第十話

 青い光で染まり始めた明け方の空を仰ぐように、燃え上がる大きな火があった。深い海の色の蜘蛛の体表は炎の中で徐々に灰塵となって、重力に逆らって天に吸い込まれていく。それでも、蜘蛛の大きな体は、烈火の中でも鮮明にそのシルエットを残していた。


 ヒトミはその熱気と漂う芳醇とした匂いに気づき、重たい瞼を細く開けた。視線の先にはミナとニオが並んで座っており、篝火が揺らめく様を眺めているようだった。

 静謐な夜明けの空気の中で、ニオの頭はミナの肩にもたれかかって、寂しそうに曲がった背中をヒトミに見せていた。それが何となくいたたまれないような気持ちになり、ヒトミは節々が痛む体に鞭を打って起き上がる。


 うっ、と短い呻き声を上げて上半身を起こすと、いつの間にかかけられていたミナの灰色のコートが肩から滑り落ちる。数少ないミナの優しさの片鱗を見せつけられ、複雑な感情がヒトミの中で湧き上がってくる。

 同時に、顔面に右目の下にじわりと痛みが広がり、ヒトミは無意識に手で発生源を探る。眼球の真下の硬い骨に触れると痛みは強さを増し、ここを蹴られたのだと考える必要もなく理解できた。第三者から見れば、京茄子に似た、青紫色に腫れあがった痣が隈のように目の下に張りついてしまったかと思うだろう。

 そんなことを知る由もないヒトミは一先ず立ち上がり、砂を落とすために全身を軽く叩いた。ただし、髪の毛に潜り込んだ砂だけは頭をブンブンと激しく振るう。借りたコートも軽く砂を払ってから丁寧に折り畳み、ミナとニオの元へ向かう。


 一体何と声をかければいいのか分からず、ヒトミは口の中で独自の言語を反芻しながらミナたちに近づいていく。だが、いざミナに投げかけようとした言葉は、苦しそうに吐き出した空気でしかなく、ヒトミは咄嗟に口を閉じる。あたかも話し方を忘れてしまったような感覚だ。

 何か話さなければと焦るほど、ヒトミの口は酸素を求めて水面に上る魚のようにパクパクと空虚を吐き出すしかできなかった。景色がぐにゃりと曲がり、ミナとニオの輪郭がありえない形に歪む。それでも、ヒトミの声道は頑なに開くことはなかった。


 そんなヒトミの心を読んだかのように「少しは落ち着いたか?」とミナが声をかける。いつの間に振り返っていたミナは、少しあちこちがむくれた仏頂面をヒトミに向けていた。だが、それはヒトミが言語を思い出すのに充分なきっかけになった。


「あ……はい」とヒトミは俯く。目を合わせることへの怖れが、態度でありありと出ていたが、そのまま「その、すみませんでした……」と精気なく謝った。


「別に気にしていない。正常な反応だ」

「正常……なんですか?」


 そうだな、とミナの瞳は正面の炎へと戻る。蜘蛛の横に突き刺さった肉は瑞々しい音を立てていた。長考するまでもなく、ヤコの肉だとヒトミには分かった。


「私たちには共通の記憶がある。戦いの残酷さと卑劣さを知らない、きれいな記憶だ。その記憶をもとに私たちには常識と価値観が作られる……私たちが協力して戦えるように、私たちが意思の疎通に困らないようにと」

「では、なぜ――」

「目の前の現実を見てみろ。記憶とは違って、銃を握り、虫と戦う世界に私たちはいる。そんな常識や価値観が通用しない世界でそれらは何の意味がある? お前に取って、今、何が必要なものを考えてみろ」

「私にとって必要……」

「答えられないだろう」


 そう言いつつ、ミナはヤコの肉を手に取る。そして、それをヒトミの目の前で堂々とかぶりついてみせた。肉汁がだらだらと垂れて地面に斑点を作りだし、生臭い血の匂いが充満する。酸っぱい液が腹の奥から登ってくる気配を悟りつつ、ヒトミは黙ってミナが肉を飲み込むのを待った。


 いつになっても、かみ砕いた肉を胃の中に入る感触はあまり気持ちの良いものではなく、ミナはフゥと気怠げに息を吐く。


「……私は自分の中で答えを出した。この世界は戦いと死で満ち溢れた世界だ。ならば私たちは戦いの中で自分たちの常識と価値観を作るしかない。確かにヤコを喰うことは人間の良俗に反すのだろう。だからと言ってこれが無意味な行動であるわけじゃない。私たちが生き長らえることができる数少ない選択肢だからだ」

「……どういうことです?」

「知っているか? 私たちの地球での稼働時間は最長五年に設定されている」


 ミナの目が真っすぐにヒトミを捉える。鈍い金属のように光る双眼は数々の逝去を見てきた死神の目だった。ゾワリと首筋を誰かに舐められたような冷たい感触にヒトミは戦慄した。


「そ、そんな! でも、あなたは六年も生きてるって……」

「その通り。なぜだと思う?」

「…………それが食べることと関係があるのですか?」


 ミナはこくりと頷く。


「私たちの体は代謝を必要としない。それどころか睡眠や休息もいらない。四十六時中動き回ろうと問題ない。だからと言って、活動し続ければ、常にエネルギーを消費し、果てに死ぬ。乾電池みたいなもんだ。中身がなくなればもうそいつは動かない。だが、人間のような生活をすれば、無駄に消耗することもない。必然的に長生きもする」

