われる事もなく、一つの原始として私は唯在る。その時の暗闇は、影を繋いで何処までも行けた。

 娘は岸辺に立つ。桟橋に立つ。水面に立つ。そしてその身は沈んでいく。向かいの岸では笑い声が絶えない。

 預言の雨に打たれ、無痛の針に刺される。電子の新生児は泣きながら笑う。肘の傷ばかり生々しく。

 遠くに迫る荒波に彼らの面影を見た。煤けた木片を抱き締めて、走る女がいた。白髪混じりの髪は短く。

 新世紀の隙間で項垂れる。崩れた屋根の欠片を蹴飛ばして、嘆きの鎮魂をなす。荒れた大地に恵みを渡せ。

 時空の彼方、奇跡の果て、願いによって形作られるそれは涙を流す。今も、昔も、未来さえも見通す力の為に。

 私は目を開けた。そこは穴の中だった。

 人の身では未来を知り得ぬなら、過去へ行こう。そうして、何度目かのもう一度を振り返り、平行の蹉跌さてつを把握しよう。

 そして、私達がどうして穴の中にいるのか探索しよう。





 二ヶ月前。

 人は鳴く。

 口さがない老人はちらりとこちらを見て言った。「ありゃ、あそこの家の……。ほら、あの。」口さがない老女はそれに答えて言った。「そう言うもんでないですよ。可哀想な人です。一編に失っちまったんですから。」

 彼らの、口を端まで開けずに喋る様を私は物珍しく見ていた。唾液が絡まっているねっとりとした言葉を彼らは交換して、一つの認識を確かめ合う。

 その横を通り過ぎ、街角の煙草屋で私は一箱購入した。吸う習慣はなかったが、匂いのある煙を何故だか欲していた。適当に買った銘柄も知らない灰色のもやが霜月の空に登るのを、咥えずにただ見ていた。垣根の縁に座り、かすみの向こうの人の川を見た。浅葱色あさぎいろが視界に入った。知り合いの絵描きも、先程の老人達も煙草を吸わなかった事を思い出した。

 皆が肩を硬くする寒々しい鼠色の街角で、栄えある明日を信じているのは、今、喫茶店の前を紳士服に身を包みゆっくり歩く、頭頂部の禿げた白髪混じりの男だけのように思われた。男は右手で杖をつき、左手で帽子を持ちながら、前を見て歩いていた。しわで狭まった視界はどんな景色だろう。私はその男と話してみたいと不意に思った。しかし、男は停車場へと向かっており、いつしか人混みに飲まれて見えなくなった。その男を見かけたのはそれっきりだ。だが、全ての私はその男を見る。

 口さがない老人は言う。「あの男はあそこの家の一人息子だ。一人だけ生き残ったんだ。」家の中で手の荒れた女は言う。「あの人は仕事は出来るけど、実につまらない男です。」幼かった娘は言う。「お父様には感謝しているけれど 、私は寂しかった、もっと遊んで欲しかった。」

 或いは、家の中の手の荒れていない女は言う。「あの人は口下手で、そこが可愛らしいのよ。」幼かった娘は言う。「お父様には感謝しているけれど、私は寂しかった、もっと遊んで欲しかった。」

 それは辿り着けない平行の言葉。





 一ヶ月前。

 混沌から湧き上がる濁流を描いたあの絵描きは、希望に満ちていた。あの濁流に乗って、彼はやってきた。だから、その混沌を不潔と断じる事はしなかった。

 一見無法でも、それは我々とは異なる規則があるのだとその絵描きは知っていた。寛容も拒絶もなく、理解も無知もなく、唯それをそれとして受け入れる弱さを絵描きは持っていた。

 ボロ家に住むその絵描きは、貧乏で借金に塗れていたが、いつもどこか楽しそうだった。幼い頃に沸かした薬缶やかんをひっくり返して出来たという左手の火傷痕を、いつも気にして長袖を着ていたが、絵を描く時は邪魔なのか袖をまくって晒していた。

 私が訪ねた時も絵描きは袖をまくって、青い絵を描いていた。面皰にきびの痕が残る顔は人懐っこく、年の割に若く見えた。

 私は停車場で見かけた男の話を彼にした。

 彼はふざけて言った。

「運命の人だったんですよ、きっと。」

 私が「冗談じゃない。」と返すと、彼は「でも、何故か気になったんでしょう。そういうのは大事にした方がいいですよ、きっとね。」と言った。笑う顔を眺めながら、お茶も出ない家で私は何を話しているのだろうと思った。このような取り留めもない、意味のわからない話でもちゃんと聞いてくれるのはこの絵描きぐらいのもので、それは彼の美点であるが欠点でもあった。

