幽明境にて。

宇津喜 十一

幽明境にて。

 水面は穏やかに揺れる。

 月が光を反射して存在するなら、その月の影を受けて浮かぶ水面の月は、なんと曖昧なことだろう。儚く揺らめいて、今にも溶けて消えてしまいそうだ。しかし、確かにこの目に映っている。

 暗色が世界を覆い、散りばめられた星々が静かに煌めく。

 平らかな岩が一つ水面から顔を出し、その上に立つ私の足に、時折緩やかに波が当たる。白く飛沫が散ることもない。

 天には闇と星と月。水面には私と星と月。遠くを眺めていると、天も水面も混じり合い、私だけが一人取り残されるような心地がした。

 流れがあるのか、花弁の小さな舟がこの星海に漕ぎ入れる。芳しい香が漂い、私の衣に纏わりつく。

 漣の音すらない。静謐の世界。

 一歩、足を踏み出すと、漸く世界に音が響いた。水を裂いて、私は歩く。水底は角の無い大きな石が敷き詰められている。躓いて怪我をする心配はなさそうだ。

 歩みを進める度に、私を中心に波紋が広がっていく。それは私が立ち止まっても暫く残り、次第に消え、また静寂が訪れる。

 目の前には果ての見えない星の海がどこまでも続いている。どの方向を向いても同じ様な景色で、先程私がいた場所も見えない。水嵩が増した訳でもなし、それは不思議な事ではあったが、この世界にはもう不要だったのだと納得するまでもなくそう思えた。

 どこに向かおう。何を求めるでもなく、唯歩くだけでさざめく世界に打ちひしがれていたいとも思う。私は何処から此処へ辿り着いたのか。それすらも定かでなく、己の名前すらも思い出せない。

 この幽遠なる場所に私は閉じ込められたのだ。自ら此処に赴いたのではないと、微かに思えた。根拠などない。何も確かなものなど、私は持っていないのだ。ならば、このどこでもない深淵に居続ける事になんの障りがあろうか。

 嗚呼、それでも、何かが足りない。

 不意に差し込まれた情念は、自覚すればする程に、ふつふつと際限なく湧き上がり、私を押し沈める。

 何かが恋しい。何かに飢えている。狂おしい程に、何かに焦がれている。

 どこかも分からぬ場所に帰りたい。誰とも分からぬ誰かに会いたい。

 その為なら、刃を首に向けても構わない。



 幽明境にて、

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