「たとえ、仲間の肉を喰らうことになってでもですか?」

「それをどう思うかはお前の勝手だ。実際、喰べるのを拒否する者もいるし、私はお前に強要するつもりは一切ない」


 ミナはもう一口分のヤコを頬張った。明らかに増えたヒトミの眉間の皺の数を数えて、ミナは再び口を開いた。


「納得していないという顔をしているな」

「できるわけありませんよ。ミナさんが言っていることは理解できます。でも、結局自分たちが生き長えるための苦肉の策じゃないですか。どうせみんな死ぬというのに」

「人間は早いか遅いかでいずれは死ぬ生き物だ。ならばそれをベースした私たちだって有限の命しか持てない。その限られた命をどうするかを考えることになる。だが、それを決めるのはおまえ自身だ」

わたし自身、ですか」

「そうだ。遺伝子適合率百パーセントであるからと誰かを模倣する必要性はない。どんなに姿形が似ようとも、これまで私たちの魂がまったく同じであったことは一度もない。現に、おまえわたしだって、物の見方や考え方が異なっている。結局、人間も私たちも完全に分かり合えることは不可能だったんだよ。ならば、自分が正しいと信じた道を突き進むしかない」


 ミナはそう言って、じっとして動かないニオの頭を優しく撫でた。ニオは会話中もずっと眠っていたようだが、両の目頭から頬に向けて引かれた線が、暗に涙の数を物語っていた。

 安らかに、そして哀しげに寝ているニオも、過去に誰かの肉を喰らい、血を啜ったのだろうか。あるいは突きつけられたタイムリミットを前にただ無抵抗でいるだけなのだろうか。泣き腫らした寝顔からは真実を読み取ることはできなかった。


 ニオの頭をそっと地面に乗せ、立ち上がったミナはヒトミと向き合う。彼女の手には一欠片のヤコが握られており、それを無言でヒトミの前に差し出した。その意味をヒトミは瞬時に理解できたが、簡単に手を伸ばそうとはしなかった。


 決断を下さなければならないと知りながらも、逃げ出したい感情が足を一歩後退させる。だが、同時に右手が肉片を掴みとろうと不思議と前へ伸びる。生きたいという当然の欲求と食人に対する倫理観に挟まれ、ヒトミは身動きが取れなくなってしまう。

 自分の記憶とはまったく異なる価値観の中の世界で、果たして自分の考えなど正しいのだろうか。そもそも、偽りの記憶に判断材料に足る価値があるのだろうか。拭きれない疑惑はヒトミを苛ませる。

『分からない』がぐわんぐわんとヒトミの頭の中で回り続ける。何度言葉を掻き消そうとも、それは輪廻のように繰り返し誕生する。まるで、腐臭に集まる小蝿のようだ。鬱陶しさより、気持ち悪さをミナは感じた。


 肉に伸ばしかけた右手は枯れた花のように萎む。また咲こうと震える手は二度と開花することははなかった。それを見たミナは特に喜んだり、がっかりするような様子なく、鉄仮面のような無表情をヒトミから背けただけだった。


「あの……」

「別に今食べなかったからと言ってすぐ死ぬわけじゃない。お前の覚悟が決まってからでいい」


 ミナは忌避されたヤコを口に放り込んだ。乱暴に噛んだあとゴクリと飲み込む。喉を通過する固形物の動きを、ヒトミは忘れることはないだろうと思った。

 だが、それがヒトミに一つの質問を呼び起こした。月光に照らされた白いナイフと真紅の血飛沫の映像が刹那過る。ヒトミの口はわなわなと震えながら開いた。


「……一つ聞いてもいいですか?」

「なんだ」

「どうして、あのとき、同じように説明してくれなかったのですか?」

「……私なりの配慮かな。お前はあのとき、冷静な説明を求めていなかった」

「どういう意味です」

「お前は振り上げた拳の下ろす先を見つけられなかった。ヤコが死に、仇も共倒れ。憎しみや悲しみをぶつける相手がいなかった。私以外はな」


 自分ですら知らない心理の推察が当たっているようで、ヒトミの顔は勝手にを引きつった。


「だから抵抗しなかったんですか?」

「この痛みはいずれ消えるが、心の痛みは絶対に消えない。安いもんだ」


 嘘だとヒトミは思った。初めてとはいえ、本気でミナを殴ったのだ。痛くない訳がない。


「強がりを言わないでください。痛いものは痛いんですよ! 安いとか高いとか――」


 そうかもな、とミナはヒトミの言葉を不自然に切った。


 また、あの目だった。何も映さないはずの伽藍堂とした真っ黒な瞳孔なのに、温かみで満ち溢れている虹彩は明白な矛盾を作り出していた。ヒトミの口はキュっと結んでそれ以上は語ろうとはしなかった。


「でも、もういいんだ。あれは良い痛みだった」


 良い痛みなんて存在しないと心の中で反論していたが、実際に口に出すことは叶わなかった。なぜか、ミナは少し嬉しそうで、苦しそうに口角を上げていた。

 初めて見せたミナの感情らしい感情に、ヒトミはどう反応すればいいのか判別できなかった。だが、僅かに、ニオの言っていた『ミナの優しさ』を明示的に目撃したように感じた。


 その優しさは間違いだと指摘できず、ヒトミはミナに背中を向ける。

 暖かな炎の熱を感じながら、ヒトミは地平線から飛び出した弱々しいオレンジの太陽の形を、その瞳に焼きつけていた。だが、その太陽の色がマリーゴールドの色に酷似していることには、ヒトミは気づくことはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瓦礫の流星 秋野 三郭 @Akino_Mikaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る