 彼の貧乏の理由は、その不安定な職業である他に、人の話を何でも聞いて信じてしまう純真さにあった。相談などされるとその話の真偽を疑わずに力になろうとする。それで騙された事が何度もあるのだが、そう生まれついた性分というものはなかなかに変わるものでないのだろう。

 その為、彼にこういったよく分からない話はしないようにと思っていたのだが、つい話してしまっていた。それ程に気になったということなのか自分でも不思議であった。

 その日はそれで別れた。以降、彼と話す事はなかった。

 師走の空の下で、私は荒らされたボロ家を一目見て、足を止める事なく通り過ぎた。街角でまた煙草を一箱買って、一本咥えた。浅葱色あさぎいろは見当たらず、地味な色合いが流れた。火をつける。なかなかつかない。白髪の男はいない。ふと目に付いた。私の着物の柄の中に浅葱色あさぎいろがある。私は家に帰る事にした。





 泥団子を私は持っていた。

 穴の中の私は多くの記憶を持て余し、それを処理しきれずにいた。だが、その絵描きの事は確かに覚えている。

 訪ねる度に、柔和な人の良さそうな笑みを浮かべて迎え入れてくれた。お茶は出なかったが、それが気にならない程、彼との会話は心地が良かった。

 彼は時折、誰かに貰ったと言って、高そうなお菓子をくれた。その時ばかりは水道水をご馳走して貰った。あれは、誰から貰ったのだろう。

 決して裕福と言えない彼だから、貰ったと言うのは本当の事だろう。だが、そのとっておきの数少ないお菓子を私に渡したのは何故だったのだろう。

 私の話を聞いてくれたのは何故だったのだろう。何も持たない私を笑顔で迎えてくれたのは何故だったのだろう。

 もし、荒らされたボロ家を確認していたら、何かが変わったろうか。もし、彼と友になれていたら、私という人間は変われたろうか。私の可能性は閉ざされず、白髪の男に追いつけたろうか。

 静かな墓地は小さな反響音を鳴らしながら、生者の侵入を拒んでいる。





 一年と三ヶ月前。

 家に帰ると、台所から規則正しい包丁の音が聞こえてきた。

 とんとん、とんとん。小気味の良い音はずっと聞いていたいと思わされた。音の元へ声を掛けると、「あら、お帰りですか。今日は秋刀魚ですよ。旬ですから。」と言う明るい声と共に台所から顔の無い女が顔を覗かせた。その髪留めの色は浅葱色あさぎいろだった。そして、その女の足元にはやはり顔の無い浅葱色あさぎいろの服を着た女の子がいた。

 私は女の子にも「ただいま。」と言ってから、自室へ行って上着を脱ぎ、衣紋掛えもんかけに掛けた。煙草は胸ポケットの中に入ったままだ。部屋着に着替え、居間へ向かう。

 いつもの場所に座っていると、顔の無い女は私の前にお茶を置く。薄い色をした緑茶だ。ゆらゆらと湯気が上がる。

 ここは私の家なのだろうか。居心地がよく、自身慣れた仕草で諸々行う。女は私の向かいに座って、桜の模様がある私のものより細身の湯飲みに口をつけた。そして、「ほう」と息を吐いた。浅葱色あさぎいろの服を着た娘が、女の横に座った。そして少し寄りかかる。女は娘をちらりと見ただけで、私の方へ顔を向けた。

「ねえ、あの煙草屋の角を曲がった先、少し歩いて、郵便局の手前の道、通ったことあるかしら。」

「あることはあるが、それがどうしたんだ。」

「今度そこに、美味しいお店が出来たのですって。」

「そうか。」

 女の言いたい事が、私にはいまいちわからなかった。様子を窺うべく顔を見ると、少し太めで尻の下がった眉の、愛嬌のある顔があった。そうだ、この顔だったと今更思う。笑うと笑窪えくぼが出来るのだ。その特徴は娘にも受け継がれている。そうだ、そうだ。ここは私の家だ。病気で死んだ父から貰った家だ。そこの柱には幼い私と仲の良かった近所の子供の、そして娘の成長の印が刻まれている。小さい頃は木目が人の顔に見えて、夜一人でこの柱の前を通るのが嫌いだった。だから、夜中に厠へ行く時は毎回母を起こした。その母も、父と同じ病でこの世を去った。

