雪を溶く熱

新巻へもん

魂まで凍れ

 夕刻から吹き付けていた風がやむ。途端に周囲は静寂に包まれた。雪の降り積もる微かな音は人の耳でとらえるにはあまりに微かで儚い。しんしんと積もる雪というけれど、風が吹いていなければ無音の世界だ。音のない世界ですべては白い雪に埋もれてその存在を消されていく。


 美しくも無機質な死の世界。美冬は冷え切った屋内で膝を抱えて物思いにふける。どうして、このようになってしまったのだろう。世界を侵食する雪よりも白い顔を伏せて、これ以外の生き方が無かったのかを探る。幾千幾万という選択肢があるはずだった。しかし、現実は残酷だ。もう、望まない結果しか目の前には存在しない予感に身を震わせる。


 ランプの光が照らす室内は寒々しい。ほとんど陋屋ろうおくと言ってもいい粗末な家には生活感が無かった。美冬の人となりを表すような私物もない。部屋の隅に置いてある火鉢では灰がすっかり冷たくなっていた。雪にすっぽりと覆われた家は意外と寒くはない。それに美冬は気温の低さは苦にしなかった。


 俯いていた美冬の鋭敏な感覚が、この夜更けに誰かが歩いているのを察知する。やがて家に近づいてくると、積もったばかりの雪を踏みしめるしっかりとした足取りの音も聞こえた。きゅきゅという音が美冬の家の前で止まると戸がほとほとと叩かれる。


 美冬は身を固くするとじっと息をひそめる。しかし、家の戸を叩く音はやまなかった。

「美冬。俺だよ。こんな時間に悪いがちょっとだけ話がしたい」

 想像通りの相手の声を聴いて美冬の顔は暗くなった。


 このまま居留守を続けたいが、そのことに意味がないことも、そう簡単に諦める相手ではないことも分かっていた。物憂げに立ち上がるとつっかけを履いて土間に下りる。心張棒を外すと戸を引いた。寒さに頬を赤くした秋人が白い歯を見せる。自分の身に降り積もった雪を払い落とすと、家の中に入って戸を閉めた。


 秋人は来意を告げる。明朝、大杉峠に行くとだけ言って口をつぐんだ。美冬はそう、とだけ返事をすると同じように口を一文字に引き結ぶ。まるで外の世界の静寂さが家の中にまで入ってきたかのような時がしばらく過ぎた。無言で見つめてくる秋人の視線が耐えられなくなり、美冬はため息と共に先に口を開いた。


「それを言いにわざわざ来たの?」

「ああ。美冬にだけはきちんと自分の口から告げたかった」

「死ぬわよ」

 美冬の言葉は冷たい。


 今まで何度も繰り返されていた会話。毎回結論は変わらない。昔は親しかったのに美冬が秋人と仲違いをした原因もこの話だった。この古関村から県庁に出て行くには大杉峠を越えていくのが一番早い。ただし、春から秋までの期間に限られる。野山が白い化粧をする季節になってから踏み入れるのはこの集落の人々にとって固く戒められていることだった。


 今まで真冬に大杉峠へ上って生きて帰って来た者はほぼいない。その数少ない一人が秋人だった。まだ隣町の尋常小学校に通い始めたばかりの頃、村の弥助と喜三太の3人組で天気のいい日に出かけ、秋人以外の二人は戻らなかった。秋人も何があったのかは語ろうとせず、何があったかは分からずじまいだ。


 子供同士のことなので誰が悪いというわけではなかったが、子供を失った親からすれば、一人戻ってきた秋人がどうしても許せない。その事件の後に、この村に移り住んできた美冬が秋人と知り合った頃には、秋人は周囲から完全に孤立していた。美冬と秋人が一緒に過ごすことが多かったのにはそういう事情があった。


 長じるにつれて、秋人は瞳に暗い炎をたたえて言うようになる。僕はもう一度大杉峠に上って生還してみせる。秋人にしてみれば、生き残ったことに対する罪悪感のようなものがあるらしい。それを払しょくするには、もう一度生還して見せるしかないと思い詰めている節があった。


 美冬は言葉を尽くして秋人を思いとどまらせようとする。過去は変えられないし、せっかく拾った命を無駄にすることはないと説得したが秋人は耳を貸さなかった。しまいには言葉の行き違いから激しい口論となり、その日以来二人はお互いを避けるようになる。


 美冬は悲しみをこめて秋人の姿を眺めやる。秋人を思いとどまらせるためには、秘密を話さなくてはならない。その秘密を知られたら、秋人を生かしておくわけにはいかないし、秋人もその事実を知ったらどのような反応をするのか美冬には分からなかった。完全に手詰まりだ。


 美冬の視線を受けて秋人は踵を返す。戸を開ける直前に振り返った。

「戻ったら……」

 そこまで言うと思い直したように前を向き、戸を開けて振り返らずに出て行った。秋人の足音が聞こえなくなるまでじっとしていた美冬は家を出る。


 薄い着物1枚を着ただけの姿で美冬は歩みを進めた。ゆっくりと降り積もる雪の中、人気の消えた村の中をしずしずと歩く美冬は、四辻で足を止める。秋人の家がある方をしばらく眺めていたが、表情を改めると、大杉峠に向かう道へ向きを変えた。その姿は再び強さを増した風雪に埋もれるようにして消える。


 翌朝、秋人は村の外れで数少ない知己に別れを告げていた。足元はわざわざ東京から取り寄せたゴム長を履いている。この辺りではまだ誰も見たことがない品だ。ゴム長以外にも毛皮をまとい防寒に気を配ったいでたちだった。秋人は村の方を一瞬だけ見やるとほろ苦い笑みを浮かべて遥か彼方に霞む大杉峠に意識を向ける。


 村には薄日が差していたが、大杉峠はきっと雪が降っているに違いない。あの場所が冬に晴れることは無かった。一歩一歩しっかりと足を踏みしめながら秋人は昨夜の雪が積もった道を進んでいく。美冬が見送りに来てくれなかったことは心残りだったが、すべては無事に戻ってからだと気を取り直した。


 その美冬は大杉峠に生えるひときわ高い杉の木のてっぺんから遠い雪道の上の孤影を眺めていた。びゅうと吹き付ける風が眦から涙を吹き飛ばすとそれはたちまちに雪に変わる。美冬の心の中の嵐を反映するかのように周囲の風が強まった。大きな雪片が激しく吹き荒れ秋人の姿を覆い隠す。


 人との恋は実らない。それは分かっていたはずだった。側で見守るだけでよいと思っていた。しかし、それも秋人のこだわりのせいで叶わぬものとなる。見たことを語らぬこと、大杉峠には戻らぬこと。そう約束したのに。


 望みが叶わぬならば、せめて自らの手で愛しい人の命の炎を吹き消そう。その瞬間を思い浮かべて美冬の胸は熱く甘美なものに包まれる。10数年前に秋人の命を助けた時からこうなることを実は望んでいたのかもしれない。美冬の口から凍てつく言葉が漏れた。

「秋人。苦しまないように逝かせてあげるから。だって、それがあなたの望みなんでしょう?」


 


 

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