「ねえ、行ってみませんか。」

 妻が遠慮がちに言う。

「どこにだ。」「もう。そのお店ですよ。」「あ、ああ。」「行ってみたいよね。」娘に促すように妻が問うと、話がわかっているのかどうなのか「うん。」と娘はぬいぐるみの手を掴みながら言った。

「じゃあ、今度行ってみようか。何時いつからやってるんだ。」

「時間はわかりませんけど、夜もやってるんじゃないかしら。」





 泥団子を私は持っていた。目の前には出来過ぎた夜空があった。鼓動がやけに五月蝿い。

 何故、私は妻子の顔を忘れたのだろう。私の記憶でありながら、それは私にも予想がつかない程に捻じ曲がり、混ざり合っている。いや、これは私達の記憶と呼ぶべきだ。

 俯瞰する私は私に言う。「それは狂気の代償だ。」と。私は狂っていたのか、口さがない老人の言う通り。他人事のように思い出すのに、己が事として受け取る心に、戸惑いを隠せずにいる。私は狂っていたのか。記憶にないから思い出す事は適わない。俯瞰する私も同じ事。例え二つの視界を用いても、無い物を見る事は出来ない。

 仰臥ぎょうがし、見上げる双眼は一つ、しかし、私は空に物見遊山の双眼を持っていた。遥か上から穴の中の私を含めて俯瞰するその視線は、私が物心つく頃には既にいた。意識は一つでありながら、目だけが二方向に向いていた。

 数多の平行上の私達の人生を知る私は、漸くそれなりの納得をした。私は走馬灯を見ているだろう。夥しい程の閉ざされた可能性達の走馬灯を。その為に時系列が混線しているのだ。何時いつ終わるのか。朝まで終わらないのか。しかし、もう少しだけ思い出したって構わないだろう。大した事のない私の人生など、どうせすぐ終わるのだろうし、その中に私がここにいる理由もあるかもわからない。

 途切れ途切れでありながら、絶え間なく続く思考は、もやの中を進む。私は具体的な言葉を持っていなかったが、うっすらと等しく私達に訪れる何かを分かっていた。一年と三ヶ月前。ここが分岐点だったのだと。




 明日。

 一人の男の死体が見つかった。

 その死体はその男の家の庭に掘られた大きな穴の中にあり、首に包丁が刺さっていた。警察は早々に自殺と決定づけたようである。と言うのは、凶器の包丁や腕の向きから他殺ではないと見られる上、その男は前々から様子がおかしく、死体が発見された前夜にスコップを持った挙動不審な男が庭にいる所を近隣住民が目撃していたからである。

 男には妻子がいたが、約一年前に二人とも自動車事故で亡くしており、それ以来とても落ち込み、すっかり豹変してしまったのだそうだ。彼に親族はおらず、妻方の両親も高齢な上に遠方で、世話などは到底出来そうになかった。周りの人間も初めは世話をしたが、男が仕事を失った頃からはもう手に余り、遠巻きにしていたようだ。

 その果ての自殺。男は周りに頻りに「辿り着けない、辿り着けない。」と言っていたと言う。新聞や世間の人間は、男は妻子の元へ行きたかったのだと、お涙頂戴路線へと向かっている。





 泥団子を私は持っていなかった。目の前には薄藍の空。

 私は起き上がって墓穴から抜け出そうとした。しかし、深い穴の縁は私の伸ばした手の先にあった。

 私は初めからここにいた。どこからでもなく、最初からこの墓穴で黒髪のまま死んで行く私達を待っていた。

 私達の走馬灯を見る為に。辿り着けなかった私達を慰める為に。抜け出す私達を引き摺り落とす為に。

 大工だった私も、作家だった私も、兵士だった私も、記者だった私も、医者だった私も、運転手だった私も、何にもなれなかった私も、辿る私の全てが終わりに見るのは同じ夢。どれも白髪の男には追いつけずに落ち、土に濡れ、そして亡霊となった私が私の墓を暴く。

 果たして、平行を辿る私達は老い損ねた。

 ここはパラレルの終着点。彷徨う周回の安置所。死んだ尾を食む大蛇の腹の中。

 そして、また、土に濡れる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

円環と平行 宇津喜 十一 @asdf00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説